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夏目漱石の「三四郎」を読んだ事のある人へ

夏目漱石の「三四郎」を読んで、 (1)広田や与次朗、画家の原口が美禰子を「イブセンの女の様な処がある」「心が乱暴」「西洋流」と証しているのは、何故だと思いますか? (2)そんな男たちの予想に反して、平凡な見合い結婚をした美禰子の内面にはどのような葛藤があったと思いますか? (3)美禰子は野々宮や三四郎に対して、漱石が当初描こうとしたような「無意識な偽善家」-----ほとんど無意識的に、天性の発露のままで男をとりこにする女性-----として振舞っていたと思いますか? 以上三点が私の質問なんですが、(1)・(2)・(3)のすべてに新しい女、迷羊(stray sheep)、「われは我が愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」という三つの言葉をすべて使って答えて欲しいです。 (1)・(2)・(3)全部答えて欲しいとは言いません!どれか一つでも結構です。よろしくお願いしますm(_ _"m)

みんなの回答

noname#107878
noname#107878
回答No.1

 「三四郎」は若いころから何度も繰り返し読んだ大好きな作品のひとつですが、ここでご回答を書けるほどその奥底を洞察できるほどではありません。ですが、ここでは稚拙ながらわたくしなりの考えを書かせて頂きます。 (1)新しい女。。。  イプセンといえばやはり「人形の家」のノラでしょう。彼女は家の鍵を置いて家を出て行きます。錠前の鍵には古くから「市民の鍵」や「執事の鍵」などといったいろいろな象徴性が見られますが、中世から近代のヨーロッパでは「主婦の鍵」もまたそのひとつとして広く見られました。  結婚とともに夫は妻に鍵を渡します。鍵を預かった妻には、家政や家計、あるいは使用人の処遇といった一切について夫と同等の権限が与えられます。しかし、ノラはそれでもなお夫に隷属し家庭に縛り付けられることを嫌いました。そこには女であろうとも一個の人間としての尊厳と自由と平等を求めたからでしょう。  たしか(自信はありませんが)「三四郎」が書かれたのは明治34年頃だったでしょうか。その当時の日本女性は主人にかしずき仕えることこそが美徳と考えられていた時代、そんな時代にあって美禰子には心の底にノラと似た真情を抱いていたのではないでしょうか。  男性に隷属することなく、むしろ立派に伍して人生を送りたい、そうした心情を心のどこかに持った「新しいタイプの女性」、今風に言えば「飛んでいる女」とでも言うのでしょうか。  考え方も先進的なら、コケットをあえて隠すでもなく、ドライで奔放、廣田先生はじめ男性諸氏の目には、随所に顔を見せるそんな美禰子の心情は、たぶん、本来女性に期待すべき美徳と道徳観をまるでスポイルするかのような、まさに野望を抱いた女とまでに見えたのではないでしょうか。  漱石は西洋の女性のあり方や生き様を実際に目で見て知っていました。そこには目新しく伸びやかで魅力的な女性像とともに、その乱暴とさえ思える明け透けな闊達さに一種の戸惑いも。それをそのまま「西洋的でイプセンのような、どこか乱暴な」美禰子という女性像で表し、男性諸氏が当惑する姿でそれをさらに鮮明なものに浮き上がらせたのではないでしょうか。 (2)stray sheep。。。。  それでもなお美禰子はノラと大きく違う点を持っています。ひと口に言えば美禰子は二面性を見せています。 一方で「西洋流の乱暴さ」を見せながら、他方で性差や封建制を是認し古くからの考え方から抜け出せない普通の女性の美禰子でもあります。広い外界に飛び立ちたい美禰子、なのに、ごく平凡な結婚を是認し夫に仕えることこそ女の幸せとも考える美禰子。このような心情は何時の世にも女性にはあるものです。  こうした「女ならではの二面性」、これを意識したとたんに美禰子はストレイ・シープになってしまいます。余談ですが、こうした女性が、誰しも、何時の世でも、持つ心情を男性の身であますところなく書き表したところに漱石ならではの素晴らしさがあると思います。 (3)われは我が愆を知る。わが罪は常にわが前にあり。。。。  「無意識な偽善家」、これこそ女なんです。これはしっかり理解出来ます。「女ならではの原罪」と言ってもいいかと思います。  たしか美禰子が三四郎に貯金通帳を渡して「全部お使いなさいな」というシーンがあったと思います。女性からこんな風に言われたら男性諸氏はどんな感じを受けますか。これだけでなく、廣田の書籍を整理するシーンだとかあちこちで美禰子は三四郎に思わせ振りな態度を見せます。しかも他方で野々宮にも、さも・・・といったコケットで。    こうした振る舞いというものはけっして無意識でするものではありません。といって、ちゃんと意識し計算してのことでもありません。こればかりは大変抽象的ですので文章で上手く表現出来ないのですが、男性を前にすると、半ば反射的に、半ば半意識的に、思わせ振りな態度を示し、それで自分をアピールしようとする。  そして男性たちがこの自分に憧れの目を向けることに喜びと快感と満足を覚える。これもまた女性なら誰にでもある傾向でしょう。まして多少容貌に自信でもあればなおさらのこと。  しかし「ほとんど無意識的に、天性の発露のままで男をとりこにする女性」かと問われると、どこか、なにかが違っているように思えてなりませんが。  ともあれ、このような無意識ではなく立派に我が心に覚えのある行為、女性独特の心理、これこそ聖書の言葉通り「われは我が愆を知る。わが罪は常にわが前にあり」と)美禰子に原罪意識を持たせていたのでしょう。  もっと下賎な表現で美禰子に言わせれば「みんな分ってやっていたことなんです。それでいながら、なにも分ってはいなかった。私自身どうしようもなかったんです」と。。。  

osumai
質問者

お礼

ほほぅ!!なるほど!!私は一回だけ読んだだけなんで記憶は定かではありませんがよく分かりました! もぅ一回読んでみたいです。大変参考になりました。 変な質問に答えていただいて感謝です。ありがとうございますm(_ _"m)

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