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善について 2
●わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。 人間のしてることでいいことって 何かありますか? 思い当たる方、教えてください。
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- starflora
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わたしは、初めの頃の No.3 の回答の最後に、以下のように記しました。この意味が貴方に理解できたのかということを考えます。 実は、これは何を書いているのか、分からない文章なのです。無論、書いたわたくしは、朧にその意味を知っています。しかし、説明をしなかったし、これは、補足がなければ、そもそも分からない文章なのです。いま一度、引用しましょう。 他者の心や考えや、その存在の悲痛が、いかに深淵に満ちたものであるのか、まともに理解できておられないようですから。 ==================================================================== こういったもろもろのことを考え併せて、しかし、この世には「何かよいことがあるのか?」という問いは、他人に尋ねる問いでもあるでしょうが、自己で問い続けるべき問いでもあるでしょう。そういうことを言っていると宗教的だと言われてしまうのですが、「貴方が生きる」とは、「貴方が生きる」ことなのです。そんなことは分かっていると思われるかも知れませんが、それが「分かっていれば」、聖人でしょう。人間の本性から発露された善や、人為・自由意志による善は、探せば、無数にあることでしょう。無論、それらは、偽善や欺瞞や悪の泥沼のなかに隠れているというか、時に、それらと区別の付かない形であるのでしょうが、それが善であることは、人の苦悩の道を通じてしか実感できないとも言えるでしょう。 「生きよ、死せよ、休息せよ。汝ら、苦悩する雛鳥たちよ」生きよ、死せよ、汝ら、見捨てられし魂たちよ。「神の国は、そこにある、あそこにある、というようなものではない。それは、実に《あなたがたのあいだに》あるのだ」これは『新約聖書』にあるイエズスの言葉ですが、キリスト教の宗教の話だと思わないで、人間の生きる姿を的確に表現した言葉だと受け取るとどうでしょうか。神学的な解釈は色々ありますが、「あなたがた」とは、人間のことだけではないというのが、わたしのいまの考えです(天使のことでもありません)。 誰もかつて、「善」とは何かを知った者はいなかったのだとも言えるでしょう。善の探求、智慧の探求は、こうして、何時までも、人間の課題であり、人は、見捨てられし雛鳥として、いつも限りなく孤独で見捨てられ、しかし、目に見えない《あなたがた》のあいだにあるのだとも言えるでしょう。記憶違いかも知れませんが、インマニュエル・カントは、「我々を導くのは、頭上の星と、我々のうちなる理性である」と述べました。 答えになっていないかも知れませんが、答えのないまま、見捨てられし雛鳥として生きて行くのが、人の生きる姿ではないのかということです。神秘的な話だと言われるかも知れませんが、雛鳥の頭上の夜の空には、燿く一つの星があり、雛鳥を見守り、そして鳥の胸のなかには、理性と知性と、そして智慧への愛、善への志向の課題の自覚があるのではないのかと。こういう言葉です。 ====================================================================
- littlekiss
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ここを眺めてて、chihokoさんがタイトルであげた「善について」の質問内容は、 『わたしは 人間がやることは すべて悪におもえてなりません。 したがって なるべくなんにもしない事が 善かなあ・・・と感じています。 人間のしてることでいいことって 何かありますか? 思い当たる方、教えてください。』 ↑と、ありますが、スレとレスのやり取りを重ねることで、人の中に棲む優しい面と怖い面があることを実証されているのかなとおもいながら見ています。(この場合の人というのは、誰か個人を指すのではなしに『人=この世に生を持つ者(人間)』すべてを意味します。)一方を否定にかかれば、もう一方をも肯定できなくなる。人がこの世に存在するならば善なるものと悪なるものを別物と分け、人とすることは無意味。己の存在がないに等しい。善と悪をあわせ持つ者が人(人間)そのものなんだとみせつけられているようです。そう感じました。 『人間のしてることでいいことって何かありますか?』 ありますよ、いまこの場でも見てて感じます。他者が存在していることは、同時にわたし(自分)が存在している。ことの証です。ほら、愛しい旦那様を愛しく思えるのもchihokoさんが、この世に存在してるからでは?存在してること自体が“いいこと”なんじゃないのかなぁ? 一方がまた一方を否定し合う過程は、見え方として醜くも目に映るかもしれません。しかし、自己と他者を対比させることで、相手を否定している自己と他者の本質的な違いのないことが嫌になるくらいみえてきます。怖いです。怖いことを知っていると人は強くなるのかなぁ?死という恐怖に打ち勝てる強さを身に付けるのかもしれません。そのぶん、生への「いまを生きる」このいま(瞬間)を大事にかんじとれるのかともおもいます。 トンチンカン―☆な、回答になりましたらご容赦の程よろしく。
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- latipes
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命をつむぎ出すこと
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- good_speed
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補足。 “普遍的な悪がありえないのと同様に、普遍的な善はありえない” これが普遍の真理です。 これを以ってしても、この命題に議論することはまるで意味がない。 “太陽は本当に東から昇るのか?” こんなことについて議論することと何ら変わりはありません。
お礼
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- good_speed
- ベストアンサー率22% (103/453)
再度。 主人、主人と言いますが、人間のしていることで善がないのだとすれば、あなたはどういう判断で数多いる男性の中から、今の主人を選ばれたのでしょうか? あなたにとって善ある人だと判断できたからではないでしょうか? 案外、善が身近にあり過ぎて見落としているのではないでしょうか。
お礼
●主人はそんなたいそうなモンじゃ ありませんよ。 命の共鳴を 感じました。 出会ったとき ふたりはわけもなくケラケラ笑っていました・・・。
- Yusura
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丁寧な回答をありがとうございます。 ただ、私が言ったのは「人間の」に限定するわけではありません。何かが「存在」する、それだけのことです。 人間が存在することに善悪のラベルを貼ることは私にはできません。 また、自ら死ぬことはともかく、殺されることに悪は感じません。もし、殺したのが人間であり、反社会的な理由から殺したのであれば人間の社会にとって悪ではないかと感じます。 でも、もしそれが捕食動物の餌になったのであればそれはそれで受けいれなければならないことだとも感じます。同族殺しなら、時と場合によって白い目で見るでしょうね。 でも、あの・・・「その行いで存在を否定する」とは? よくわからない。もしよければお聞かせください。ぜひ聞いてみたい。 ふと思ったのですが、宇宙人にこういう意見をぶつけてみたいですね。いるかどうかは別として。 また、プライベートなことにまで踏み込んでいるとお感じになったら申し訳ない。人間の存在から受ける印象がつらいことばかり・・・とお書きですよね。少し、同じように感じています。環境問題なんか知れば知るほど目の前が真っ暗になります。とうてい理解できない残酷な事件が新聞をにぎわせているし、歴史に目をやれば戦争と拷問の繰り返し。日常生活でも人と軋轢があったり、些細なことに嫉妬されたりしたり。 暴力を描いた映画なんかもううんざりだと思ってらっしゃいませんか?これだけつらいことが現実で山盛りなのに、なぜそれをわざわざ進んで見なければならないのか、とか。 多分、そう思うのは私がいろんな問題に無力だからでしょうね。超人のような活躍ができて、世の中がまんがのように簡単に奇跡が起きてきれいな世の中になればそんな無力感に悩まされずにすむんでしょうけど。 ご自分でも同じように思ったことはありますか?もっと・・・なんていうのか、力があればこんなふうに思わずにすむのに、と。
お礼
●あなたの感性に 似たものをわたし自身のなかに感じます。 ●殺されることがどうして悪と思うか すこし話しましょう。 殺生がくりかえされるこの世の中で いま生きているということは 自分自身だけの生ではなく いまの自分につながるすべての生を 含んでいると考えるからです。そこはたぶん分っていらっしゃいますよね。 だから 自ら死を選ぶことは悪だと・・・。 殺されることを悪じゃないとするそのかんがえの延長には 他を生かすためにとか 自ら望まない死を選ぶということに近づいてしまう危険を はらんでいるように思います。 愛という本能が 対象を守るために殺されることを指向させる事実も 知っていますが、それもふくめて殺されることを悪としたほうが 命の尊厳と言う意味で つじつまが合います。 ●その存在の否定 の簡単な例をいくつかあげます。 ダムをつくることでそこで生きていた生物を無視して工事を行うこと。 イデオロギーの違いで 殺しあうこと。 おもしろいからと クラスメイトをいじめること などです。 ●ご回答ありがとうございます。
- latipes
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『善』とは、概念であって、行動が伴うとすると、『善行』ということになります。 概念として『善』を考える時は、ただ、考えるだけなので、他者に影響をもたらしません。 しかし、行動が伴う場合、一方向だけではなく色々な方向へ影響をあたえる。 ある対象にとっては『善行』であったとしても、究極的には他の対象にはそうでない。 したがって、完全に『善』と言いきれる行動はない。 だとすると、この質問に回答できる人はいない。 なぜなら、『人間のしていることでいいこと』を回答しなくてはならないから。 『善』は『行動』上では、究極的にはただ『善』ではなく『悪』でもあるから。 どう考えても、『いいこと』が思いつかない。 そんなのないという結論しか出ませんが・・・・。 chihokoさんは答えを知っているのでしょうか? それともわからないから質問しているのでしょうか? どなたかからの回答から答えは見つかったのでしょうか? もしわかったら私にも教えて下さい。 よろしくお願いします。 では、失礼します。
お礼
●善とは 行いの価値基準で 最上級のものだと考えます。 ↑これは この掲示板のなかでの わたしの発言です。 そして この言葉の指し示しているものは 概念です。 「ある対象にとっては『善行』であったとしても、究極的には他の対象にはそうでない。」 おっしゃるとおりです。だからこそすべてに善でありうる 究極の善を (ほんとうは究極と言う言葉は必要ないのですが。) 考察することに 価値があるとおもうのです。 行いの指針として 参考になるからです。 ●善のイメージがあやふやな善行は 愚行なり! ●わからないから 教えて としています。 人間の行いで いいことって無いかもしれない とも感じています。 だから 新しい善の概念が 必要かなあとも感じています。 慎重に 慎重に まちがわないように まちがわないように さがしてみたいです。 ●ご回答ありがとうございました。
- Yusura
- ベストアンサー率50% (607/1207)
存在していること。営みみたいなもの。 もしそれが悪なら、死ぬことが善になるのでしょうか。それなら、すくなくとも「すること」のなかに善があるでしょう。
お礼
●継続して存在するためには 営みが必要ですよね。 ですから 存在そのものを善とかんがえてもいいとおもいます。 もし人間の存在を善とするなら 気持ちできにはとても楽だとおもいます。 つらいときには そういう解釈も許されるでしょう。 しかしねえ 自分をふくめて 人間の存在からうける印象が つらくなることばっかりなんですよねえ・・・。 ●最近は主人にだきついて眠る時間にのみ安らぎを見出してます。
補足
●自ら死ぬことも 殺されることも 悪です。 直接であれ間接であれ その存在を否定されることすること(悲しみ)は 悪です。生きるためには生き物を摂取しなければなりません。 だからそのための殺生は 対象を否定しているのではなく その命を自分の命の中に取り込んでいると解釈できます。 自然界は そのような異論を受け付けないまでの完璧な摂理を もっています。 ●人間だけなんですよ 行いでその存在を否定しているのは・・・。 とっても かなしいです。
- tuzakky
- ベストアンサー率31% (6/19)
笑うことは善ですか?
お礼
●笑うことに善をひきあてる 着眼は すばらしいと思います。 笑うことを 考察するととても複雑な背景がうかびあがります。 わたしはセミの生き様に 善を感じていますが アメーバにも善をひきあててみたのです。無に近いいきもの=アメーバということで セミに善を感じたわけを考察してみて 感じたのですが 程よくエッセンスが 形として具現しているわけです。 雄をたべちゃうかまきりの姿は 複雑で理解不能です。 (おなじオスが交尾しないようにするシステムだとは思いますが・・・。) さて笑ですが わたしはどちらかと言うとひとの不幸でふきだして わらってしまうような 不謹慎者の一面を兼ね備えていますし。 そこをねらったコメディも多数存在しますよね。 笑いを 善とするには 笑いのもつポテンシャルは複雑すぎると思います。 ●あなたの 発想は スゴイ!~(^◇^)/ぎゃはは
補足
●できたら ジャイナ教 かるくおしえてください。 (なんジャイナとは 決して申しませんので・・・。)
- tuzakky
- ベストアンサー率31% (6/19)
不殺生戒を守るジャイナ教は善でいいですか?
お礼
●ジャイナ教ですか 知りませんのでコメントできませんが ジャイナという響きはPOPですね。
補足
●ジャイナが 笑える宗教なら ぜひ わらわせてください。 笑う角には福来る。
お礼
ほかのことにも時間を使いたいので 質問を締め切らせていただきます。 ●ご回答いただいた皆様に お礼の意味で以下を紹介させていただきます。 ●角川書店「死刑執行人の苦悩」 よりエピソードを抜粋。 その死刑囚は30代なかばであった。 世間からはむろん肉親からもみはなされて まったくの ひとりぼっちという おおかたの死刑囚にくらべれば その死刑囚はまだ恵まれているほうだった。 妹が面会や差し入れに来ていた。 遠くに住む姉からも 手紙や差し入れが送られてくる。 それでも 死刑囚は不満らしかった。 彼には 感謝というものがまるでない。 せっかく面会にきた妹に悪態をつく。 貧しい生活のなかから工面した差し入れ品に 文句をつける。 面会に来た妹が 泣かずに帰ることはなかった。 「どうせ死ぬんだ。」その死刑囚の口癖だった。 そして警務官に いちいち食ってかかる。 なにかにつけて ことごとく牙をむき 凶暴性をむきだしにする 手のつけられない死刑囚だった。 しかし 法務大臣の執行命令書が届けられた翌日 いつになく しんみりとした口調で 死刑囚は警務官に語りかけてきた。 「おれ 死ぬのはいいんだ。だけど おれは 四人も殺したからなぁ・・・。 四人の命を おれひとりの命で償えるのかなぁ。」 鉄の扉ごしでなければ このとき警務官は 死刑囚をおもいっきり抱きしめてやりたいとおもった。 死刑囚は本当は 素直に周囲の愛情を受け入れたかったにちがいない。 ●わたしの詩より [せみ] にまつわるものを ひとつ。 [ カナカナ ] 午前四時 眠れないわたし つい今しがた降り出した雨 まだ明けぬ空に カナカナが鳴き始めた 一匹鳴いたら あちらこちらで鳴く声が重なった うす明かりの山々に悲しく悲しく響いた ふと 思った 今日までの命かと ●わたしたちのご先祖様が 築いてきたさまざまな文化と文明へ 敬意をはらって いま そのそれぞれの延長線上に 新しい世界を築こう。 互いの存在を侵さず 地球上のすべての命たちと共に その豊穣なる多様性への道を歩もう。 生を受けた誰もが ここがパラダイスだと感じる日々が来ることを信じつつ・・・。 ネバーギブアップ! 決してあきらめるなっ! chohoko