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古代韓国人が姓名を捨てた理由
韓国人の姓名について質問です。 古代においての朝鮮半島からの渡来人の名前は「画部因斬羅我」や「医博士奈率王有僚陀」など長い姓名が多いです。 しかし、いつの時期から中国風の「李」「金」「朴」などの一字姓に変わっています。 なぜ韓国の伝統ある姓を捨てて、中国化したのでしょうか? 姓名を変えるということは、古くからあるオリジナルの文化を捨てることです。 今でいうならば、日本人が「田中」や「佐藤」を捨てて、「ブッシュ」や「ラムズフェルト」に変えるということです。 よく考えると滑稽です。 当時の朝鮮人はなぜ独自の文化を捨ててまで、中国のご機嫌を伺う必要があったのでしょうか? 新羅が半島統一してから急速に中国化が進んだとありましたが、なぜ新羅は独自の文化を捨てて中国化を進める政策をとったのでしょうか?
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回答4の 〈民族や国ごとに異なったアイデンティティを持たなくてはならないという発想そのものが十九世紀西欧で発明された考えかたであり、東アジアでは長いあいだ中国こそは唯一絶対の普遍的な人類の文明であるとされていたわけですから、それにならうのは当然のことです。〉 は間違いです。中国文明が卓越していたのは事実ですが、朝鮮族を除く中国に隣接した諸民族は、民族独自の名前を維持していたからです。 朝鮮の自主的な改名を考えるには、同じ地続きである満洲やベトナム、モンゴル、ウィグル、チベットと比較して、どうかと考えるべきです。 ベトナム人は、19世紀までは漢字を使い、世界史に出てくるグェン朝は阮朝ですし、レ朝は黎朝と書きました。中国風に見えますが、ベトナム語は中国語と同族であり、実はベトナムのオリジナルです。 満州族は、中国に入って、清朝を建国してから、だんだん中国に同化されていきましたが、名前は民族独自の名前を使っていました。ラスト・エンペラーの本名は愛新覚羅溥儀です。 モンゴルの南半分は、内モンゴルとして、ウィグルは新疆ウィグル自治区として、チベットはチベット自治区や青海省として中国に併合されましたが、モンゴル族も、ウィグル族も、チベット族も、民族独自の名前を維持しています。 結局、朝鮮族だけが、民族独自の名前を捨てて、中国風の名前に自主的に改名したのです。小室直樹氏は、朝鮮族の民族性には、事大主義が組みこまれていると言っていますが、それが当たっているような気がします。
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- kankasouro
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日本でも奈良・平安時代から藤原を藤とし、葛野麻呂を賀能とする唐風の名を名乗ることはふつうに行われていました。これは江戸期の末までつづき、「名を修する(飾るの意)」と呼びます。 当時の中国は東アジアにおいて懸絶した文明国であったために、その風習にあわせることは上品かつ先進的なことであると考えられていました。別段滑稽でも何でもなく、民族や国ごとに異なったアイデンティティを持たなくてはならないという発想そのものが十九世紀西欧で発明された考えかたであり、東アジアでは長いあいだ中国こそは唯一絶対の普遍的な人類の文明であるとされていたわけですから、それにならうのは当然のことです。 日本人が最後まで二本立てでいったのに対して朝鮮半島ではすぐに唐風に一本化されたのは、中国と地続きであるという地政学的な状況もあって、朝鮮半島では漢文がよく学ばれたことが大きい理由ではないかと思います。
お礼
藤原を藤とし唐風の名を名乗ることと、 先祖代々の伝統である姓を捨てて、中国風の「李」「金」「朴」などの一字姓に改名するのでは、大きく違うと思いますが・・・。 民族や国ごとに独自の文化を持つことが優れているという考え方が、十九世紀から始まったとは、勉強になりました。ありがとうございます。 当時は文明国である中国の風習にあわせることが先進的なことだったのですね。 朝鮮が独自の文化・姓・文字・古典を捨ててまで、中国化したのは、以上の理由からですか。 朝鮮は独自の文化を捨て去り、中国化を加速した結果、朝鮮半島は中国の属国になってしまったのですね。 従って、朝鮮は長い間、独立国ではなく、中国の一部だから、中国人と同じ姓なのですね。 納得がいきました。 日本は独立国であったため、二本立てでいけたのに対し、 「中国の属国である朝鮮」は一本化するしかなかった。 中国と地続きであるという地政学的な状況もあって、独自の文化を捨てて、中国化・中国の属国化するしか道はなかったということですか。 非常に参考になりました。 自分自身の考えも整理がつきました。 ありがとうございます。
- cse_ri2
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No.2の回答の一部訂正です。 新羅は百済→高句麗の順番で、国を征服しました。 高句麗が先というのは、誤りです。
お礼
わざわざありがとうごさいます。
- cse_ri2
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>新羅が半島統一してから急速に中国化が進んだとありましたが、なぜ新羅は >独自の文化を捨てて中国化を進める政策をとったのでしょうか? 実はここに、韓国特有の事情があります。 日本が大和時代の頃、韓半島は高句麗・百済・新羅の三国に分かれていました。 そのうち、もっとも弱小だったのが新羅だったのです。 このまま放っておけば、新羅はじわじわと勢力が後退し、やがて滅亡の道へと 進んだでしょう。 このとき、新羅に現れたのが金春秋(後の武烈王)です。 彼は当時の超大国であった唐と外交関係を結び、唐の力を借りて高句麗、そして 百済を滅ぼして、朝鮮半島を統一します。 つまり、半島統一してから中国にすり寄ったのではなく、半島統一のために中国 にすり寄り、その過程で積極的に中国文化を取り入れようとしたのです。 (もっとも本格的な中国文化導入は、半島統一後になります) 言うまでもありませんが、当時の東アジアは中国が文明国であり、新羅や日本は 文化の遅れた国でした。 そして中国(当時は唐)は、自分たちの文化をどれだけ取り入れるかによって、 その国の文明度を判断し、自分たちがどれだけ付き合うかの物差しとしていました。 自国を滅亡から救うため、姓名まで中国風に改めるという決断は、やむを得ない ことであったと、個人的には捉えています。 いつの時代から民族すべてが中国名を名乗るようになったかについては、よく 知りませんが、少なくとも新羅の王自らがその範を示したため、家臣たちが後に 続いたであろうことは、容易に想像できます。 ちなみに日本も、中国とつき合うために、唐の制度を取り入れます。 日本書紀という歴史書を作ったり(ちなみに原書は全文漢文です)、唐の律令に 似た法体系(大宝律令など)を作ったりしたのは、そういう意味があってのことです。 しかし、新羅と違って亡国の危機を抱えていなかった日本は、姓名まで中国風に 改めるほどの変革はしませんでした。 (白村江の敗戦後、大和王朝は唐との対立による軍事的危機を迎えますが、 唐との間に海があったことと、九州に防人を置いたり、西日本のあちこちで 築城して防備体制を固めた結果、何とかその危機を回避できました) ◎参考資料『逆説の日本史(2)古代怨霊編』 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094020020/qid=1129650420/sr=1-8/ref=sr_1_10_8/249-8743877-2013147 ◎参考資料『ウィキペディア-新羅』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
お礼
なるほど。 つまり、弱小だった新羅が朝鮮半島を統一するために中国化を行い、統一してからは中国化を加速させたということですか。 そして、朝鮮半島独自の文化を捨て去った。 その結果、朝鮮は中国の属国になったのですね。 「金春秋」という名前自体が、すでに中国風に改名した名前ですね。 おそらく改名前は「画部因斬羅我」や「医博士奈率王有僚陀」みたいに長い名前だったのでしょうね。 丁寧な説明をありがとうございます。 非常に納得がいきました。
- silpheed7
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朝鮮は独立国ではなく、下関条約締結まで中国の属国だったからです。
お礼
朝鮮は中国の属国だったとは驚きです。 ということは、中国の一部だから、中国人と同じ姓なのですね。 納得がいきました。
お礼
中国に隣接した諸民族の中で、独自の文化を捨てたのは朝鮮族だけですか!! 朝鮮族だけが伝統の姓名を自主的に捨てて、中国風の名前に改名したのですか。 強制されたワケでもないのに・・・。 同じ地続きである満洲やベトナム、モンゴル、ウィグル、チベットなどは独自の姓名を保持しているのに対して、 確かに、朝鮮族だけが中国風の「李」「金」「朴」などの一字姓に変わっていますよね。 朝鮮伝統の「画部因斬羅我」や「医博士奈率王有僚陀」など長い姓名を名乗る文化は、もうありません。 朝鮮族だけが、強制されたワケでもないのに、簡単に伝統の姓名を捨った。 しかも、自主的に中国風の名前に改名した。 これはアジア民族の中でも、例外的な行為ですね。 なぜ朝鮮族だけが、こんなにアッサリと独自の文化を捨て去ることができたのか? 謎は深まっていきます。 重要なご指摘ありがとうございました。