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味噌屋と醤油屋
江戸時代などで味噌の醸造屋をするかそれとも醤油の醸造屋をするかの分岐点・分かれ目は何なんですか?
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味噌屋と醤油屋の分岐点は、やはり原料入手や製造用の設備(桶)の製作技術にあったのでは? 原料は大体共通の様ですが、固形の味噌と液体の醤油では自ずから使用量、種類が異なります。 使用する桶の大小、販売用の容器も異なると思います。 醤油用は大きい桶が必要でこれを製造する用材や技術の確保が容易かどうかが決め手になったのでは? また醸造期間は年単位ですから資金の回収は味噌の方が長期間待たねば成らず、(味噌は2~3年と長い) 資金力を要したはずです。 このような点が分岐点ではないでしょうか?
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- code1134
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(NO1~NO3の)3人のカキコみに屋上屋を重ねる形になりますが、製品としての醤油と味噌に、言及したHPがありました。 http://www.soysauce.or.jp/ http://www.miso.or.jp/dictionary/history/index.html 又、醤油の大元の"ひしお"を(残る発酵食品の)納豆との関連で言及した、のが下記のHPです。 http://yamadafoods.co.jp/siryou/ronbun10.htm ご参考迄に・・・
お礼
参考サイトありがとうございます。
- shigure136
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味噌とも醤油ともつかない「醤」(ひしお)に中国伝来の味噌の製法を取り入れた結果、味噌が開発されます。 その味噌造りの最中に「醤」が「溜り状態」になり、その「溜り」から滲み出した液体が「醤油」となったようです。 詳細は以下に記してあります。ご一読を。 しょうゆのルーツは、古代中国に伝わる「醤(ジャン)」であるといわれています。これはもともと原料を塩漬けにして保存したことから始まったもので、果実、野菜、海草などを材料にした「草醤(くさびしお)」、魚や肉を使った「魚醤(うおびしお)、肉醤(ししびしお)」穀物を原料とする「穀醤(こくびしお)」などがありました。しょうゆはその中でも米・小麦・大豆を使用した穀醤が原型と考えられています。日本に「(ひしお)」として伝わったのがいつ頃なのかは明らかではありませんが、大宝律令によると、宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされています。この「醤」は今でいうしょうゆと味噌の中間のようなもので、宮中宴会などで食卓にのぼっていたようです。 その後、信州の禅僧・覚心(かくしん)が1254年(鎌倉時代)に中国から持ち帰った径山寺(きんざんじ)味噌の製法から、味噌づくりが開始。紀州・湯浅の村人にその製法を教えているうちに、この醤からしみだす汁がとてもおいしいことに気づき、今でいう「たまりしょうゆ」になったといわれています。 紀州・湯浅で生まれたしょうゆの製法はその後も発展。1580年ごろ(天正年間)には、日本で最初のしょうゆ屋さんと思われる玉井醤が、みそ・しょうゆ業を始めたといわれ、1588年(天正16年)には、紀州から100石(約18000L)のたまりしょうゆが大阪に送られた記録が残っています。このころには大阪の町人衆の間では、しょうゆはすでに日用品であったとか。一方関東では、しょうゆは伝わっていたものの製造には至らず、上方(関西)から運ばれてきたものを使っていました。都から運ばれることから「下りしょうゆ」と呼ばれ、珍重されていました。 「醤」のなかでも、直接しょうゆに結びつくのは「穀醤」ですが、特にその製法が唐から伝わった「唐醤」は、大豆からつくると解されています。『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅしょう)の醤の項目には、「別に唐醤あり、豆醢(まめびしお)なり」と記され、大豆を加熱処理した後、麹、塩、水を加えて粥状にし、発酵させたものと考えられており、初めはしょうゆとみそがはっきり分かれていなかった、と推測できます。 また、平安中期に書かれた『延喜式』では、「末醤」「味醤」を「みそ」と呼び、醤(ひしお)が発展したものと考えられます。末醤はその後16世紀に「味噌」(噌は日本の造字)となった、といわれています。 鎌倉時代になると、しょうゆの元になったと考えられる調味料「溜」(たまり)が現れます。1249年(建長元年)信州の禅僧、覚心が宋に渡って修行し、1254年(同6年)帰朝して「径山寺(金山寺)みそ」の製法を持ち帰り伝えたとされています。 その製法を紀州・湯浅の村人に教えているうちに、桶の底に分離した液(上澄みとの説もあり)が溜まり、それで食べ物を煮るとおいしい、ということを発見したといわれています。 “桶の底で分離した液”は、湯浅で売り出されたということですが、この時代、まだしょうゆとみそは完全に別物ではなかったようです。現代の紀州・湯浅しょうゆは、この系統をひくものと伝えられています。また、しょうゆの発祥については、奈良とする説もあります。 室町時代初期になると、京都五山僧徒の間で発達した割烹調理の法が、奥秘として四条・大草両家に伝わり、みそからつくる溜しょうゆ状のもの、つまりしょうゆ様の調味料が使われはじめます。色利(いろきき)・垂れみそ・薄垂れ・ひしおいり、などがそうです。 なかでも代表的な「垂れみそ」は、「みそ一升に水三升五合をまぜ、煮詰めて三升とし袋に入れ、それを締めて垂らした液体」という記述が残っています。 <歴史のこぼれ話> 鎌倉から室町前期にかけて登場した、「溜(たまり)」「垂れみそ」「薄垂れ」などの塩味の調味料は、いずれもしょうゆに似ていますが、まだ「醤油」という名は使われていませんでした。またこの時代の溜が現代のものと同じであるかどうかは明らかではありません。 日本の文献のなかに、初めて「醤油」という文字があらわれたのは1597年(慶長2年)に刊行された『易林本 節用集』(えきりんぼん せつようしゅう)のなかです。このころになるとしょうゆは、各家庭にも広まってきたと考えられます。 『節用集』は室町時代に成立した国語辞典のたぐいで、通俗、簡便で実用向きという特色があり、これに「醤油」がとりあげられているということは、みそから分化したしょうゆが、庶民的な調味料になっていたことがうかがえます。しかし残念なことに、この時代の製法を伝えた記録がなく、「溜」「垂れみそ」「薄垂れ」など、製法上でどのような違いがあるのか確認することはできません。 いずれにしても『節用集』にあげられた醤油は、現代の「濃口しょうゆ」とは違い、かなり「溜しょうゆ」に近いものだったと推定されています。
お礼
歴史的にみると醤油は味噌の副産物と言ってるみたいですね、どうもありがとうございます。
- 6dou_rinne
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醤油は江戸時代の前期にはまだ関東では作ることが出来ず上方からの下りもの商品でした。 江戸時代中期になってやっと関東でも醤油を作ることが出来るようになりましたが、資金や技術が必要でした。 ですから醤油屋をするためには技術者を雇用したり設備の投資も必要であるていどの資本が必要でした。
お礼
どうもありがとうございました。
お礼
商品が固体か液体かもキーとなると言うのですね、どうもありがとうございます。