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「匈奴 漢王朝」について教えてください
漢王朝と匈奴(きょうど)がどのような関係にいたか? 教えてください。 お願いします。
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- MURAI YASUSHI(@yasudeyasu)
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冒頓が匈奴の単于になると、匈奴を圧倒していた遊牧集団の東胡を滅ぼして大勢力に成長した。さらに建国直後の前漢の劉邦の遠征軍に大勝し、匈奴の権威を前漢に認めさせ有利な立場になった。更に西の月氏、北のテュルク系とおぼしき諸々の遊牧集団を討って取り込み、モンゴル高原全てを制圧した。 その後、文帝・景帝の時代には、前漢は匈奴に対抗できる力を持たず、匈奴に対して献上品を送るなど低姿勢に徹していた。 しかし武帝が前漢の帝位につくと、積極的に匈奴を討つ為に動き出した。張騫を西域に出し、月氏と結んで匈奴を討たんとしたが失敗に終わった。しかしこれにより西北の状況が詳しく解り、武帝は匈奴を討つ為の作戦を立てる。武帝は匈奴を誘い出すために北の都市馬邑で偽りの反乱を起こさせ、匈奴に内通する手紙を冒頓の孫軍臣単于に出した。しかし軍臣は途中で気づき、武帝の策略は失敗に終わった。 この武帝の屈辱は衛青と霍去病と言う二人の卓越した将軍によって雪がれる。二人とも度々匈奴を討ち、大戦果をあげた。この時期、匈奴には内紛がおき、国力が充実した前漢に敵し得ず、匈奴の勢力は北へ後退した。 宣帝の時代に後継争いで内紛が激しくなり、匈奴は東匈奴の呼韓邪単于と西匈奴の郅支単于に分裂した。呼韓邪単于は内部を治めるために漢に入朝し、自ら臣と名乗った。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。郅支単于も前漢に入朝したが、後に反逆し、周辺の諸民族を攻めて併合したが、前漢の陳湯・甘延寿に攻め滅ぼされた。 前漢が滅び、新を挟んで後漢が成立すると、右薁鞬日逐王比は漢の力を借りて今の単于を倒し、自らが単于になろうと漢に近づき、匈奴は二つに分裂した。これ以降、親漢派は南匈奴と呼ばれ、もう一方は北匈奴と呼ばれる。漢は遠征軍を出し、班超の活躍で西域を平定した。 その後、南匈奴は後漢に属し、万里の長城内の中国本土に移住し、その後も後漢・魏・西晋に統治された。曹操が南匈奴を5分割にして統治して以降、魏・西晋は南匈奴を5分割統治した。北匈奴は南匈奴・鮮卑・烏桓に圧迫され、後漢の竇固・竇憲らに討伐され、西に流れていった。この流れていった北匈奴が後にフン族になったという説は有名である。黄巾の乱後、長安から逃げ出した献帝を南匈奴の於扶羅が救った。この頃から多くの族人が以前より南に移住するようになり、後の五胡十六国時代の引き金となる。
お礼
ありがとうございます。 調べてもなかなか見つからなかった内容だったので、参考になりました。