江戸の町の大半を占めていた各大名や旗本の屋敷で働く最下級の奉公人が中間・小者でした。
軍役が予想された江戸初期までは、各家とも石高に応じた足軽や中間・小者をかかえていましたが武士階級の窮乏が進むとともにその数は減り、享保期(1716年~1736年)頃にはそういった譜代の奉公人はみられなくなりました。
足軽は最下級とは言え武士なので幕末まで細々と残っていましたが、中間・小者は口入屋を通し、期限で雇い入れる、出替わり奉公人となっていたのです。
最初は経費節減のため、参勤交代で江戸に在留中は賃金を払って雇い、帰国時に解雇するというこのシステムも、後にはもっと簡略化され、、特に人手のいる登城とか接待の時だけ人を雇うという形式になっていきました。そのため、雇用期間も初期の一年とか半年から、三ヶ月、一ヶ月、二十日、十日となり、はては一日雇いなども出現しました。
そうなると、それまでの譜代奉公人のように代々勤める訳ではないため、主人に対する忠誠心も親しみも無く、一期奉公で格家を渡り歩く者が多くなりました。
算術化家高橋保永(やすなが)という人が文政8年(1825年)に著した『勝手経済録』という史料によると当時の家計に占める人件費生活費は以下のようです
○高1000石
家臣(15人)人件費 30%
衣食住生活費(勤入用・女中給金含む) 63%
残 7%
○高500石
家臣(5人)人件費 11%
衣食住生活費(同上) 70%
残 19%
○高100石
下男女人件費 13%
衣食住生活費(同上) 83%
残 4%
お礼
中間・小者は雇用期間が短いためそれぞれなんですね、どうもありがとうございます。