- ベストアンサー
諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力は低かった???
孔明よりも劉備のほうが人材を見る目や、その人材の活用術については、上であったと思いますが、いかがでしょうか? それは劉備の周りに集まった綺羅星のごとき人材を見れば伺えます。 孔明の方はといえば、彼は意外と人事と言う最重要任務において失策が目立ちます。 1、街亭の戦いでの馬ショクの起用 2、魏延の軽視 3、魏延と楊儀との不仲の仲裁をしなかった事 4、李厳の扱い方の失敗 などなど、挙げればかなり多いです。 実は孔明の総司令官としての初陣はかなり遅くて、南蛮征伐の時期であったと言われています。 従って、戦争の現場での経験がほとんどありません。 実際、“学者である孔明”と“現場たたき上げの魏延”の意見は対立したと予想されます。 魏延にまつわる話で有名なのはやはり、「子午谷の奇謀」でしょう。 「子午谷の奇謀」は演義の創作でありますが、 史記には魏延は一か八かの作戦で長安を陥落させる作戦を提案したことが書かれています。 それに対して孔明は、魏延の作戦を軽視して、安心・安全・確実な作戦を実行していきます。 そして結果、孔明は長安を落とすことはできませんでした。 劉備は 1、魏延を能力を高く評価していおり、魏延を重視するように言っています。 2、逆に馬ショクを軽視しており、馬ショクには重要な任務を任せないように言っています。 丞相の地位にいた孔明にとって人材起用といった能力は必要不可欠なものです。 やはり孔明の人材を起用する能力は低かったと思いますか? 諸葛亮(孔明)の人材を起用する能力について、あなたの意見を聞かせて下さい。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。これは面白い問題提起ですね。 結論から先に言うと、劉備も孔明も、人材登用能力はあったと思います。政治家としての力量も充分だった、ただ、人材がいなかった、というのが答えになります。 なぜ、蜀の滅亡が他の国に比べて速かったのか。 私は「天下三分の計」の時点で、蜀の運命は決っていたと思います。 魏は、中国古来の、いわゆる「中原」といわれる土地を領土としていました。 呉は、これも南方の、古来、中原とは異なる文化を築いてきた地域を押えていました。 対して、蜀はどうだったでしょう。確かに肥沃な土地ですが、魏や、呉ほどの文化や歴史の充実があったか。 これが、国力に出てしまったと思うんです。で、国力とは、人材ではない。なんていうか、人材を育てるもの、発達した経済と、厚みのある文化です。 天下三分の計を孔明が劉備に諮ったとき、もう魏、呉はかなりの安定政権でした。それに拮抗し、起死回生の道を開く賭け、それが、望蜀だったわけです。 実際、蜀を得てから、劉備も孔明も、殖産興業に勤めています。肥沃な土地を生かして、国力を充実させるのに努めます。 そして劉備の死後、自分の死期をも悟った孔明が力を入れたのが、南方の安定―七擒七放―と、魏を叩いておくこと―出師の表―です。つまり、自分亡き後、しばらくは外患をなくし、国力を充実させる時間を稼いでおくことだったわけです。 そのために、孔明は、できうる限りの人材を配置したと思います。 ただ、正直、関羽や張飛、趙雲などの将星が次々と世を去っていくなかで、新しく参加した蜀出身の武将たちは、どうだったか。 曹操死後も、優秀な人材が集まり、強大な軍団を保持できた魏と比べて、どうしても見劣りがしてしまうんです。 それは、「蜀」を選んだ(選ばざるをえなかった)劉備や孔明の宿命だったように思います。 孔明は、その宿命を知っていて、それに自らの力を賭して抗ってみようと思っていたような雰囲気さえ感じます。 冷静に考えれば、魏、呉に蜀が拮抗できる訳がないんですね。それをおそらくは知っていて、で、孔明は劉備についたと思います。 孔明の生涯で、自分の判断と逆の事をした―それを悔いてはいないでしょうが―最初で最後が、この、三顧之礼に続く、出廬だったと思います。 だからこそ、この話が、人の結びつきの美しさを後世に伝えることになったんだと思います。「出師の表」が、これを読んで泣かざるは人にあらず、とまでいわれたのも、その忠義よりも悲壮さの故だったと思います。そして、秋風五丈原のくだりが、あんなに美しいのも、運命に戦いを挑んだ人の姿が、共感を呼ぶからであると思います。 長文失礼。ご参考になれば。
その他の回答 (5)
- tokimune
- ベストアンサー率27% (187/690)
劉備は人を見る目や人材発掘の能力が高かったので軍師としての 能力の高い孔明を「三顧の礼」を持って迎えたので、 それぞれの役割は異なり、どちらもそれぞれの分野できわめて優秀 な人であって、比較することは意味がありません、
お礼
>比較することは意味がありません、 孔明は後年、蜀の実権を握り、国営を担当したので、人材の登用能力は必要だったと思いますが。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
孔明は、軍人としての評価は高く有りませんが、行政官としては、多大な能力を持った天才でした。 しかし、天才であるがゆえに、他人の行う事が、まどろっこしくて、ついつい自分でやってしまう性格だったようです。 そのため、他の人は、訓練を受ける事や経験を積む事が無く、無能集団となってしまっています。 蜀における人材不足の原因は、孔明の性格にあったと思います。 また孔明は、行政官なので、必要としたのは手足となって動く官僚であり、自己判断する人を必要としなかったため、後継者の育成などが全くできず、孔明が亡くなると、まともな後継者のいない蜀は、崩壊への道を突き進みます。 劉備の天才的なところは、人材を見抜く力でしょう。 思い切った登用、権限の委譲、人材鑑定眼などが、大変優れています。 魏延による長安奇襲作戦は、孔明が本気で魏を倒す事を考えていれば、必要な作戦だったと思います。 しかしそれが、失敗した場合は、蜀の滅亡につながります。 行政官としての孔明には、そのようなカケに出る事ができず、ジリ貧への道を歩むしか方法が無かったでしょう。 長安を攻略し、涼州を制圧し、シルクロード交易を独占すれば、三国並立ができたと思いますが、失敗すれば、その時点で蜀の歴史は終わっていたでしよう。
お礼
ありがとうございます。 非常に参考になりました。 すべてに納得がいく説明でした。
- 14kcal
- ベストアンサー率42% (127/300)
劉備亡き後、孔明が実権を握り蜀を運営しますが、「蜀には人(優秀な人)がいない、人がいない」と言っています。 それはただ単に孔明が人を見る目が無かった、とも思います。 徳川家康が義経と弁慶の芝居(能かもしれません)を見て、 「現代の世に弁慶ほどの忠臣がいないのだろうか・・」と涙したところ、 それを聞いていた、本多正純が、 「現代の世に義経ほどの主君がいれば・・・」と皮肉ったそうです。 あれほど優秀な家臣を抱えた家康でもそういったことがあったそうです。 上に立つと見る目が厳しくなるのかもしれませんね。
お礼
蜀に人材がいないのは、孔明に見出す実力がなかったということですね。 なかなか新しい意見をありがとうございました。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
劉備は中国各地を移動しており、行く先々で留まることが出来ています。 しかも曹操、袁紹、孔融、孫権と対面しながら生きて帰ってきた人物です。 一方孔明は仕官の口を断り、人との接触を断った生活をしていました。 孔明の物欲の乏しさを見れば人材浴の乏しさも伺えると思います。 孔明ほどの遠くを見れる人間は、個人プレイに走りやすい魏延は使いにくかったんだと思います。 それ故、姜維 王平 馬岱など地味で堅実な人間を好んだんだと思います。 確かに五虎将のような派手な将帥がヒーローとして好まれるかも知れません。 ですが、国造りはこんなヒーローごっこでは出来ません。 むしろ国に安定をもたらすのは地味な「堅実さとねばり」です。 国を制定する力はあっても人材登用能力はやはり乏しかったと思います。 あと孔明が信頼に足る実戦総指揮官が居なかった。 曹操には夏候惇が。孫権には周ユ>呂蒙>陸孫が。
お礼
なるほど。 やはり孔明の人材登用能力は乏しかったということですか。 ありがとうございました。
- myeyesonly
- ベストアンサー率36% (3818/10368)
こんにちは。私なりに。m(__)m 人を見る目は大したことなかったと思います。 むしろ公明は軍略や策略に長けた人で、命令を言葉通りに実行する人を好んだように思います。 策士は将棋の駒を動かすように、忠実に動いてくれた方が策略しやすいのは当然で、独断専行などの不確定要素がある程使いにくくなるのは当然だと思います。 それゆえ、関羽、張飛などの重臣中の重臣を、軍略の力で驚嘆させ、絶大な信頼を得る事に腐心しました。 公明が独自に見出して育て上げた、あるいは帰順させた人って殆どいないように思いますが・・・? 人を沢山集め、有能な人を見出す能力は、公明自身が劉備に見出されたように、劉備に遠く及ばないのではないかと思います。
お礼
なるほど。 ありがとうございます。 やはり劉備の方が浮き沈みの激しい人生を送っているので、人を見る目があったということでしょうか。
お礼
詳しい説明をありがとうございます。 浅学の私には非常に参考になる回答でした。