<原形動詞はカテゴリーか実体か>
前回の投稿質問<概念が情感を喚起することがあるか>の続編です。今回は、モノの概念ではなく、動きの概念の場合について考えてみます。始めにおざっぱに説明を進めます。おかしなところがあれば御指摘をお願いします。
足を交互に進めることによって地面の上を移動する人間の行為は抽象化されて<歩く>行為と名づけます。これが<歩く>という概念です。walkという原形が使われます。
<歩く>という概念はカテゴリー的行為です。次のA,Bにおいては、現実に誰かが歩くことを表現しているわけではありません。
A: to walk is to move forward by putting one foot in front of the other (Macmillan)
B: Walking in the park refreshes us a lot. / It refreshes us a lot to walk in the park.
ところが、<歩く>という概念が時間と空間という2つの形式によって実体化された時、(実体化というのは時間と空間を持つ、すなわち現実に行われるということです)、概念である原形のwalkに代わって、その外延であるwalk(現在形), walks, walkedやwalkingが使われます。さらに、Cにおけるように、歩くことによって得られる空間的実体(距離)と時間的実体(所要時間)を表現することができるようになります。
C: I walk an hour to my office every week day. において、空間的実体はto my officeによって、時間的実体はan hour によって表されています。時間的実体はto my officeによって暗示されているとも言えます。今回は時間に焦点を絞って話を進めます。
Cにおいて、原形のwalkは現在形です。現在を中心にしていつでも成り立つことを表現できます。このように、概念である原形動詞は過去形や現在形を使ったり、推測・可能性や意思を表す助動詞を使ったりすることによって、実際にそうした行為が行われる時の具体的な時間を表現できます。さらに、完了形や進行形を使うことによって動作の諸様相を表すことができます。要するにテンスとアスペクトにおいて具体的な時間が表現されるということです。
ところが、概念を表す原形動詞がカテゴリーと実体の両方を表す場合があるように見受けられます。
D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy.
walkは外延ではなく原形です。原形であればカテゴリーを表すはずですが、ここでは、実体を表す、つまり実際の行為を促しているように読み取れます。walk a lotという行為をある程度の長時間行うように、それも発話時より以後の時点以降において行うように具体的に忠告していますが、実現の可能性は十分あります。というか、実現することを念頭に入れた発言だと言えます。
では、カテゴリーを表せないのかというと、前回の投稿<概念が情感を喚起することがあるか>と前々回の投稿<概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合>でも述べたように、概念が実体を表す時は同時にカテゴリーをも部分的に表しているはずです。Dにはrather than to use a carが省略されていると考えればカテゴリーを表すと考えることができます。
このように、原形動詞にはカテゴリーと実体の両方を同時に表す場面が存在することは明らかです。前回の<概念が情感を喚起することがあるか>においては、こうした場面においては情感が表現されることが可能性として存在するのではないかと問題提起をしました。その時に言及した概念は無冠詞名詞が表す概念でした。今回は原形動詞です。なお、限定詞(決定詞)システムと名詞との関係は時制システムと動詞との関係と同じであるという見立てです。
E: You should take a walk every day to keep yourself in good health.
において、take a walkは概念を表します。ここでは行為の実体を表しているように見えます。行為はまだ実現していませんが、聞き手に行為の実現を促すものなので、実質的に実体を表していると言えるはずです。
でも、take a walkはカテゴリーを表しているとも言えます。無冠詞名詞の場合と同じように情感を表す可能性を持つのでしょうか。これが今回の私の問題提起なのですが、前回の質問と同様、文脈や状況との絡みは脇にどけておいて考察していただけるとありがたいです。
よく見ると、この文では法助動詞が使われています。法助動詞にはmodalityが存在します。modalityは話し手の主観的態度を表すものです。その中には、懇願とか警告とか勧誘とか依頼とか疑問とかがあります。そうしたものの表明がどういう文法的状況においてなされるかということを鑑みた場合、情感の言語的発露は法助動詞と原形動詞の組み合わせによってなら可能であると言っていいように思います。ついでに言うと、命令文やその他のmodalityを表現する構文も法助動詞と同じ働きをすると思います。
modalityを表現する構文には例えば次のようなものがあります。
F: We advised my daughter that she be more quiet when we are with guests.
イギリス英語ではshould beが使われるのが普通ですが、アメリカ英語ではbeも使われます。
G: It is surprising that he should say so. (原形は使わないようです)
surprising は感情を表す形容詞です。他に、astonishing, sad, regrettable, shocking, curious, queer, strange, embarrassing,などいろいろあります。
It is a pity / a shame that ----という構文もあります。
そもそも、言語使用者が概念を形成する際に、同時に<もの>の、あるいは<動き>に対する知覚が行われなければなりません。その時、同時に情感の相においても認知行為が行われているはずだということは、前回の投稿<概念が情感を喚起することがあるか>と前々回の投稿<概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合>においてすでに主張しました。人間は知覚的相(感覚器官の働きによる)においてモノを観察するが、同時に、情感的相においてモノに心を開いていると言えると思います。
法助動詞の使用時に何らかの心的状態(懇願とか警告とか勧誘とか依頼とか疑問とか)が表明されますが、そうした心的状態は突然生まれるわけではありません。何か困惑することがあったり、心配事があったりして、それに対応するように命令や懇願が行われるわけです。また、人間の心中の気分や感情は単独で存在できるものはありません。だからこそemotionsやfeelingsという言い方がなされます。何かを懇願する時、さまざまな情感(心配や不安や期待感など)をも伴っているものと考えなければならないと思います。
"Watch out." とか"Be careful." とか"Let's enjoy playing soccer." と言うとき、モダリティーということで言えば、警告や勧誘が表されていると言えるのでしょうが、さらに心配そうな感じやうれしそうな感じも含まれていると思われます。May you be happy forever. には様々な気持ちが表現されていると思います。
もう一つつけ加えておきます。情感はモダリティーを表す表現と原形動詞の組み合わさった時に表出可能なのではないかと言いましたが、私の考えでは、モダリティーを表す表現と共起しなくても原形動詞だけでも(実体とカテゴリーの部分を表現しさえすれば)情感を喚起できるのではないかと思います。その上に、モダリティーが伴えば情感の喚起が促されやすくなるということなのではないかと思います。
D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy.
において、toldをadvisedに代えればモダリティーが表明されやすくなりますが、toldであっても文脈と状況次第ではモダリティーの表明は可能だと思います。気持ちを押し包んで(advisedという動詞を避けて)toldを選択したということもありうることだと思います。いかがでしょうか。