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存在は善である?
「存在」について、少しだけ問います。 チワワは犬である。のように、集合的には、主部よりも述部が大きく広いことが一般的ですね。 善は、存在である。 悪は、存在である。 物質は、存在である。 反物質は、存在である。 時間は、存在である。 空間は、存在である。 存在という風呂敷は、あらゆる事物を包み込み、 存在よりも広い風呂敷など外にないと思うのです。 では、存在は善である。はどうでしょう。 存在を意図的に(恣意的に)随分矮小化してませんか? 存在の性質を余す事無く表現していないでしょう。 つまり、言及が部分集合的だと思うのです。 「存在は善である。」は、ちっとも、一般的でも普遍的でも ありません。 「存在には、善という性質もある。」 ならば、納得ですが・・・。 だから、何なのだとも思います。取り立てて言うことか? さらに、『善先悪後』、『善主悪従』という性質があるでしょうか? これらのように限定化、特殊化すると、やはり、一般的でも普遍的でも ないように思うのです。特殊命題ではないかと。 皆さんは、どのように思われましたか? 「存在は善である。」には、納得でしょうか?
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お礼
丁重なるご挨拶、恐縮します。 そして、ご回答には、全く同感です。 明晰なるご回答、ありがとうございます。 >原理的に対(ペア)で同時発生します。 そのとおりだと思いました。 そして、善と悪という存在は、おそらく、「共存在」あるいは「対存在」なのだと思いました。先後ではなく、同時であり、主従ではなく、対等なのだとも思いました。賛同意見があって、安心しました。
補足
少しだけ、お礼欄の追加説明をさせていただきます。 善と悪をそれぞれ単一の存在として見る「素朴な二元論」では、かなり幼稚な哲学水準で、21世紀の現代哲学の成果を無視しているようです。 相互依存的な対立概念として、「共存在」あるいは「対存在」という一元化された存在と見るべきなのではないでしょうか。ただし、さらに、善悪を超越した存在をも包摂して、存在の範疇は、広大なのだと言うべきなのでしょう。そして、存在を善悪の価値判断可能領域に限定するようでは、狭小に過ぎると言うべきなのだと思います。 『存在の矮小化反対!』そう叫びたい気分です。