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英語教育問題 教師養成編

The Grammar Book: An Esl/Efl Teacher's Course Practical English Usage「オックスフォード実例現代英語用法辞典」 Garner's Modern American Usage Fowler's Modern English Usage A Practical English Grammar,「実例英文法」 A Communicative Grammar of English 驚いたことに ESL/EFL で定番の上記文法書が優秀な英語教師を輩出している外大の推薦図書にもなっていないという。日本では日本式英語で教員養成をしているらしいのです。 文部科学省は、英語力向上に不可欠として、教師の英語力向上を謳っており、一般社会もそのような考えに引きずられているように見えます。しかし、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=414224 #3. eliot55さんが「日本の高校生用の受験文法書とは距離をおくことをおすすめします。あれらの本のほとんどに古い、あるいは間違った英語が色々と載っています。」と仰るように、日本式英語で育った英語教師が間違いに気づかず、あるいは仕方なくそれに従った結果であり、旧国立大学、センター入試も、それに貢献し続けたのではないかと疑っています。もし、日本の英語教育が正しいものであれば、英語に堪能な人と日本式英語の専門家が対立するようなことはなかったはずです。 確かに、欧米のものは日本人に向いていない面もあります。しかし、欧米の文法用語に対して対応する日本語がALC 英辞郎に存在しない状態、つまり文法の捉え方自体が日本式であることをうかがわせるのは異常なように思えます。 1.なぜ、英米の文法用語に対する日本語訳がないのですか? 2.英米の文法書を英語学習(教員養成・英語教育)の基盤に据えることについて、ご意見を賜りたいと思います。

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noname#20688
noname#20688
回答No.1

ご質問の趣旨とズレていましたらすみません。 私は英米人向けの日本語の教材を使ったことがあるんですが、文法の説明が私たちが国文法を習ったのと違いました。ですから、英米の大きな和英辞典にも「未然形「未然形」とか「連体形」のような用語は載っていませんでした。これと似ているんではないでしょうか?しかし、中国や韓国ではどうなのか事情は知りませんが。 英米の文法書を英語学習(教員養成・英語教育)の基盤に据えることについてですが、これは江戸時代末期からオランダ語に代わって英語を研究していた足跡と 実用に重点を置き、ネーティブの文法書を使うという 新しい波の2つの派閥があるということだと思います。 ちなみに私はフランス語が得意なのでフランス人向けの英文法の本を愛用しています。確かに文法の捉え方が日本のとも英米のとも違いますね。例えば look afterのafterをpostposition(後置詞)と呼び、 particule adverbial (副小辞)の一種と捉えています。

taroandjiro2001
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かに、日本語教育では日本では見られない用語が使われているようですね。それと日本の英語教育と同じく、辞典の間違いも多いようです。向こうの学習者も、上級者、研究者となると日本式に変えるのでしょうか。今は、彼らも簡単に日本人に質問できるので、ずいぶん、学習環境も変わったでしょうね。 文法ですが、江戸時代以来の伝統英語学だったんですね。知りませんでした。昔と違い、インターネットや、交通手段の発達で、世の中が変わってしまったんですね。 ありがとうございました。勉強になりました。

taroandjiro2001
質問者

補足

補足です。質問時、800字制限のため、不注意に文章を削ったので論旨がおかしくなっていました。 「英語力が向上しなかったのは教師個人の問題ではなく、英語を複雑でより判りにくくしていたのは文部科学省(国立大学入試、外大含む国立大学など)の方ではないか」ということです。

その他の回答 (2)

回答No.3

Gです。 補足を読ませてもらいました。 >1970年代以降、教える側、研究者の側の情報量は飛躍的に増大したはずなのに、と考えてしまいます。 同感です。 使われている表現に対して「ありえない」「正しくない」などといまだ思っている人がいるのは大変「悲しい」事だと思います。 日本式の文法の絶対性に洗脳され優等生として生きてきた人たちにとって、英語は言葉である、と言うことを「いまさら」認めるのは大変難しいことなのではないかと思います。 伝統空手で洗脳された私が今の日本での空手を認めたくないと感じるのと同じことなんだと思います。 私が今、今の日本の空手を認めると言うことは今までやってきたことのほとんどを捨てることになりますね。 同じ事を英語に関してすることが個人のレベルで難しいと言うことになるのかもしれません。 しかし、この3年半ちょっと、何を言われようと英語カテと格闘技カテで私がこれからの人たちには絶対必要だと確信も持って書いてきたつもりです。  なぜなら日本式文法をやったからと言って一言でも英語を使えるようになったと喜んでくれる人があまりにも少ないです。 日本人の一人でも映画が楽しい、友達が出来た、通じてよかった、そして、もっと英語を身につけたい、と思ってくれれば私の人生で「やってきてよかった」と安心して死んでいけるはずだ、と信じています。  ご質問とは離れますが、私は「有名税」の一部として、またリスクをしょっていると言うところからも、いつかは殺される、と感じています。 今日からその日までしかないのです。  >英語を一層難しくさせている日本式英語の拡大再生産にブレーキをかける時がきていると思うのです。 私はブレーキになりたいと思いながら書いているつもりです。 犠牲者と言う過激な表現をしてでも誰かに目を開いてもらいたいのです。 >教員養成において日本式英語を教え、それを生徒に教えさせる、「受験英語」を維持し、絶対にその轍から逃れられないようにしているのは、「文部科学省」自身なのだと思うのです。 私が言う教育委員会です。 教えられない教員を作ったのはその教育自体に「一億日本人が英語を使えるように教育する」と言う目的がないのです。  >これは構造的な問題だと強く感じます。 そういうことなのです。 しゃべれない英語教師が存在するということは組織がそれをOKしているということなのですね。 特に格闘技のカテでは指導員の養成がどんなに大切なのか、また、事実、アメリカでの教えられる指導員養成(英語で言う「教えられる教師養成」ですと言うレベル)に私自身も力を入れている事とまったく同じ事を日本でも誰かがしなくてはならないのです。  I Japaneseという表現をするとブロークンだ、正しくない、文法が間違っている!と批判しますね。 しかし、同じ人がI am Japan.と言えば文法的に正しいですし、また、この文章を使える状況だってありますね。 しかし、一般人がI Japaneseと言った方がI am Japan.と言うよりも「フィーリングが伝わる確率は高い」のです。 極端なはなし、Me Japanese.と言う自己紹介をずけずけと言える日本人の方が英語を使えるようになる可能性が高いのです。  そして、こちらで帰化したので「元日本人」と言うことで、I was Japanese.と言うamが持っていないフィーリングをwasで示すことで言おうとすることがちゃんと通じるわけです。 しかし、受験英語と言うものに縛られ仕方なく青春を無駄にしてでも勉強しなくてはならないのは、結局日本の政府ががんばりぬいていないと言うことです。 しかし、昨日書いたように、作り上げてしまってからでは築き上げた土台から作り直さなくてはならないと言うとてつもない試練を日本の政府は作ってしまった、と言うことなのです。 おかしいぞと言われ始めた70年代にしっかり土台変更処置をやっていればこの30年には何できたはずです。 小学生から教えれば大丈夫だ、なんていう理論はどこから来たのでしょうか。 今中学生が後の犠牲者にならないと言う実績を作った後なら小学生でも幼稚園からでも教えることは良いことでしょう。 しかし、根本的なことがかわらない限り、これから10年20年たっても「留学しなければ英語は身につかない」と言う錯覚に陥っていることでしょう。 しかし、今年の犠牲者が「大学を卒業したのですが英語がまったく分かりません」といいながらも結婚して子供たちの将来を考えれば、政府に圧迫をかける機会も出てくると思います。 また、このカテの様に、「感覚的に感じるだけですけど」と回答することがまったくおかしいことではないと一般に言われるようになると思います。 そして、もっともっと多くの人が今の英語教育はおかしい、子供には使えるようになってもらいたい(70年代でも私の両親のように思っていた親御さんはいましたね)と言う願望が必ず強くなると思います。 しかし、私は個人のレベルでは個人のレベルで、特に学業を終えた人たちには、受験英語からはなれて英語の勉強方法を理解してもらうしかないと感じています。 政府を批判するだけではなく、このカテは大げさに言うと、「このサイトは英語教育に大きな貢献をした」歴史的な場所を作ってくれたと信じています。 確かに教育方針、方法を改善することは難しいことでしょう、また時間もかかることでしょう。 しかし、ただ、われわれの英語教育に対し批判が多くなったから何かしよう、何かやっていることを見せる必要がある、としか感じている以上、根本的なところは改善されないと思います。 しかし、誰か、この問題を強く感じる官僚が出てくれば何とかなる、何とかなったはずと私は思うわけです。 政府は頭のいたい課題を持っていると感じていると思います。  これから社会に出て行く人たちのひとりでも、また、すでに社会に出ている人の一人でも「英語は言葉だ」と言う事が分かって欲しいです。 最後に、「使える英語科目」と「受験英語科目/英語学科目」とを中学/高校/大学から選択英語科目としたら、選択する生徒の比率はどうなるかな、と思ってしまいました。 このカテの常連の方々がこれに書いてくれることを願っています。 少しでも日本人のための英語教育の改善が早くなることを祈りつつこの回答を終わりにさせてもらいます。

taroandjiro2001
質問者

お礼

ありがとうございます。 21世紀になって、やっと大勢の人が本当の英語と受験英語、学校英語の違いをはっきりと自覚しだしたわけです。Gさんの経験されたその経験がそれを物語っているわけです。 もちろん、当初より受験英語、学校文法の間違いに気づいている人はいたわけです。上級者なら英英辞書、洋書の文法書を使うようにアドバイスする人はいたのです。しかし、大勢の人は習い憶えたことに従順でした。子供の頃より習い、周囲もそれをと正しいしてきたことに疑いは持ちにくいのです。人間にはそんな性質があるからです。日本人には日本人独特の思考があっても、日本の中では誰もそれに疑問を持たないのと同じことなのです。 そんな状況が決定的に是正されたのは、Gさんが仰るとおり、わずかこの1-2年です。あまりに悲しい現実ですが、日本においては、教員養成と生徒教育の両面において、20世紀のやり方を改めなければならないことに、21世紀になってようやく、我々日本人はそれをはっきり認識できるようになったわけです。 アスベストは以前から危険性が指摘されていたのに、やっと昨年、日本人の大半がそのとんでもない危険性に「目覚めた」のと同じです。 話は変わりますが、最近、私は茶道、空手道などの伝統的修業が結構良いものではなかったかと思うようになりました。1960-70年代は人間がその嗜好に基づいてそれらを否定しましたが、人間は「自我を捨て」て、その世界に没入する、自分の意見を抑えて黙って師匠に習うというのが、現代人(人間)にとって非常に難しいものであり、その故に、一層、その手法が人間形成に役立つものではなかったのかと考えるようになりました。 アメリカ人などに、日本の持つ、精神重視の文化を讃えられて気づいたのですが、「勝つ、負ける」「強い、弱い」という世俗的価値より、もっと大切ななにか、目には見えない人間の内面を鍛える、心を重視するのは、とても素晴らしく魅力的に見えます。 また、何かの機会に。 ありがとうございました。

回答No.2

遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。 日本式文法(日本の文法、と私は言ってきていますが)と私も分けて考えています。 先月の仮定法とSubjunctiveの件でもお分かりのように、こちらの文法をそのまま取り入れていません。 昔はそれでよかったのでしょう。 (少なくとも日本式文法・解釈に関して云々言う人がいなかったのですともいえるかもしれません) そして日本式文法を形付けるためにこちらとは違う「基盤」を作ってしまったわけです。 つまり、ひとつの例として述べると、Subjunctiveを今から追加するとか、まず辞書・参考書を書き換える必要が出てきますね。 仮定法と言うものをどうするかと言うことになるわけです。 先日も書きましたが、サブジャンクティブなどのようにいっそのことカタカナですべて表現してしまうことも考えられますが、文法の基盤を変えることになりますね。 よって、いったん作り上げられた(完成に近いものとされた)ものに、こちらの文法用語をいまさら日本語訳に直すととんでもないことになるわけです。 政府の力で強制的に変えて成功したメートル法は、逆に、こちらではほとんどと言って基盤を変えることはいまだできていません。 日本には試験があり、こちらでは業界圧迫があると、結局変えるのは難しいものと考えるのでしょう。  日本語からの理解と教育判断をしてできた初期の文法用語はどうしても新しく作る必要があり、そう教えることが異国語としての文法をその当時分かりやすくしたんでしょうね。  しかし、今ではその「日本独特に」日本人の一部のために作り直した文法の基盤が壊れつつあると思います。 英語はもう一部の「教養人」が習うことではなくなり、先生が言ったからといってもつじつまが合わないところが目立ってきたのでしょう。 それだけ日本には英語の基盤を無意識に理解する人が多くなり、文法自体が追いつけなくなってしまったと言うことなのではないでしょうか。 ただ、だからといって私個人はこちらの文法(国語文法)が今の時代に生きていくのは難しいと思いますよ。 こちらではあくまでも学校文法、と言うあだ名が付いていますね。 つまり、日常一般人にとって、文法とは学校の英語の時間のお勉強、ととるわけです。 自分が使っている英語の個人的に解釈され頭に作り上げられた個人文法とは別なものと考える人がいるわけです。 国語文法に関してもうすっかり忘れてしまった日本人の大部分がいるのと同じように、こちらでは学校で習ってきた文法は実際からちょっと外れている、と言う表現をするのは仕方ないと思います。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

taroandjiro2001
質問者

補足

明けましておめでとうございます。いつもお世話になります。こちらこそよろしくお願いします。 仰るとおり、情報が極端に制限されていた頃は日本式で教える外なかったのでしょうね。しかし、1970年代以降、教える側、研究者の側の情報量は飛躍的に増大したはずなのに、と考えてしまいます。また、洋の東西を問わず、「学校文法」と現実が大きくずれているのも確かで、「二重否定」を文法家は「肯定」としていることや、"one of 複数名詞 that 単数/複数動詞" でも、実態は文法の説明とは大きく異なっており、EFL学習者にとっては判断できかねるものがあります。いずれにしても、「国語文法」以上にずれているために英語を一層難しくさせている日本式英語の拡大再生産にブレーキをかける時がきていると思うのです。 教員養成において日本式英語を教え、それを生徒に教えさせる、「受験英語」を維持し、絶対にその轍から逃れられないようにしているのは、「文部科学省」自身なのだと思うのです。最初は、なぜ、日本には文法オタクがたくさんいて、おかしなことを言っているのだろうとしか思えませんでした。ですが、これは構造的な問題だと強く感じます。私はここに「薬害エイズ」と同じような官僚支配の構図を見るようになりました。 「本当の英語」を知るために苦しんだ一人ひとりが声を上げれば、世の中は変わると思います。Ganbatteruyoさんの努力はもちろん、Ganbatteruyoさんの言葉がどうしても受け入れられず真の英語を知ることに時間がかかった人も、後に続く人たちがそんな回り道をしなくて済む方法が見えてきたと思います。(ESL/EFLで習う英語と現実の英語とのギャップもあるようですが、文法に従っている限り理解してもらえるはずです。) 1/13 10:10

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