諸葛亮と諸葛亮孔明
おはようございます。
私はこの教えて!goo(OKWave)の質問や回答に
疑問を感じています。
それはタイトルの『諸葛亮』と『諸葛亮孔明』です。
『諸葛』は中国では珍しい二文字の苗字で、
身分の高い家柄では名乗る事が出来るそうです。
『亮』は名です。 我々の名前と一緒。
英語ではファーストネームです。
『孔明』は字(あざな)です。
日本では珍しいミドルネームみたいなものです。
この『字』を使う時は、『名』は使わず『諸葛孔明』と
名乗ります。
しかしこの教えて!goo(OKWave)では
『諸葛亮孔明』と名と字を一緒する質問者・回答者が
いらっしゃいます。
このような方々はご自分の誤りに
気付いていらっしゃるのでしょうか?
皆さんからのご意見を賜りたいと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 まあ表現の違いという所でしょうかね。 「なにがなんでも成功してやる」というのは私は非常にリスクな考え方でもあると考えます。 勝ちにこだわると、同時にリスクが発生してくるわけです。 ハイリスクな賭けにでる事も想定されます。 例えば負けん気だけが先行して、練習のしすぎで、怪我をする等。 怪我をしてしまって人生を棒にふるくらいなら、いっその事淡泊な気持ちで休めばいいと思います。 オリンピックの選手の例をあげてらっしゃいますが、おそらく無理な練習をしてもついていけるような能力の持ちぬしか、ただ賭けにかった運が良い人間か。 実際高校野球等みてください。過酷な厳しい練習がいまだ伝統的に行われているでしょう。 しかしその選手達が(世の中には伏せられていると思いますが)無茶な練習で潰されていってる事実もあるわけです。連日の多投。まさに限界ギリギリでしょう。目先の甲子園優勝は手にいれれるかもしませんがね。 ある経営者も言っていました。「商売というのは絶対に負けないようにやるんだ、勝つためじゃない」とね。ハイリスクなギャンブルをさけたいわけです。 長々書きましたが、まあそこまで計算した「何が何でも成功」であればOKなので、表現の違いですかね。