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三国志について(劉備玄徳、諸葛亮、ナポレオン・ボナパルト)

素朴な質問なんですが、宜しくお願い致します。 劉備玄徳は、人徳に溢れる、民を思う人間だった。 けど、劉備の若い頃は、音楽や芸、そういったことが大好きな青年だったと聞いています。 諸葛亮とは違い、読書など、そういったものは好きではなかったらしいですが、なぜそのような人間が、民をあれほどまでに思う人間になったんでしょうか? なにかきっかけたるものがあったんでしょうか? そこらへん知りたいです。 ついでに質問なんですが、若き青年時代に具体的な諸葛亮がしていた勉強内容、方法など、情報があるなら知りたいです。知っている人がいれば、三国志とは違いますが、ナポレオン・ボナパルトの具体的な勉強内容、方法などの情報も、出来れば知りたいです(どういうことをしていたとか) 大昔のことですし、そういう内容は残っていないと思いますが>< 例えば、毎日読書に20時間かけていたらしい・・・とか、そういった感じでもいいので、小さなことでも教えてください、宜しくお願い致します。

みんなの回答

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.4

劉備は人の心を摂るのに人並み以上長けていました。 関羽張飛とは義兄弟の関係を結び、諸葛亮には三顧の禮を尽くして師として迎えました。 臨終に際して「我が子が国主として不適格と見れば君是をとれ」などなかなか言えるセリフではありません。  そうしないと解っていたとしたらまさに殺し文句の最高でしょう。 ナポレオンは砲兵士官としての勉強をしていましたが、当時の大砲は射程が短く歩兵のすぐ後ろに位置するので歩兵の戦術は実戦で学んだのでしょう。 当時のフランス軍は行軍速度が諸外国の軍隊に比べて速く機動が容易でしたので移動や陣形の変更が容易でそれをナポレオンはうまく利用しました。 彼は賞罰もうまく、戦功があれば即座に昇任させましたから部下は彼の目の届く所では勇戦するのが常で、 これが逆に彼を陣頭指揮に駆り立てることになりました。

回答No.3

正史三国志によれば、劉備は若い頃たいそう偉そうな人物だったそうです。 劉備の家の近くに桑の木があり、それが天子の乗る馬車に似ていたのをみて、「いつかこんな馬車に乗るような身分になってやる」などと、聞く人が聞けば即刻首が飛ぶような(当時天子は特別な存在であり、農民が天子と対等な立場に立つような発言や思想すら許されなかった)野望を口にしていました。 結果としてこの話を聞いた彼の叔父の目に留まり、貧乏な家にもかかわらず高名な先生の塾に通わせてもらえるようになり、それが彼の後々の人生を大きく左右することになったのです。といっても、勉学そっちのけで狩りやナンパばかりしていたそうですが・・・。 三国志演義では義を重んじる人徳の人というイメージしかありませんが、実は結構な野望家だったんですね。まあ、一国の主になるような人ですから、当たり前かもしれませんが。 劉備の強さはなんと言っても人脈と、人脈作りの上手さでしょう。 当時は人脈といえば血縁関係が中心でした。曹操や孫権などは出身地の近くに本拠を構え、血縁関係中心の軍団を結成しています。ですが、劉備には有力な血縁関係はありません。皇帝の血筋というのも、はっきり言ってないようなもんです(先祖とされる劉勝は子供が100人以上いたらしい)。 となればどうするか。 知り合った人たちを次々と引き込むしかないんです。 そのため、彼は時に異常と思えるほど義を重んじていたのです。 元々身分の低い暮らしをしていたため、身分の低い者でも対等に接することができ、それがまた彼の魅力となったのでしょう。 そうやって彼はどんどんと人脈を広げ、ついには天才軍師諸葛亮という最高の”伴侶”を得たわけです。 あ、あと、彼の悪運の強さも忘れてはいけませんね。やっぱり歴史に名を刻むほどの人間はかなりの運の良さを持ち合わせていると思いますが、劉備はその中でも群を抜いて運が良かったと思います。 ただの筵織りが一国の主になっちゃったんですから。 劉備の民を思う気持ち、それはやはり自分の実体験から来ているのでしょう。経験したことがあるから、民の辛さもわかるのだと思います。 農民上がりの君主なんて劉備くらいでしたから、民衆も親近感を持ったのではないでしょうか。 彼のすごいところは、偉くなって死ぬまで、その気持ちを忘れず民を軽んじることなくいたということですね。これは本当にすごいことだと思います。 やはり彼は英雄と呼ぶにふさわしい人物ですね。 諸葛亮についてですが、彼の勉強方法は、物事の大まかな要点をつかみ、それを発展させていく、といったような感じだったらしいです。 重箱の隅をつつくような今の勉強方法とはずいぶん違いますね。 ですから、具体的にどの本を読みどうやって勉強したかみたいなことは、わからないというより勉強方法そのものが違う、といったことになるのではないでしょうかね。まあ、その当時一般的とされた書物などはたいていそらんじていたと思いますが・・。 ただ、若い頃は自分をかつての名将、管中・楽毅になぞらえていたといいますから、彼らを参考にしていたのではないかと思います。 ちなみに・・・ 諸葛亮は天才的な軍略家ではなく、天才的な政治家であったと、僕は思っています。実際、戦争は下手でしたし。 三国志演義での超人的な活躍で、軍略家のイメージが強いですが、実は政治にこそその類まれな手腕を発揮していたのです。まあ、天才ということには変わりありませんが・・・。 おそらく彼ほどの政治家は今日までの歴史上、そういないでしょう。 彼のこういった面をもっとクローズアップして欲しいなあと、個人的には思っています。 長文失礼しました~。

回答No.2

三国志についてのみですが、参考程度にどうぞ。 「三国志」と一言で言いましても、歴史書としての三国志と、物語性を持たせた三国志演義の2つの流れがあります。 それらを日本人向けに面白く描いたのが文庫で発売されている、いわゆる三国志です。吉川英治の三国志や、宮城谷昌光の三国志など色々な三国志があり、基本的に玄徳が主人公のことが多いですが、登場人物の描写には著者なりの解釈がなされています。(確か曹操が主人公の話もあったような) 玄徳が民を思う人間になっていったのは、きっかけというより、彼の体には滅びた漢王朝の血が流れていたためだと思います。あえてきっかけを挙げるとしたら張飛・閑羽との出会いでしょうか。 質問の意図からして、偉人の足跡を辿ってみたいということだと思いますが、同じ「英雄」あるいは「優秀な人物」という言葉も、時代・環境によって意味が異なることをご理解下さい。 例えば孔明であれば、彼は優秀な策士とされていますが、今は上手い戦争のしかたを知ってもしょうがないです。英語や中国語をぺらぺら話せる方がよっぽど重要視されます。 ですのでpcbcさんがナポレオンと同じことを勉強したからといって、今の世の中ではあまり役に立たないでしょう。 人の上に立ち、統率していきたいというのなら偉人の真似ではなく、「帝王学」を学ばれるといいでしょう。 参考URL:帝王学

参考URL:
http://www.jade.dti.ne.jp/~mie/teio.html
  • disease
  • ベストアンサー率18% (1239/6707)
回答No.1

三国志の真の勝者は魏の曹操ですが、曹操はあまりに非道な行いをしていたので、物語の主役にふさわしくないので呉の孫権と比べ、より人道的な行いをした劉備に主役の座があたえられたんだと思います。 そして民に慕われる理想像と書かれたんだと思います。 だから実際よりかなりいい人に書かれています。 ナポレオンは昔、伝記を読んだことがあります。 ナポレオンはフランスの英雄と思われがちですが、ナポレオンはフランスに破れ、占領されていたコルシカ島に生まれ、フランスに対する敵対心を持ちつつも力を付けるためにはフランスの学校にいくしかなかったのでフランスの軍学校に入ったのです。 当然まわりはナポレオンをフランスに負けた国の人間として見下していました。 そのような状況でナポレオンは力を付ける為に人一倍努力したのです。 ナポレオンは3時間しか寝なかったことでも有名ですからね。 つまり逆境こそがナポレオンの原動力だったことは確かだと思います。 歴史史上最大の帝国を築いたチンギス・ハーンも元は奴隷だったと思います。 あと、余計なお世話ですが劉備元徳という呼び方は正しくありません。 姓・名か姓・字で呼ぶのが普通です。 つまり劉元徳か劉備と呼ぶのが正しいんです。 同様に諸葛亮公明というのも間違いです。

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