この世には語りえるものと語りえないものがあります。
語りえないものを語った聖書は生まれた時から化石のようなもので、化石の恐竜が生きて動く事はないのです。しかし、化石からわかることというのは多分にあります。ここで、信仰の薄い聖職者は、化石が、恐竜のすべてだと勘違いするのです。ここに安っぽい独我論が形成されます。化石は化石、恐竜は恐竜なのです。恐竜を見たことがないからといって、想定の恐竜を化石としてはいけないのです。
>それら2つの「真実」が,一人の人間の中でどうやって共存することが出来るのか,
真実とは語りえないものです。表記した時点でそれは現象し、独立し、真実から切り離されます。科学者と、信仰の薄い聖職者の対立は、「ラーメンはスープだ、いや麺だ!」と言い合っているようなものです。お互い、蓮華を持つ者は箸を持たず、箸を持つ者は蓮華を持たないのです。実証科学と、ここでの宗教心との対立は、そのようなことです。
正しいことはどうあっても正しいというのは、ラーメンはラーメンなのです。材料が何と何、レシピが何だ、とかいってもそれはラーメンではないのです。レシピであり、材料達なのです。こういうことから、あるがままというのは正しいのです。そして、あるがままというのは、表記したり、語ったり出来ないのです。「ラーメンはラーメンだ。」これが証拠です。この文はラーメンについての何を語ったといえるのか?
哲学的にいうと、言語ゲームです。これを西洋哲学史で開示した人はウィトゲンシュタインといいます。また、これは、触ってほこりを払うような事です。言語ゲームはもう少し奥が深いので、これはさわりです。彼らの闘争は、ほこりを掃うようにして、簡単に取り除かれます。
お礼
回答をいただき,大変ありがとうございました. 勉強になります. 自然に対する漸進的な見方というのは,キリスト教における自然観とも 関係があるのでしょうか?