「社会」というのは多層的で多義的ですので、これに対して一定の善悪や功罪で仕分けるのは無理だと思います。
かといって、「~だけは明か」などと前置きしつつ偏った推論混じりの要素だけを列挙してあたかも客観的見解のように装うのも野暮ですので、自分なりの推論に基づく主観という前提で回答してみます。
端的に言って、ウィキリークスの基本姿勢は「反権力」だと考えます。
情報の秘匿と利用こそ権力の重要な源であり、或る情報を漏えいさせることは或る権力への対抗を意味します。
ここで重要なのはそれが事実であるかどうかではなく「誰かにとって不都合な情報」であることです。
情報には検証作業が欠かせませんので、その真偽に関わりなく或る情報の露呈は挙証なり論争の契機となり、複数の情報、つまり事実により近い情報が露出します。
情報が事実と信じられる程度に無矛盾で、なおかつそれが法規等に従わない内容であれば、結果として必要以上の権力が公然と抑止される効果を生みます。
またあるいは、検証不可能な乏しい情報であったとしても、明確な反証がなされない限り、ガバナンスへの監視が惹起されることにより一定の過剰な権力行為が抑制される期待があります。
また云うまでもなく、偽情報であることが頻繁に疑われるようであればその媒体自体が淘汰され、残った情報媒体の信頼性を担保します。
つまり、情報漏えいサイトという媒体の有りようは「権力の制限と監視」という民主主義を効率的に運用するために有用なツールとしての機能を満たしていると考えられますので、それは善なり功なりと考えます。
一方、ソースを秘匿した情報が真偽の検討を経ないまま流言の温床となって社会に無用な混乱を引き起こし、コミュニティとしての側面からガバナンス自体を狂わせるという危険性もあり、これは悪なり罪だと考えます。
総体的に評価の針をいずれに振るかについては、情報の取捨選択に恣意性が有るかどうか、という点を検証の要にしたいところです。
これについて、ウィキリークスは複数大手マスコミへの事前提示による検証という客観化の手順を踏んでいますので、いたずらに情報の混乱を目指したものではないと云う主張には一定の理がありますが、このプロセスはクローズドであるので、つまるところ情報操作を隠匿しているのではないか、という疑念もまた妥当です。恣意的に選択された偽情報はテロリズムそのものだと云えますから、その危険性は常に考慮すべきです。
なので、ソースの秘匿は已むなしとしても、ソースの偏りの排除と検証のスキームをアナウンスした上で個々の情報についてプロセスを透明化すべきでしょうし、複数の矛盾した情報があればなおさらでしょう。
あと、運営サイドの諸情報は組織防衛のために秘匿するとしても、収益事業に類する財務形態の有無は明確にすべきかと。
私益無きが正義だなどと幼稚な事は云わなくとも、疑念を排除することで情報の価値を担保するくらいの誠意なり処世術は期待したいものです。
とはいえ、実際のところ、漏えいサイトという存在が情報の民主化であるのかテロなのか、これは尽きない疑問です。ウィキリークスに関してもあまりに情報が不足しています。
でもこれって、ぶっちゃけマスコミ業界全体にも同様の考察をする必要があるのでは・・・とも感じますので、「一石を投じる云々」という使い古された評価は実に的確なのかも知れません。
お礼
回答ありがとうございます。非常に明晰な意見だと思いました。