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人命をどう考えるか?
日本における人命軽視の歴史的背景は、武士道精神の利用の他何故でしょう? 欧米特にアメリカにおける人命重視の思想は、白人優先とは思いますがその歴史的背景は何によったのでしょう?
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#6です。 ご指摘ありがとうございます。 >私は有色人種への迫害をキリスト教の布教のためとは考えていません。 >南米での布教は平和裡に進行したように理解しています。 ごめんなさい、ボクは南米に関して詳しくないので、もう少し調べてから回答させてください。 ただですね、 >日本におけるキリスト教の布教も迫害されても無抵抗でした。 では、島原の乱はなんだったのでしょう。 ただの一少年がおこした一揆だったんでしょうか。 >しかし誤った解釈に利用された所があるとはお考えになりませんか? そうですね、「誤った解釈に利用された」という「解釈」がデファクトスタンダード化してしまって「利用」されているなということは、あなたのご意見を拝見してとても納得がいきます。 過去の日本人の人命に対する考え方(観点とでもいいますか)はSombartさんの仰っているところに集約されていますので、ボクの説明で混乱してしまうと申し訳ないのでコメントは控えさせてください。 ちょっと本線と離れてしまうのですが >よど号 ??? ボクはダッカ事件のことを挙げたつもりだったのですが、よどの時にも同じことをいってましたっけ? >事件でのコメントはそうでも言わねば説明出来なかった~ >この場合毅然と拒否して人質が殺されたら世論はどちらを攻撃した~ その結果、テロリストを日本の外に出してしまいましたが、そんな政府を信頼できますか? 国内の問題ならともかく、テロを国際社会に放り出してしまった事実に対してどんな説明をもっても納得できないでしょう。 まあ、結果論でしかないので、いまさらどういっても肯定できることはないでしょうが。 自分でこの話題ふっておいて、本線から離れた話題で長文書いてごめんなさいね。 よど(ダッカ事件)の話はこの場ではここまでにしましょう。 この件に関してはコメントは必要ありません。 読み流してください。
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- Sombart
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> 私は人命の救済を重視するという概念の乏しさを問題にした > つもりですが、命を捨てる事を気概やプライドの問題とされ > るお説は理解は出来るのですが、納得するまでにはいきません。 理解できても納得ができないのは、事実よりも結論が先にあるときの特徴です。 そもそも、「重視」という概念は、何かと比較した時に初めて出てくる概念ですから、命との比較対象が明確になっていない時点で、事実よりも結論が先にあると言えます。私は常に比較対象を明示して述べてきましたが、そのことをよく考えて下さい。 なお、現代のヒューマニズム思想が偏重されている日本に生まれ育ち、あまり人類の歴史に対する素養が無ければ、左に偏った中高教育レベルの日本史に接した時にそのように感じても、不思議ではありません。 「平和ボケ」という言葉があります。あなたがそうだと言うわけではありませんが、例として便利なので使います。 この状態は、命を懸けて守るべきものがあるという気概を失って、命があれば幸せ、経済的に豊でさあれば幸せ、と人が感じている状態です。そもそも個人は共同体の中で生きるものですし、そのため共同体を維持するために命を懸けることもあるものです。 その感覚が分からないと、過去の人たちが共同体(国)のために命をかけた感覚も、理解できないものです。 似た話を参考 URL にも書いていますので、ご参考まで。 最後に、明らかな誤りを指摘しておきます。 to:No.6 > 南米での布教は平和裡に進行したように理解しています。 コルテスによるアステカ消滅はほんの一例で、平和裡というには程遠いものです。 アステカの民族大虐殺には、従軍した神父たちも率先してそれを煽りました。最後のアステカ王は、キリスト教に改宗すれば速やかな死の処刑を行い、改宗しないなら生きたままトロ火であぶり殺すと脅され、改宗して処刑されました。 キリスト教という思想が孕む独善性とそれにより発現されるヒトの残虐性を、甘く見てはひどい間違いを犯してしまいます。 かの思想には、愛と平和を広める面も確かにありますが、そうでない面も、確実に持っているのです。
- Sombart
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> しかしそのようなケースならそもそも法務大臣に就任すべきではありません。 いまはそんな話をしているのではありません。 法務大臣が職務放棄をするほどに人命偏重の状態にあるということを言っているのです。 > しかし生命の無条件差し出しまで取り決めて居ません。 誰が無条件差し出しということを言っているのですか? > 沖縄戦での集団自決の半強制 これは嘘です。あなたは左翼にだまされています。 そのような証言もありますが、軍令で自決したと証言しなければ、年金が出ないという状況があったという生活レベルの苦境があったことが既に解明されています。 他方で、自分から足手まといにならないよう自決していった人たちがいたという証言もあり、当時の日本人の心証をあらわす他の事例から類推すると、その方がはるかに信憑性が高いと言えます。 > 戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受ける無かれ」という洗脳で > 失われた生命は日本だけではなかったのですか? まず、降伏して捕虜になり誇りを奪われるくらいなら全滅してでも戦うという気概は、全人類の歴史で見られるものです。その気概は多くは愛国心や組織への忠誠心から出ているもので、これを洗脳と呼ぶのなら、あらゆる教育を洗脳と呼べるでしょう。 誇りというものの価値は、往々にして命より上位に位置付けられるものです。 ただし、戦陣訓のケースは、敗色濃厚になった頃には気概とは違うものとして発揮されているのは確かです。これは、洗脳ではなく、軍の官僚組織におけるエリート保護の思想とみなすべきです。失敗は部下に責任を取らせ、エリートに傷をつけさせないようにするという、比較的日本の社会の特徴と言える行動原理です。 余談ですが、このエリート保護の思想は、未だに日本に存在し、官尊民卑の社会制度や高級官僚の無責任状態として確認できます。 つまり、このケースは人命が軽いのではなく、エリートのキャリアが何にもまして(むろん兵士の命よりも)重いのです。 > 沖縄戦では野戦病院の後退にあたり担送出来ない傷病兵に毒 > 薬を与えまたは注射し、自爆用手榴弾を配ったと聞きます。 これは、気概の問題と捉える方が自然です。戦場で一番困ることが何なのか知っていますか? まさにこの負傷兵の存在です。輸送や治療に人手がとられ、1人の傷病兵によって数人の兵士の戦力が奪われるのですから、1名を負傷させると、実質 1+数名の敵を倒したのと同じ効果があります。そうなるくらいなら、早々に自分は死んで、心置きなく戦って欲しいという気概を持つ兵士は、多くいたのです。 そもそも、なぜ「自決用手瑠弾を渡した」だけで部隊が移動してしまえるのだと思いますか? 降伏させて命を救うより、情報漏れを恐れて口を封じたいのなら、殺してから移動することが軍事的には合理的です。それをしなかったこと、そして自決していった人たちが多くいたことから、気概の問題であったことが言えるのです。 第三次ポエニ戦争のときのカルタゴやユダヤ戦記の事例と同じで、それらの事例は、日本のものではありません。 むろん、命が惜しくて自分の手で民間人や負傷兵を殺害したり放置したりした事例が0とは言いません。が、それは戦場の非情さがもたらす悲劇であり、これこそ日本だけではありません。 > 南方離島でのバンザイ突撃、自決の例はどうなんでしょう? バンザイ突撃は、戦術および戦術を改善していくプロセスの未熟です。余談ですが、改善していくプロセスの未熟は、現代にも尾を引いていて、未だに成功事例にしがみついて業績回復できない企業が多くあります。 余談はともかく、はじめうのち、司令部はそれで勝てるつもりでいました。負け続けていっても、エリート保護の思想ゆえに改善ができなかった結果です。 また、「自決」だけではどの事例のことか、分かりません。 > 日本国内で臓器移植が受けられず、アメリカで手術を受けるた > め高額の資金を用意し渡航するのは何故なんでしょう。 これは、まったく本題と関係の無い話ですね。 日本で臓器移植ができないのは、移植という医療自体に対する社会的コンセンサスができておらず、移植技術や臓器保存技術、輸送態勢の構築、マッチングや優先順位の設定のシステム構築など技術的課題も多いからです。人命軽視とは何の関係もありません。賛成側も反対側も、大筋において救える命は救いたいと思っている点では変わりません。
お礼
かさねてのご回答有り難うございます。 私は人命の救済を重視するという概念の乏しさを問題にしたつもりですが、命を捨てる事を気概やプライドの問題とされるお説は理解は出来るのですが、納得するまでにはいきません。 ノモンハン事件でソ連の捕虜となった軍人を停戦後釈放帰還した時、将校は自決を強制されたといい、 兵は死地に派遣、戦死するようにし向けたといいます。 この場合防諜の問題は既に終わった筈で、確かに気概、プライドの問題だけでした。 山下司令官戦死の際、護衛戦闘機のパイロットはその責任を問われ戦死するまで危険な任務に出撃を命じられたといいます。 カルタゴやユダヤ戦記での玉砕は奴隷としての生存がどのように悲惨なものか現代人に理解出来るものではありません。 それより死を選ぶのは理解出来るのです。 どうもこの論議は平行線を越える見込みはないようですので打ち切りにしたいと思います。 最後に色々ご指摘有り難うございました。
- heygoro
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あなたがどういう情景を見て人命と歴史的背景を結びつけたのかちょっと興味があります。 ヒトの命を語るならどちらかというと宗教的観点で語るべきでしょう。 欧米の白人主義は、歴史的背景ではなく、キリスト教という宗教観の問題です。 いわゆる、欧米列強が他の有色人種に対する迫害をおこなったのは、その土地土地にある土着宗教の撲滅です。 そうしないと、キリスト教の布教ができませんから。 武士道精神による人命軽視の考えた方は完全に謝りです。 あえて、そういった方向に持っていこうとして、こじつけた結論としては、「プライド」の問題ですね。 かえって、ヒトの命(この場合、名誉と考えてもいいかもしれません)が大切だからこそ、死という選択肢を尊重するという考え方もあります。 この場合の人命とは、単純に生き死にというとらえかたではなく、その人が背負っている生き方そのものに対する命のとらえかたです。 ちなみに、「人命は地球より重い」とほざいてテロリストを世にはなった総理大臣が昔いました。 かなり、人命重視な日本人だと思いますが(相当な皮肉です)。 このアドバイスに間違いがありましたら、ご指摘ください。 よろしくお願いします。
お礼
ご指摘有り難うございます。 私は有色人種への迫害をキリスト教の布教のためとは考えていません。 そのような思想があった事は否定しませんが、南米での布教は平和裡に進行したように理解しています。 日本におけるキリスト教の布教も迫害されても無抵抗でした。 武士道精神に生命軽視の概念が無いこともお説のとうりです。 しかし誤った解釈に利用された所があるとはお考えになりませんか? よど号事件でのコメントはそうでも言わねば説明出来なかった政治テロ対応と見ています。 この場合毅然と拒否して人質が殺されたら世論はどちらを攻撃したでしょう?
- Sombart
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> 法務大臣が信念を持って職務を放棄しているとは思いません。 > 少なくとも法曹が下した判決を冤罪を恐れて執行を躊躇してい > るだけです。 誰も信念の話などしていません。 遂行すべき職務を遂行していない状態を、日本語では職務放棄と呼びます。思う思わないの問題ではなく、単なる事実の問題です。 しかも、他者の頭の中をよくそのように断定できますね。それとも、あなたは法務大臣本人なのですか? > No1の回答者の方へのコメントにつきますが、終戦の決断が > 1日早ければ数万の命が救われたという歴史的事実が重いのです。 重いと思うのは自由ですが、そこから人命軽視だの人命重視だのという結論は出てきません。 近代戦における戦争とは、国民の生命をかけて戦うものなのですから、当然戦争目的の達成は生命より高い価値を認めていることを意味します。国家のレベルにおいて。 そして、戦争を行った国、また今も戦争を行っている国々には全てそれが言えるということです。日本だけが特にどうこう、米国だけが特にどうこうと言える話ではありません。 結論として、「日本における人命軽視」という問いの前提が存在しないということですね。存在しない現状に、歴史的背景などは当然ながら存在しません。
お礼
法務大臣が死刑廃止ないし死刑禁止論者であつたとしてその信念に基づき死刑の執行を行わないケースを指したつもりですが、職務放棄にはまちがいありません。 しかしそのようなケースならそもそも法務大臣に就任すべきではありません。 近代戦についての解釈はお説のとうりで、有事立法でも財産権の制限など規定しています。 しかし生命の無条件差し出しまで取り決めて居ません。 沖縄戦での集団自決の半強制、戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受ける無かれ」という洗脳で失われた生命は日本だけではなかったのですか? 日本では戦時捕虜に関する国際条約の存在は教育されていませんでした。 沖縄戦では野戦病院の後退にあたり担送出来ない傷病兵に毒薬を与えまたは注射し、自爆用手榴弾を配ったと聞きます。 南方離島でのバンザイ突撃、自決の例はどうなんでしょう? 日本国内で臓器移植が受けられず、アメリカで手術を受けるため高額の資金を用意し渡航するのは何故なんでしょう。
- Mascarpone
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日本人が欧米人に比べて人命を軽視していると感じられるたのはどういう場面だったのでしょうか。 「武士道精神の利用」とおっしゃってますが、武士道とは死ぬことではなく、「禅思想」の体現であり、自分を見つめ、人間を見つめる思想だと私は解釈しています。欧米人の思想背景はキリスト教であり、キリスト教は神と個人の契約にもとづく信仰です。そこには神から授かった命を守ることが神への感謝と約束であり、当然殺人も自殺も神との約束に反するのです。日本において最近の自殺志願や殺人事件が起きてますが、これは「生きる」ことの大切さや価値を見出せないことが原因ではないかと思います。人間を見つめること、人間とは何か、何のために生きているのか、そして社会と個人(自分)との「かかわり」を感じられない今の無関心社会が「人命軽視」と映るのではないでしょうか。 それと、私の好きな言葉で「人の一人を惜しみ、物の一つを惜しむ」というのがあります。物を大切にすること、感謝することと人間の生命を大切にすることは同じなんだ、というある法律家が残した言葉です。物を大切にしない社会が人命軽視の背景かもしれませんね。歴史的背景というより、戦後の日本人の倫理価値観の指針(道徳)などが過去の思想教育の反省から今日まで避けてきたツケが背景にあると思います。ご質問の答えになっていなかったらごめんなさいね。
お礼
ご指摘有り難うございます。 宗教観からみた現状はお説のとうりと思います。 私は「武士道」を道徳律と見ていますが「廉恥」を忘れたように見える現状は、やはり戦前の洗脳のオリが残っているのでしょうか?
- gokuh_
- ベストアンサー率39% (89/226)
武士道精神は人命軽視の思想ではないですよ。 「人の命より重い大切なものがある」とするならば理解できますが、その場合、欧米人でも同様な感覚は持っています。 「人の命より重いおもが存在するか否か?」という面での論議も当然あるでしょうが、人命軽視とされる奴隷制度・人身売買・人体実験と同じレベルで論ずると「~その歴史的背景は~」の回答が見当違いの方向へ行ってしまう可能性も出てきます。 もしかしたら第二次大戦中の特攻・玉砕戦がそれにあたるとし「武士道精神の利用」と述べられたのかもしれませんが決して「特攻・玉砕」=「武士道精神」ではありません。 アメリカも必ずしも人命重視とは思えませんし。 日本と欧米と比較するより、身分制度上における人命の軽視傾向の歴史、貧富の差や人種、思想から生じる現状等を比較しながら検討する方が良いのでは無いでしょうか?
お礼
ご指摘有り難うございます。 質問が舌足らずの点がありました。 武士道精神に人命軽視の理念がないことは承知しています。 しかし「葉隠れ」を「武士道とは死ぬこととみつけたり」と一括りに解説し、「特攻、玉砕」に価値観を与えた考えに人命に対する配慮を見ることは至難です。 >身分制度上の人命軽視傾向の歴史、・・・ ご指摘のとうりですね。 考えて見ます。
- Sombart
- ベストアンサー率16% (45/267)
そもそも現代日本には人命軽視などという傾向はありません。 死刑執行すら、法務大臣が職務放棄していて行われない状況ですから、むしろ逆に偏重されていると言ってもいいでしょう。 何をもってそのような判断になったのか、不思議です。
お礼
ご指摘有り難うございます。 法務大臣が信念を持って職務を放棄しているとは思いません。 少なくとも法曹が下した判決を冤罪を恐れて執行を躊躇しているだけです。 No1の回答者の方へのコメントにつきますが、終戦の決断が1日早ければ数万の命が救われたという歴史的事実が重いのです。
- ozisan
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>アメリカにおける人命重視の思想は、・・・ そうでしょうか? 映画やドラマを見ている限りは、犯罪者を逮捕するには市民の犠牲はやむをえない事が多い。 本来のお侍さんは、やたらに人を切るという事は無かったようです。 お侍さんの食事には、かならず「お新香」が二切れと、菜っ葉のお汁がついていました。 「お新香」が一切れなら「人切れ」。 三切れなら「身切れ」すなわち「切腹」です。 菜っ葉のお汁は、わざと菜っ葉を残します。 すなわち「名を残す」です。 武士道と言いながらも、縁起をかつぎながら刀をさしていたのがお侍さんです。 と、エイ六輔さんが言っていました。
お礼
ご指摘有り難うございます。 本来の武士道はお説のようであった筈ですが、旧軍では徴兵した新兵を「お前らは2銭5厘でいくらでも補充が出来るのだ」と人間扱いしなかったし、その思想が神風特攻に発展、「死」に美名さえ与えたのは、間違った武士道の利用ではないでしょうか? 公害の処理にしても本当に人命を尊重した対策を迅速にとるならもう少し進歩があるとおもいます。 石綿問題、薬害問題など根底に人命軽視の姿があるように思われてなりません。 電気ショック緊急救命器具が愛知万博会場に設置されたのもアメリカの模倣です。
お礼
重ねてのご指摘有り難うございます。 島原の乱は領主の理不尽な重税に対する農民の反乱で、確かにキリスト教徒も混じっていましたがキリスト教の布教を図ったものではないと理解しています。 参加した小西行長の遺臣も信徒はおおかったでしょうがキリスト教の保護を考えて居たとは思えません。 天草四郎を担いだのも戦意を高める手段にすぎません。 長崎の十二聖人は布教に熱心でしたが無抵抗で殉難したのです。 よど号事件と誤解してしまいました。