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悪と善

われわれはどうやって悪を善から区別しているのだろうか?

みんなの回答

  • owlsjp
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回答No.21

 例えば、自己犠牲をして自分の幸せを得るなどということが矛盾であり、欺瞞、嘘偽りであることに気づかない人間が 不正 であり、悪であるということもあると思います。  自分の幸せのためだから 自己犠牲ではない のにね

回答No.20

難問です。 たとえば「判断力によって」というのは答えになっていない、というスタンスでいきます(答えに詰まるかもしれません)。 「黒と白」をどう区別するかなら、たとえば「目でみて」、「熱いと冷たいなら、触ってみて」と答えますが、そういう明快さで「善と悪」をどう区別するかという問いなのだと思います。 感覚的な区別なら「感覚器官」で区別するでいいしょう。 「あの人はどうも見覚えがある」「ない」といったいわゆる暗黙知的な区別なら、「認知心理学」に答えの方向があります。 「2+3」は「5」であるという数学的判断は、「数学的直感」によると答えた数学者もいたと記憶しますが、それでは、たぶん質問者さまは納得しませんね。ここでは「習慣づけ」といっておきます。 「毎日、歯をみがく人なら、歯を磨かないで寝ると、なんだか気持ち悪い」という感覚が「悪」の感覚に近いといってもいいのではないでしょうか。 わたしたちは幼いときから、「何が悪で、何が善であるか」を徹底的に叩きこまれて育ってきました。すべての判断は、根底に陰に陽にこの「原判断」によって支えられているように思います。 「嘘をつくのは悪い」は、すでに無数に「事象に適合する言葉をはっすること」が当たり前(善)というか、「嘘をつかないこと」で無数の「恩恵」を受けてきた人間にとってのことです。赤ん坊のときに、親に嘘をいっていたら生き延びられません。 気づいたときに人はすでに「善」の内部にいるわけです、そこから、その外にあるものを「悪」と呼ぶわけです。 「人殺し」が悪なのは、それを悪とみなす「内部」があるからこそです。たとえば「戦争」で、あるいは「末期患者の病床」でならば、「殺人」をたんに「悪だ」といえないのは、そう判断する「内部」が変化しているからです。(だいぶ話がこんがらがってきてすみません) 「習慣」は「親が子に教える」わけですが、そこに数千年、数万年もの知(情報)の蓄積があるのだと思います。そういうふうに選択してきただけなのですが、気の遠くなるほどの永い年月のあいだに、ある種の道徳的判断が「必然的(ねばならない)」判断になったのでしょう。 広い意味での、この「習慣」のなかで、私たちは暮らしています。なにか不正なことをして「金儲け」をしても、私たちは真に「幸せ」にはなれせん。この習慣のなかで、たとえば「自己犠牲をいとわず人のために何かする」とそれが「幸せ」なのだと思います。 この習慣という枠の外れた場合(薬物か病気で)、それは善悪の世界から追放されているだけで、それを「悪」とは言わないのではないでしょうか。「善悪の彼岸」はたんなる空虚です。 「善と悪をどう区別するか」の答えとしては、「幸せのため」ではちょっと甘いですね。わたしたちのこの大いなる「身体」がそう判断している、これでどうでしょうか。

  • owlsjp
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回答No.19

 他者が強気の態度で臨んでいるか、弱気でいるかはあまりその個人の認識力があるかどうか、正しい振る舞いをしているかどうか とは関係ないかと思います。むしろ反比例するケースが多いかと...  善悪の定義:  善 は正  悪 は不正

回答No.18

 社会的な‘善や悪’と言うことでなく、自分の良心がとがめる、と言ったような、自身の心の問題として捉えての参考意見です。  人は好ましい状態のときは、胸を張って堂々としていられます。  反対に好ましくない状態のときは、うつむき加減で、他人に顔を見られたくないような心理状態になります。  そして‘言い訳’です。  自分が悪いと思えるようなことをしてしまった時って、他者に咎められなくても、自分に向かって‘言い訳’していることがよくあります。  反対に、間違ったことをしていないと確信出来るときは、他人に非難されても、自分を納得させようと自身に‘言い訳’すると云うことは無いようです。  もちろん他者に、説明すると言ったようなことはするでしょうが、それは自分への‘言い訳’とは違うようですし。  自身への‘言い訳’と言う視点からのみの考えです。  社会的な、善とか悪とかの区別は不得意なので、他者の回答に期待します。      

  • owlsjp
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回答No.17

> 人に不快な思いをさせないこと自体 は良いことであったとしても。  この表現はあまり正確ではなかった、たとえば 他者をこっぴどく叱ることは、たとえ相手を一時不快にさせるようなことがあっても、それで相手が改心したりすれば結果的に良いこと(善)をしたという可能性も「十分考えられる」から、やっぱりどこまでいっても 快不快が善悪の基準とは言えないわけだ。

  • owlsjp
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回答No.16

 ああ、そうか、善悪の定義ではなく普段人間がどのように善悪を判断しているかという質問か、  であれば 迷惑か、迷惑でないか でしょう。  しかし、迷惑とかそうでないとかいうのは個人の主観や考え方や価値観によって変わるものであって、善悪とは全く別であり、いわば快か不快かということに過ぎないと思うんだが、そんなことも解らない人はもうすでにイカレてしまってるんだろうか?  いや、「他者に不快な思いをさせないということが、自分の立場を守り、ひいては生き残って子孫を残すことにつながるから、 善 である」という人間にとっては、生き残るか生き残らないかが第一命題になっているという意味において、迷惑をかけるか、かけないかが善悪の判断の基準になってしまうんだなぁ と納得。  しかし、俺にとっては 迷惑とかどうとか主張する人間が 迷惑だ。よって迷惑、迷惑と騒ぐ人間が悪である。  人に不快な思いをさせないこと自体 は良いことであったとしても。

回答No.15

直観と思考に概念、あと自分の都合。

  • owlsjp
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回答No.14

 信仰や神仏と 善悪 の問題は別ですね

回答No.13

参考になるかどうか判りませんが、1994年に書いた日記からの転記です。 >>> 今、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの利益をもたらしたとする。 人々は、喜び、称え、「我等が神よ!」と叫ぶことだろう。 そして、人の思考を超越した存在が、人との関りにおいて、なにがしかの災いをもたらしたならば、 人々は、恐れ、戦き、「我等に災い為す悪魔め!」と叫ぶことだろう。 人々に利益をもたらすものは神であり、災いをもたらすものは悪魔であると、 単純に割り切って考えることが原初の神と悪魔との概念を形作ってきたものと思われる。 この間の水不足の折り(94年秋)、日本のある農村で伝統的な水御いの儀式のTV放送があった。 人々は御神体を川につけ、「雨を降らさないなら、流してしまうぞ!」と何度も脅していた。 そこに古来の信仰の対象である農村の「神」の位置付けを見、さらに「悪」とのぎりぎりの境界で 「神」として捨てきれない心の表れをも見た。「災いを為す神は神ではない」と言いたげであった。 <<<

  • owlsjp
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回答No.12

 確かに智恵の実を食べ、善悪を判断し、他者を裁くようになったから人間は 堕ちた のだと思います。  究極的には善悪というものは存在しないか、あるとしても 完全な認識力を持つ存在でしか判断、区別できないでしょう。そして、もし善悪を認識できたとしても完全な善と悪はないでしょう。  しかし、唯一悪と言えるものがあるとすれば、それは他者を 悪 と定め、裁く人間や法律でしょう。  少なくとも個人の嗜好や快不快が善悪の基準ではないわけです。

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