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自然は跳躍せず
「自然は跳躍せず」という言葉を使った人は,ライプニッツが最初ですか? どういう意味で,どういう背景があって,このような言葉を使ったんでしょうか?
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同様の意味であると思われる言葉で、 「自然は飛躍せず」というものがあります。 自然は一挙に変化することはなく、徐々に変わっていくものである、 という考えを示す言葉です。 スウェーデンの植物学者リンネの言った言葉です。 ライプニッツが最初に言ったかどうか私は存じませんが、 リンネは1800年代の人ですので、ライプニッツよりも100年ほど後に この言葉を言ったことになります。 参考までにということでお許しください。
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- caballero
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この世には語りえるものと語りえないものがあります。 語りえないものを語った聖書は生まれた時から化石のようなもので、化石の恐竜が生きて動く事はないのです。しかし、化石からわかることというのは多分にあります。ここで、信仰の薄い聖職者は、化石が、恐竜のすべてだと勘違いするのです。ここに安っぽい独我論が形成されます。化石は化石、恐竜は恐竜なのです。恐竜を見たことがないからといって、想定の恐竜を化石としてはいけないのです。 >それら2つの「真実」が,一人の人間の中でどうやって共存することが出来るのか, 真実とは語りえないものです。表記した時点でそれは現象し、独立し、真実から切り離されます。科学者と、信仰の薄い聖職者の対立は、「ラーメンはスープだ、いや麺だ!」と言い合っているようなものです。お互い、蓮華を持つ者は箸を持たず、箸を持つ者は蓮華を持たないのです。実証科学と、ここでの宗教心との対立は、そのようなことです。 正しいことはどうあっても正しいというのは、ラーメンはラーメンなのです。材料が何と何、レシピが何だ、とかいってもそれはラーメンではないのです。レシピであり、材料達なのです。こういうことから、あるがままというのは正しいのです。そして、あるがままというのは、表記したり、語ったり出来ないのです。「ラーメンはラーメンだ。」これが証拠です。この文はラーメンについての何を語ったといえるのか? 哲学的にいうと、言語ゲームです。これを西洋哲学史で開示した人はウィトゲンシュタインといいます。また、これは、触ってほこりを払うような事です。言語ゲームはもう少し奥が深いので、これはさわりです。彼らの闘争は、ほこりを掃うようにして、簡単に取り除かれます。
お礼
人間の自由な精神活動を否定はしません。 でも、あるがままが「正しい」と思います。
- caballero
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なんかダーウィンがいいそうなことですね。 キリスト教は、「神は、人は人、サルはサルとしてつくった。」と、聖書に書いてあるので、サルが進化して人になる事はないと言うのです。それぞれの種を種として創ったと。だから、蛇が先祖帰りして、足の生えた蛇が発見されると、困惑するのです。蛇だし。あるテナガザルのDNAは97.5%が人と同じだそうです。進化論を聖書で駆逐しようとする。気持ちはわかりますが、、、。進化論で聖書を駆逐しようとする。これも、何でそんなことしようとしなくても、、って思います。 正しいということはどうあっても正しいのです。進化論と格闘する聖職者達。信仰の薄い人たちといわれても仕方ないです。なぜ、聖書に反せず進化を説明する事が彼らには出来ないのでしょうね。地動説を認めなかった教会のなんて弱弱しいことでしょうか。 しばしばキリスト教は科学と争ってきたらしいですが、それもこれも、聖書の文字に惑わされているからです。 「あなた方は確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」と、キリストが言っているのに、おかしいですね。キリスト教なのに。
お礼
どうもありがとうございました. 「聖書に反せず進化を説明すること」は本当に出来るんでしょうか. 宗教と科学は違う次元で,語るべきなんでしょうか? 例えば,ダーウィンやドブジャンスキーのように,クリスチャンであり 生物学者(科学者)である人はいます. 神が創られた世界を「説明」しようとして実際に明かされた‘事実’が ‘信じていること’と矛盾すると思われるときがあります. それら2つの「真実」が,一人の人間の中でどうやって共存することが出来るのか, 勉強不足でよく分かりません.
お礼
回答をいただき,大変ありがとうございました. 勉強になります. 自然に対する漸進的な見方というのは,キリスト教における自然観とも 関係があるのでしょうか?