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諸葛亮の軍事能力は低かった?
演義では諸葛亮がまるで天才軍師のように書かれています。 しかし、諸葛亮は政治家としては一流ですが、軍事能力は低かったのではないでしょうか? 司馬徽が「伏龍・鳳雛の二人を得れば、天下を取れる」と諸葛亮とホウ統をさして言ったといわれる台詞があります。 それは、つまり二人揃って初めて意味があると言うことで、 実際に劉備軍で軍師として軍事面で策を立てていたのはホウ統と法正です。 諸葛亮は内務担当です。 劉備が益州方面へ進出したとき、ホウ統が軍師として劉備につき、諸葛亮は荊州に残りました。 劉備は諸葛亮を「内務の人間」と見ていた。 一方、ホウ統を益州攻略に連れていったということは、劉備はホウ統を軍略家と見ていた。 ホウ統は益州攻略の途中で戦死します。 しかし、その後、軍師としての役割を果たしたのは益州出身の「法正」でした。 夷陵の戦いにおいて、諸葛亮は参戦すらしていません。 劉備は、あくまで諸葛亮を、「国の方針を決める人間、内政能力の優れた人間」と見ており、決して「戦争に優れた人間」とは見ていなかったことが読みとれます。 ホウ統・法正が死んだ後、劉備軍は軍事面でなかなか勝てなくなります。 演義で関羽を殺され、呉に出兵した劉備を止められなかった諸葛亮が、 『法正が生きていれば諌められたろうし、諌められなかったとしても負けることはなかったであろう。』 という台詞があります。 演義しか知らないと、その場面では『なぜ法正?諸葛亮がスーパー軍師として参戦すれば勝てたんじゃないの?』と思います。 劉備の死後、諸葛亮が軍の実権を握ったが、北伐は失敗に終わっています。
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低いですね。 それに劉備軍は戦術家は多く居ても、戦略家は全く居ませんでした。 孔明がいなくてはあそこまで国造りは出来なかったでしょう。 軍隊は経済に依存します。 益州攻略の際に、孔明が荊州にいたのも後方の経済力を確保していたからです。 関羽と孔明のコンビネーションが荊州統治を万全にしていたと思います。 これで安心して益州へ迎えたわけです。 ちなみに、孔明以外の人材が軍事を握るとキョウイのようになるからです。金使いまくりになるからです。 孔明の軍略は、あくまで国力の低下をしない程度の軍事行動です。 だからムダ使いのしないと思われる楊修にあとを任していたのです。 補足:名軍師張良とはいいますが、漢建国後、劉邦の匈奴の北伐時に付いていきますがあっけなく大敗してなんと、捕虜になります。 やはり戦場では役立たずだったそうで。 劉邦一行は放たれますが、後漢?まで匈奴に毎年貢物をしなくてはならない羽目になりましたとさ。
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- majesticbaby
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何かの本で、「諸葛亮は軍略には暗かったが、国をまとめるためにあえて自らが希代の軍略家であるように振舞っていた」といったようなことが書かれていました。 これに限らず、諸葛亮の軍事能力が低かったとする見方はかなりあるようです。
お礼
諸葛亮の軍事能力が低いと見る本がありましたか。 「国をまとめるためにあえて自らが希代の軍略家であるように振舞っていた。」 という記述に、蜀の人材の少なさが伺えますね。 その本を探してみます。
- Zozomu
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ご存知かとは思いますが、軍事には戦略と戦術があります。 戦略とは富国強兵を行う術と近隣諸国の情報収集と分析、それをもとにした外交と言ったところでしょうか、 戦術とはいざ戦争という時の用兵術の類です。 諸葛亮は戦略家、ホウ統・法正は戦術家と言えるのではないでしょうか。
お礼
諸葛亮は、富国強兵を行う内務や、近隣諸国の情報収集と分析などの外交は得意だかれども、 戦争の現場での用兵術は不得意だったということですか。 ありがとうございます。
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お礼
なるほど!! 関羽と孔明の2人が揃ってこそ、荊州統治に成功していたのに、 ホウ統の急死で孔明が益州へ行った時点で、荊州統治が崩れて来たのですね。 確かに関羽は外交に失敗してますね。 荊州に孔明が残っていれば、対呉外交の失敗もなかったとは思います。 そう考えると、蜀にとってホウ統の死は大きいですね。 重要なご指摘ありがとうございました。