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唐王朝はなぜ前後に分かれないのか
漢王朝は、途中で王莽の新にとってかわられたので、「前漢」「後漢」と呼ばれています。ところが、唐王朝は、途中で武則天の武周にとってかわられたのに、「前唐」「後唐」とは呼ばれていません。なぜなんでしょうか。
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後漢の創始者である劉秀は前漢の景帝の息子で長沙王に封ぜられた者の末裔です。嫡流の劉氏から見た場合には、傍流もいいところの家柄でした。 実際に劉氏がその後に王朝を打ち立てますが、その他にも有力な勢力はかなりあり、そうした乱世を切り抜けたと言う意味で、唐の武則天前後とは大きく異なります。 また既に出ていますが、後漢は成立の時に豪族の支援を受けた経緯から中央集権国家としては前漢に比較し弱体で、支配構造も異なります。 唐に関して言えば、武則天の15年の治世後には李氏の皇帝が復活しており、その血統は正嫡の流れのままで、前後に分けるほどの大きな断絶はなかったと後世の史家が判断した結果でしょう。実際に武則天没後も武氏は皇族の一翼を担っていますしね。
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- tanuki4u
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歴史書を書いているのは、中国では基本的に、次の王朝の役人です。中国の役人は儒教家です。 儒教にとっては、女性の皇帝は認められません。というか、認めたくないのよ。 唐を前後にすること=武周を認めることは、女性に天命が降りたということになり、儒教家として認められないから、歴史書では前後唐と分けないとなります
- ppg-2
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前漢と後漢は実質的には異なる王朝と考えたほうがよいからだというのを聞いたことがあります。 以下のような理由があるのでしょう。 ・洛陽から長安へ遷都があった ・後漢創設者の劉秀は傍流だった ・後漢では豪族政権となり国政のあり方が変化した 当然、劉秀自身は漢の中興をなした再建者と思っており、国号は「漢」です。 同じような理由で、北宋と南宋を区別しているのでしょう。