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我去年不会喝酒([生理的な原因で]私は去年はお酒が飲めなかった)
●不能と不会 文法書によると、日本人にはない区別感覚ですが、 日本語では同じ「できる・できない」と表現する場合であっても、 ○会:自分次第で決まる原因により「できる・できない」 ○能:自分ではどうしようもない外部的な原因により「できる・できない」 という区別があるとのこと。 また、外部的な原因には、言語を聞く読む能力などの生まれもっての本来的な能力(自分ではどうすることもできないものとして。)も含まれるとのこと。 とくに、分からないのは、「心身に関する障害」により「できない」と言う場面。 不会を使う場合が多々あるようですが、 どうも心身に関する障害を「自分次第で決まる原因」とは直感的に思えないようで判断しづらいです。 (1)障害の程度、回復可能性とかで不会か不能かが変わるのでしょうか?日本人の感覚にフィットする実用的な判断基準を教えて頂ければ。 (2)以下を中訳していただければ(質問の趣旨を踏まえていただければ幸い。)。 ※ 不会の場合、不能の場合でしょうか?どちらも可能な場合なのでしょうか?そして、なぜ? ・当時酩酊状態だったので、何も思い出すことができません。(会?) ・彼は知能障害を持っているので、何も思い出すことができないでしょう。(能?) ・お酒に弱くて、あまりお酒は飲むことができません。(会?) ・お酒を飲むと死ぬ体質なので、絶対にお酒が飲むことができません。(能?) ・骨折して、しばらく歩くことができませんでした。(会?) ・下半身不随になって、もはや歩くことができません。(能?)
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質問者が選んだベストアンサー
以前、相原茂さんの著書を紹介したのは別の方でしたか。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1791452 これをお読みになることを強くお勧めします。 「謎解き中国語文法」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061493426/250-7691251-8138633 内容は、この方が参考にしているようなことです。 http://daxiongmao.exblog.jp/m2005-06-01/#910104 質問者さんは、参考書・解説書に書かれた文言で理解されようとしていますが、その著者の理解されている用語と、読者の理解する用語とは、往々にして違うイメージだったりします。 また、用語が適当かどうかの問題もありますね。本が違うと、言っている内容が違う(ように読める)、とか。 (ですから、私の回答も質問者さんに意味が届くか、いつも不安です。最近、よそでえらい誤解もされたし。^^;)) 「会」が、自分次第で決まるとも言えません。 「自ら習得してできるようになる能力」に対して「会」を使うという解説はできても、「会」だから、そうだとは言えないのではないでしょうかね。(上述書では、技能の「会」という解説があります。) 「日本人の感覚にフィットする」判断基準は有り得ません、と言い切る場合には「不会」でしょうか。 「日本人の感覚で理解するのは難しい」だと、「不能」であるとか。 できたりできなかったりする事が、できないのは「不能」、できるわけがない!ありえねぇ!ってのが「不会」という考え方も「一例」としてありますので、質問の後半は、ほとんど「不能」の部類でしょう。 「会」の場合は、歩けなかった乳幼児が歩けるようになった場面には使うと解説書にはあります。 まあ、この「不会」は、話題にしている「できる」とは、ちょっと毛色が違うと言えば違いますが。 「できる」が能力なのか、許可なのか、別のものなのか、能力であっても、どういう能力かで、使う表現が変わりるというのは、ご理解されている通りです。 そして、文脈や話者の意図に応じても、違う場合もありますね。 骨折や下半身不随でしたら普通は「不能」ですが、歩けるわけがないだろう!と言う場合には「不会」と言うことも考えられるでしょう。
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- cubics
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「不会」は酒を飲めない場合、まだ飲んだことが無いとか子どもであるとかが、「会得」という観点では考えられますが、飲めて当然のような人が、「不会」であれば、飲んだらとんでもないことになる場合なんでしょうね。 能力という範疇ではなく、許可や可能性というか当然の意味の部類でしょうか。 主観的、客観的については、他でも書いてように一概には決められないと思います。
お礼
ありがとうございます。
- o_tooru
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こんばんは、疑問はつきませんね。 さてご質問の件ですが、ここ数十年中国語から離れてしまっていますので、とんちんかんな回答になりますが。 この手の疑問に対しては、「現代漢語八百詞」が私のころの定番でしたが。今も第一版が手元にあります。 そこの、「能」の項目の中に<比較>と言う項目があります。私なりに訳しますと(久しぶりの中国語なので、正確ではないと思います) 1)初めてある種の動作や技術を身につけるときには、「能」「会」委連れを用いてもよい、ただし、「会」の方をよく用いる。ある種の能力が回復するときは、「能」だけを用いる、「会」を用いることはない。 以前他不会游泳,経過練習,現在会(能)游了。|我病好了,能(X会)労働了。 2)ある種の能力が備わっていることを表すときに、「能」を使うことが出来るし、「会」を使うことも出来る。しかし、効率を達成することを表すときには、「能」だけを用い「会」は使われない。 小李能(会)刻鋼板,一小時能(x会)一千多字。 ・・・以下「能」と「会」の使い分けの説明が少し続きます。もし可能でしたら、図書館などでごらんになると良いかと思います。こちらの本は出版当時非常に感動させられた本です。今の中日辞典の下敷きになっているようです。古い話で恐縮ですが、参考になれば幸いです。
補足
>効率を達成することを表すときには、「能」だけを用い「会」は使われない。 →おそらく日本の文法書に「会」得した能力が具体的にどれだけかを表現する場合には「能」を使うと書かれているものに当たるのでしょうか。能力の限界=本来的な能力というイメージでこの場合には能が使われるんでしょうか。
- rosa1120
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・当時酩酊状態だったので、何も思い出すことができません。(会?) 當時喝得爛醉如泥,已經不能完全想起來了。 or當時喝得爛醉如泥,已經完全想不起來了。 ・彼は知能障害を持っているので、何も思い出すことができないでしょう。(能?) 因為他智商不足,可能什麼事都想不起來了口巴! ・お酒に弱くて、あまりお酒は飲むことができません。(会?) 我對酒類敏感,所以不太能喝酒。 ・お酒を飲むと死ぬ体質なので、絶対にお酒が飲むことができません。(能?) 我是一喝酒就會死的體質,所以絶対不能喝酒。 ・骨折して、しばらく歩くことができませんでした。(会?) 因為骨折,有一段時間,不能走路。 ・下半身不随になって、もはや歩くことができません。(能?) 因為半身不随,應該已經不能走路了。 ほかの例文: 1.在圖書館不能抽煙 / 図書館でタバコを吸ってはいけません。 2.不會游泳不能畢業 / 泳げない人は卒業できません。
補足
(1)結局、すべて、能ということですね。常識的には、会を使う場面ではないということですね? (2)なぜ今回の質問のような疑問が発生したのか自らを再考してみました。 以前「没能」について質問した際に、何方からか「わざわざ没能を使わなくても、体質で酒が飲めないというのであれば、不会を使えばよい」との回答を頂きました。 体質(=自分では動かせないもの)を理由に飲めないのなら不能ではないか?一般論として、体質を理由に不会を使う場合も存在するといことか?これが今回の疑問の本当に最初の出発点でした。 皆さんの御回答を読みながら、自分なりに原因を考えてみました。 何を本来的な能力と見るか何を獲得する能力と見るかは、個人や文化によって変わります。 文法書を見ると、中国では、赤ちゃんが歩き出すことや言葉を聞くこと読むこと、そして、酒やタバコをすることも「会」得するものという認識のようですね。 酒が会得する能力だとすると、訓練の初期に飲めないこと、少々下戸であることは、当たり前。訓練で変わっていくものというイメージなのでしょうか。 体質というのが、酒を飲むと死ぬとかではなく、一般的な意味でお酒に弱いという意味であり、かつ、そのため、飲めないという場合は、「まだ」飲みを会得していない、これからだというイメージになり、「不会」となるのでしょうか。 もちろん、酒を飲むと死ぬといった体質であれば、それは、本来的な能力としてできない、不能だというイメージになるのでしょうか。 もちろん、体質といっても程度の差になるので、個人によって、会か能かに幅があるでしょうが。 【質問】 結局、一般論として心身の障害が原因だと不会の場合もあるというよりは、 「酒を飲む」という会得する能力の場面を前提にしているがゆえに、心身の障害が原因だと不会の場合もあるということになったのでしょうか。 したがって、むしろ、一般論としては、心身の障害が原因だとやはり「不能」が普通なのでしょうか?
補足
>効率を達成することを表すときには、「能」だけを用い「会」は使われない。 →おそらく日本の文法書に「会」得した能力が具体的にどれだけかを表現する場合には「能」を使うと書かれているものに当たるのでしょうか。能力の限界=本来的な能力というイメージでこの場合には能が使われるんでしょうか。 >質問者さんは、参考書・解説書に書かれた文言で理解されようとしていますが、その著者の理解されている用語と、読者の理解する用語とは、往々にして違うイメージだったりします。また、用語が適当かどうかの問題もありますね。本が違うと、言っている内容が違う(ように読める)、とか。 →まさにそうですね。相互の矛盾を質問しているうちに共通項が見えてきます。 →自分ではどうしようもない外部的な原因により「できる・できない」には、許可も含めているつもりです。「自分でない外部が許し可(よし)とし、そのために、できる、してよい。」ってなところでしょうか。 そういえば、英語のcanもmayの意味を吸収していますね。可能と許可って、人間、自然にイメージがつながっていくんでしょうね。 >「会」が、自分次第で決まるとも言えません。 >できるわけがない!ありえねぇ!ってのが「不会」 推測の会のことでしょうか? 可能の意味からどうして派生したのか、どういう共通項を見いだせばいいのか、これも結構、疑問に思っている点です。そういえば、英語のcanも推測の意味を持っていますね。意味としては、「存在・発生することができない!と思う。」ってなところでしょうか。 「ありえない」といっても、能のような客観的な結論というよりも、そう「思う」、つまり、自分(ここでは主語ではなく話者になるのかな。)の判断、自分次第で決まることというところでしょうか(まあ、能を客観的と思うのも、結局、判断の結果ですが。)。 会の可能と推測の意味に共通して流れるのは、客観的なイメージの能に対して、主観的ということでしょうか? 【ところで】 なぜ今回の質問のような疑問が発生したのか自らを再考してみました。 以前「没能」について質問した際に、何方からか「わざわざ没能を使わなくても、体質で酒が飲めないというのであれば、不会を使えばよい」との回答を頂きました。 体質(=自分では動かせないもの)を理由に飲めないのなら不能ではないか?一般論として、体質を理由に不会を使う場合も存在するといことか?これが今回の疑問の本当に最初の出発点でした。 皆さんの御回答を読みながら、自分なりに原因を考えてみました。 何を本来的な能力と見るか何を獲得する能力と見るかは、個人や文化によって変わります。 文法書を見ると、中国では、赤ちゃんが歩き出すことや言葉を聞くこと読むこと、そして、酒やタバコをすることも「会」得するものという認識のようですね。 酒が会得する能力だとすると、訓練の初期に飲めないこと、少々下戸であることは、当たり前。訓練で変わっていくものというイメージなのでしょうか。 体質というのが、酒を飲むと死ぬとかではなく、一般的な意味でお酒に弱いという意味であり、かつ、そのため、飲めないという場合は、「まだ」飲みを会得していない、これからだというイメージになり、「不会」となるのでしょうか。 もちろん、酒を飲むと死ぬといった体質を原因とするのであれば、それは、自分でどうこうできない、本来的な能力あるいは外部条件としてできない、不能だというイメージになるのでしょうか。 もちろん、体質といっても程度の差になるので、個人によって、会か能かに幅があるでしょうが。 結局、一般論として心身の障害が原因だと不会の場合もあるというよりは、 「酒を飲む」という会得する能力の場面を前提にしているがゆえに、心身の障害が原因だと不会の場合もあるということになったのでしょうか。 したがって、むしろ、一般論としては、心身の障害が原因だとやはり「不能」が普通なのでしょうか?