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夏目漱石の「こころ」について
先生は自殺するときに、Kと同じように「もっと早く死ね ばよかった」と思ったのでしょうか。理由も聞かせてもら えるとうれしいです。 ちなみに、僕はどっちもありだと思うのですが、どちらか というと思ったのではないかと考えています。理由は苦し い思いをするくらいなら…という感じです。
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「先生」は自殺するときに、「もっと早く死ねばよかった」とは思わなかったと、私は考えます。 【理由】 ズバリ言って、「先生」は「引き延ばされたK」だと思います。「先生」は若い自分、自分は「K」とは違うと思っていましたが、案外似ていました。 それぞれ身内と深刻な対立を生じ、または裏切られ、人間不信を植え付けられています。 二人とも、明治時代には珍しかった大学教育を受け、東洋・西洋の精神に接し、知的に煩悶する青年時代を送りました。二人は議論・口論をしましたが、精神的に影響し合っていました。 「K」はさっさと自分の命を絶ってしまいましたが、そのことで良心の呵責に苛まれた「先生」は、長年懊悩した末に自殺を選びます。死ぬところまで思い詰めるという点でも、結局二人は似ていたことになります。 しかし、「先生」の「K」に対する裏切りは、高が恋の抜け駆けであって、三角関係では時折おこり得ることです。確かに汚いやり方でしたが、それで「K」に自殺されたからといって、抜け殻のようになったまま何十年も悩み、挙句に自分も自殺するというのは、尋常ではありません。 つまり、「K」や「先生」は、よく言えば形而上的に思い詰める人、悪く言えば変人です。「K」や「先生」は、自分の人生だけでなく、「お嬢さん」(のちの「奥さん」)の人生も破壊しました。生活には困っておらず、「先生」との夫婦仲も悪くないようですが、「奥さん」は何十年も真相を知らされないまま、夫の勝手で後家にされてしまうのです。 この作品の語り手である「私」は、「新世代のK・先生」(になる恐れがある)でしょう。やはり大学教育を受け、煩悶する所あって、偶然会った「先生」に何かしら精神的に深いものを感じ、その屋敷に通うようになりました。 「私」は、大学卒業と父危篤により、世間の荒波に巻き込まれようとしています。家産の整理・相続問題が起きそうになっていて、(都会での栄達をあきらめ)田舎に帰って「土の臭いを嗅ぎながら」家産を管理する人生になってしまうかも、という焦燥があります。 しかし「私」は、まだ人間不信に陥るような体験はありません。思い詰めるタイプでもなさそうです。それなのに、「先生」のことをよく知らないまま、尊敬して近付いていくのです。 そんな「私」に、「先生」は「私やKのようにはなるな」と教えたかったのだと思います。先ほど、「『K』や『先生』は、悪く言えば変人」と書きましたが、我々にとっても、人生を突如襲う運命次第では、彼らの煩悶が他人事でなくなるかも知れません。「先生」は「私」に不思議な無職生活を見せ、ついに遺書で、長く秘密にしていた「K」のことを明かしました。 「K」は「先生」宛の手紙を残して自殺し、「先生」は「私」宛の遺書を残して死のうとしています。 「先生」は長年「死のう死のう」と思いつつ決心がつかなかった節があり、「私」のために延期していたわけでもないでしょう。それでも、早く死なずに生き続け、「私」の大学卒業・父危篤の時期に至ったからこそ、結果的に絶妙のタイミングで「私」に遺書を書き送ることができたのです。「私」の家庭の事情を考えれば、迷惑なタイミングでしたが、もし在学中・父健在の時に受け取っていたら、これほど劇的な効果を生まなかったでしょう。 「K」は「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」と書き残しました。しかし「先生」は、引き延ばされた辛苦を嘗め続けても、結局は自殺を選んでも、それでも「早く死ななかった」という点に、人生の意味を保ったのです。 「先生と遺書」の「五十五」に、次の文があります。 「記憶して下さい。私はこんな風(ふう)にして生きて来たのです」 この作品の頂点をなす一文であると、私は感じます。 私は絶望しながら生きてきた。友を死なせてしまった、妻を幸せにできなかった。Kの死を、人間不信を、自我という怪物を、乗り越えられなかった。無為の人として生き長らえ、苦しみを引き延ばした果てに、敗北して死んでいく。それでも、あなたに最後に告げます。記憶して下さい、こんな風にして生きて来た人間がいたことを……。
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- Ganymede
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【誤字の訂正】 私による No.1回答の最初の部分の、 > ズバリ言って、「先生」は「引き延ばされたK」だと思います。「先生」は若い自分、 の「若い自分」は、「若い時分」の誤りです。訂正いたします。 それから、皆さんも既にご存知と思いますが、漱石は著作権の期限が切れているので、いくつかの作品を無料で読めるサイトがあります。 『こころ』夏目漱石 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/
- ASI-KANG
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意見は、「思わなかった」に一票です。 「先生」の精神的な生は「K」が自殺を図ったときに共に終わっていたのではないかと思います。後は、彼自身の手による肉体的な死が訪れるまで、亡羊と抜け殻のような生を続けていたのではないかと。しかし、生きることが自分への罰であるとか「K」への償いであるとか、そのような考えでもなかったのだろうとも思います。 「先生」の自殺は“たまたま”であったのかもしれませんね。子犬のように「先生」を慕う「私」という存在。それに加えて、明治という激動の時代が終わりを迎えるという大きな転機。「私」に重たい荷物を預けて、「畢竟時代遅れ」という大義名分の下、「よし、ここで死んでしまおう」と思ったのかもしれません。 酷く重たい荷物を持たされた「私」と、結局何も知らされなかった上に夫に先立たれるという悲運を背負わされた「妻」。そして絶望の末に自刃した「K」…「先生」はこれだけ多くの人を深く傷つけているのにも拘らず、彼の「遺書」はどこか儚げで悲しい出来上がりとなっています。読み手の毒気を抜くような感じです。「先生」の死を悲劇的だとさえ思わせるほどです。 実際の「先生」は、どうしようもなくエゴイスティックに生きてきたくせに、罪の告白と明治の終焉という二つのスパイスでそのエゴを包み隠し、死に際に留まらずそれまでの人生全てを「悲劇」と錯覚させる、大した食わせ物のような気がしてなりません。 だから私は、先生は「もっと早く死ねばよかった」と考えたというよりも、「死ぬチャンスがきた」というような思いで自殺の決意をしたのではないかと思いますね。やはり最期も究極のエゴですね。 夏目漱石がエゴイズムの追求をテーマにしていたので、その先入観があるからなのかもしれませんが、私の思うところはこんな感じです。