結果がすべて、というならば責任は「ある」と思います。しかし、それにいたる「経過」を考えると、親しい身内以外は、必ずしも断罪できるものではないでしょう。
つまり、Kが自殺する以前にも「私」は重苦しい責任を感じていたわけですが、自殺した後の責任と比べると、明らかに異なる要素が入っていると思います。表現しにくいですが、前者は「卑怯」な手を使って友人を出し抜いた(あるいは裏切った)責任、後者は友人を「死」に追い込んだ責任というふうに分けることができると思います。もちろん、両者はつながっているわけですが、それはあくまで「結果」であって、Kの自殺は予想外のことだったことは見落としてはならないと思います。
「結果的に死に追い込んだ」と言えばそれまでですが、この小説のミソはそこではないように思います。やっぱり、いろいろ考えるべきところはあるんです。
Kはお嬢さんが好きでした。「私」はそれを知っていました。でも、「私」も好きでした。客観的には、ここにおいて「男の勝負」が始まったのではないか、とすれば、「私」は正々堂々と勝負しなかった、つまり闘わなかったわけですね。闘わずして、「謀略」でものにしたことになる。ところで、これは「卑怯」の二文字で片付けられるでしょうか。
ずいぶん前になりますが、私がこの小説を読んだときは、何ともいえない罪悪感で胃が痛くなりました。客観的に見ると、やっぱり卑怯なんですよね。でも、本気で人を好きになった経験のある自分としては、自分を先生に置き換えてみると、その気持ち、理解できなくもなかった。胃が痛くなったのは、読み手の私の中でも葛藤が出てきたからです。
それと、Kの態度が煮え切らぬものだったので、「私」は明らかにイライラしていました。なおさら、こんな半端な男にお嬢さんを渡したくない、という気持ちも出てきたのかもしれません。この気持ちもよくわかります。
だから、結局、客観的には、「私」の行動は「良くない」ことだったのは明らかです。「私」にもその自覚はあった。だからこそ何度もKに自分の心を打ち明けようとしましたよね。どうせ明らかになることですし。
ところがKが自殺してしまった。もう、詫びることもできません。これによって先生は生涯その苦悩を背負って生きていくことになります。私は、この先生の「生きざま」と、それを「解き明かしていく」構成がこの小説の魅力だと考えていますが、いずれにしても、この苦悩を「責任」と考えるか、「結果」と考えについては、どちらとも言いにくい、その辺もこの小説の考えさせられるところだと思います。
お礼
お礼が遅くなってしまってすみませんでした。 とても丁寧に回答していただきありがとうございました。