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江戸時代の服装

侍の服装で”裃”の話ですが、江戸初期と中後期では大きく意匠が違うようです。 理由をご存知の方はご教示下さい。

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  • Bird1979
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回答No.1

こんばんは 「意匠」が形式なのか、デザインなのか、ちょっとわからなかったので、的外れのレスになるかもしれませんが・・・  武士の服装は、TPOおよび身分によって事細かく「服制」として定められていました。  「裃(上下)」は、肩衣と袴のセットで構成される、殿中における武士の正装ですね。  これには、将軍ほか諸大名・御目見得以上にのみ許された長裃(袴の裾の長いやつ)、くるぶしまでの(一般的な)半裃、肩衣と袴の柄・素材が違う継裃の三種があります。  小袖も、一定身分以上の武士は「腰替わり熨斗目」といって、腰の部分だけ縞模様を織り出したものを着用し、身分・役職によって異なります。それ以外は、「服紗小袖」を着用します。  さきの「継裃」は、一種の「略装」ですが、熨斗目小袖を認められた者以上のみが許され、仙台平・茶宇・桟留といった柄の袴を着用します。  裃の「肩衣」にも形や大きさなど流行があったようですが、ゴメンナサイ、詳しいことはわかりません。  デザインには中期以降は「江戸小紋」が、それぞれの大名の間で「自己主張」的に使われたそうです。  江戸小紋については、参考URL貼っときますので、御参考に。  こうした裃も、世情騒然とした幕末には、裃を廃止して羽織・袴での登城を認めるようになります。  http://www.tokyo-somemono.com/img2/edokomon.htm http://www.kimono-server.com/wasomenu/jyosei/edokomon.htm http://www.jttk.zaq.ne.jp/kimono/edokomon.html

gc14
質問者

お礼

有難う御座いました。 大変参考になりました。

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