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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本も白人に入植される危険性はありましたか?)

日本も白人に入植される危険性はあったのか?

このQ&Aのポイント
  • オーストラリアのアボリジニの歴史を学び、その悲惨さに驚愕しています。
  • 18世紀から近代まで、オーストラリアでは白人入植が続いていましたが、なぜ日本は植民地化されなかったのでしょうか?
  • 日本には豊かな資源がないことや、武士の力を持つ日本人の存在などが白人入植を阻んだ要因と考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

この質問に対しては、二つの立場から考える必要があります。 1、質問はアポリジニのような目にあう恐れは無かったか?ということですから、そこから考えると、それは先住民(アイヌ)の問題であって、日本人が酷い目にあう問題ではありません。 NO.7の回答の「樺太にすでにロシアが入植していた」というのは、アイヌ人の被害の問題で、もともとアイヌ人の土地だったところをロシアが領土とした、と言うことです。 北海道、千島などはロシアと日本がアイヌ人を無視して、入植競争をして国境を画定したものです。 このときの「入植」と言うのは、住民の少ない、領土として確定していないところに、ロシア人または日本人が住み着くことを言います。 住み着いた人の国籍によって、その国の領土とすることができたので、両国が競争をして、自国民を住まわせようとしたものです。 日本領と確定したところは、日本はアイヌに対して加害者の立場になります。 2、質問についての二つ目の立場は、日本国がまるごと植民地にされるおそれはあったか?という問題です。これを前述の入植と混同するとわけが解らなくなります。 これについてはNO.3の回答がいいところまで行っていると思います。 その回答は、もし幕末の内乱が、どこかの国に援助を依頼したりして介入を許せば植民地にされるおそれは無きにしも非ず、と言うものですが、当時すでに日本民族として意識は高かったので、日本人はその危険性を十分承知していて、その可能性はありませんでした。 維新後に西洋の植民地にされる恐れがあった、と考える日本人は今も多いのですが(司馬史観など)、本当はそういうおそれはありませんでした。 維新直後政府のトップの過半の人たちが大挙して西洋視察旅行に1年半も出かけて日本を留守にしています。これはそういう危険を誰も感じなかったからです。 また日本を植民地にしようと言うような考えの証拠はひとつも見つけられません。 それどころか日本は植民地にすることは不可能だ(必要も無い)という文章は沢山あります。 3、植民地と混同されている現象として、西洋の拠点確保の土地の借款ということがあります。香港、マカオ、初期にインドの港などです。 例えば香港は植民地には違いないのですが、香港人が搾取されたと言う不満は余りありません。中国に返還されるときに、そのまま英領のままで居たいという声が多くありました。 しかし日本はこういう拠点(植民地)をとられることもありえませんでした。 日本政府がしっかりしていて、外交で処理できたからです。 4、NO.8の回答で、「TPPで日本が植民地にされる恐れがある」という考えが書いてありますが、このように植民地と言う言葉を拡大して使うのは質問に対する答えの範囲を超えている、と思います。 日本に米軍基地があることを、「今の日本はアメリカの植民地だ」という言い方もできますが、日本人はこれをむしろ歓迎しているのですから、アポリジニーの悲惨とは比べようも無いからです。

その他の回答 (9)

noname#153958
noname#153958
回答No.10

直接の回答ではないのですが、私も聞いたことがありますね。 明治維新で幕府側と新政府軍が戦い、それぞれに英仏がついていましたが、政府も幕府も英仏の必要以上の介入を嫌い途中で矛をおさめることにしたと。 この判断は賢明だったのでしょうね。

  • kuroneko3
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回答No.8

 植民地化されるおそれがなかった訳ではないですね。  ただ,欧米諸国による植民地化というのも,大別して二種類のパターンがあります。一つは文字通りの入植で,先住民の数が少なく文明レベルもかなり低い場合,そのような土地は欧米諸国から「実質的に主のいない土地だから先に取った者の勝ち」という論理で,白人達が入植して勝手に自分達の土地にしてしまいました。オーストラリアなどはその典型例ですが,日本はそれなりの人口を擁しており,文明レベルも極端に低いわけではなかったので,このような意味での「入植」はあり得ませんでした。  ただし,もう一つの植民地化,すなわち最初はキリスト教の布教や交易といった名目で現地に入り,その後現地勢力の内紛に乗じて一部の現地人を取り込み,最後には内紛の収拾といった名目でその国自体を乗っ取ってしまうといったやり方ですが,こちらの方の危険性は大いにありました。  このやり方による植民地化が成功した典型例はインドですが,いくら文明が進んでいるといったも国土が広く人口も多いインドをイギリス人だけで征服できるはずがありません。実際にはムガール帝国の内紛に乗じて少しずつ現地人を味方に付け,最終的にはムガール帝国自体を滅ぼしイギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるというということになったわけですが,日本でも仮に明治維新が成功せず幕末の混乱期が長く続き,例えばイギリスが薩長側に,フランスが幕府側に付いて何十年も争うといった事態になっていれば,おそらくは日本も勝った方の植民地となる運命は免れなかったでしょうね。そうなればイギリスの女王が日本の天皇をも兼ねるという事態になっていたかも知れません。  江戸自体の武士の力で白人を追い返すことが不可能であったのは,薩英戦争で薩摩がこてんぱんにやられたことからも明らかですが,白人が日本を植民地化するには戦争で武士に勝つだけでは不充分で,内紛に乗じて現地人を取り込む隙がなければ現実的には不可能だったわけです。  実際の日本では明治維新が成功したのでこのような隙は生じなかったわけですが,明治維新の当事者達も,日本国内の内戦が長く続けば日本自体が欧米諸国に乗っ取られてしまうという危機意識は十二分に保っていたと推測されます。もし,仮に幕府方が江戸城無血開城をせず,フランスから技術援助を受けて薩長に徹底抗戦するという決断をしていれば,いつの間にか内戦の主導権は日本人ではなくイギリスとフランスが握るようになり,日本は勝った方(おそらくイギリス)の植民地となる可能性が高かったでしょう。まさしく一歩間違えば日本は白人の植民地にされていたと評して差し支えないと思います。  現在も,日本はTPPでアメリカの植民地にされかけていますが,このように欧米諸国による「植民地化」は,愚かな現地人には理解できない巧妙なやり方で進められます。それは決して大砲の威力だけで決まる問題ではなく,また決して過去の問題にとどまるものでもないのですよ。

  • mekuriya
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回答No.7

回答者諸氏の歴史教養については追求すれば、まったくもって失笑するしかないが、実際に入植されたのです。日本人は余りにも無知すぎます。 1875年に明治政府が樺太千島交換条約を結んで、南樺太を露西亜に譲ったのは、南樺太に白人である露西亜人の入植が進んだからに他なりません。 露西亜は1860年に北京条約を結んで清から外満洲を獲得し、その頃から外満洲に近接する樺太へも入植を本格化させました。その前の1855年に幕府は露西亜と日露和親条約を結びましたが、明快な国境を定めることができずに樺太を両国民の混住の地と定めたのを露西亜に悪用されてしまったのです。樺太は歴史的に北部・中部がウィルタ・ニブフ、南部が樺太アイヌのテリトリーと住み分けていましたが、人口閑散な北方少数民族は明快な国境を定めずに、それこそ混住していたわけです。江戸時代、松前藩は樺太に役所を置いて樺太アイヌを統治していましたが、ウィルタ・ニブフは支配していませんでした。だから樺太全島の領有権を主張する根拠は日本には無い。しかし、それ以上に露西亜が樺太の領有権を主張する根拠など全くなかったのです。日露和親条約以前に露西亜人が入植したという事実はない。 植民地化と聞くとパブロフの犬のように機械的に戦争を連想してしまう人が多いのですが、現実の歴史でそうした例は数少ない。ほとんどの植民地化は段階的な既成事実の積み重ねで結果的に植民地と呼ばれるようになってしまったというのが歴史です。 例えば、現在露西亜領の沿海州は、歴史的には外満洲と呼ばれた地域で、1858年に清と露西亜の共同管理地と定められました。外満洲は歴史的に露西亜と何も関係が無い土地ですが、清が太平天国の乱やアロー戦争で混乱している隙に乗じて、そういうインチキ条約を押し付けたわけです。さらに2年後には本性剥き出しに外満洲を露西亜領にしてしまいます。 このように露西亜は同じような手口で外満洲も樺太も植民地化してしまったのです。露西亜を賛美する戦後の歴史界は、樺太の歴史を抹殺していますが、日本は露西亜に表向きは平和的に南樺太を奪われてしまったのです。 外満洲と南樺太に共通するのは、どちらも北方少数民族が居住するだけの人口閑散地帯だったということです。狩猟採集を生業とする民族は、狩猟採集の極めて低い食料生産性がネックとなり人口が増やせないのです。 樺太千島交換条約を結んだ後、樺太アイヌはロシア人から樺太を追い出されて北海道に移住しましたが、わずか1000人にもならない数です。他の樺太アイヌは露西亜国籍を選び、樺太に残ったのだろうかという疑問を持つかもしれないが、これで全部です。樺太に残った樺太アイヌなどいません。露西亜を賛美する戦後の歴史界は、露西亜が樺太を侵略したという歴史をひた隠しに隠して、日本が樺太アイヌを強制移住させたかのように描くのですが、実際はそうではない。明治政府は樺太アイヌがまとまって住める土地を与えたというだけのことです。その頃は北海道もまだ未開の地で、遊んでいる土地がいくらでもありましたから、土地を用意することはなんてことでもなかったのですけどね。 樺太アイヌに限らず、狩猟採集民族は極めて人口が少ない。農耕民族の人口密度と比べると2桁から3桁は違ってきます。 例えばタスマニア人はイギリス人によって絶滅したといわれていますが、そもそもの人口から少ない。タスマニア島は北海道より少し面積が小さな島ですが、数千人しか住んでいませんでした。北海道は、現在約550万人住んでいますが、それでも日本全体から見れば人口密度が小さい地域です。北海道と比較して考えれば、19世紀当初のタスマニア島の人口閑散ぶりが想像できるのではないでしょうか。入植を考えたイギリス人にすれば、「先住民がいる」という意識よりも「広大な土地が遊んでいる」という意識しか持てなかったのも当然ではないでしょうか。400万人住んでいてもおかしくないような広大な土地にわずか4000人しか住んでいなかったと考えてみてください。1/1000の人口密度だったという計算になります。 日本本土が樺太や外満洲やタスマニア島のように白人に入植されなかったのは、日本人が農耕民族だったからです。もし日本が、農耕文明を導入せずに縄文時代のままだったら、樺太や外満洲やタスマニア島のようになっていたでしょう。 逆に言えば、白人によって容易に植民地化された土地は縄文時代のままだったということなのです。

  • fumkum
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回答No.6

現実的には日本の領土内で同時期に白人の入植者はいました。それは現在の小笠原諸島で、その子孫も現存します。ただし、日本本土に入植される危険性はほとんどなかったと思います。その理由は小笠原諸島との比較と万国公法の考え方を見ると分かります。 小笠原諸島に欧米人およびハワイ人が入植した当時は実質的に日本の施政権は皆無で、「此島大日本之内也」という碑が存在するだけの場所でした。万国公法の考え方によると典型的な「未開地」であり「無主の地」であり、「先占の原則」が適応される地と考えられていたと思います。ですから、アメリカ(ハワイ)からの入植者があったり、イギリスが領有を宣言したりしているわけです。これも1861年に幕府の開拓宣言、1876年の明治政府による統治宣言により日本国への帰属が確定します。 これに対して日本本土は未開の地ではなく、「半文明国」であり、国家主権は存在していると考えられていました。ですから、入植や植民地化はないだろうと考えられます。 また、現実問題として開国前後は中国に太平天国の乱がおこり、アロー号事件があり、イギリスのインド併合、フランスのコーチシナ併合、アメリカの南北戦争と欧米各国は日本に大規模派兵するだけの余裕もなく、入植者に危難が起こっても対処が難しいことになります。さらに人口が約3000万人、常備兵力が75万程度あり、薩英戦争の結果からも簡単に武力で屈せず、江戸初期には金銀銅の世界有数の産出地であったとしても当時の産出量は輸出に回すことも厳しい状態であったことからも、入植・植民地化を欧米は望まなかったと思います。 *「無主の地」の考え方は日本が満州進出にも用いた考え方です。 *「人口が約3000万人、常備兵力が75万程度」は当時のコメの産出高が3000万石。一石=人口1人。10000石に対し藩士250人と計算。武士は建前上は武人ですが、実際に武人として役立ったかは疑問です。しかし、計算上の数字ではありますが、その家族を含め武士層が生活するだけの経済的な力が日本にはあったということです。 欧米系住民 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E7%B3%BB%E5%B3%B6%E6%B0%91 小笠原諸島(入植の歴史」を参考に) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6 万国公法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%85%AC%E6%B3%95 薩英戦争(特に備考) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

回答No.5

>最近、オーストラリアのアボリジニの歴史を学びあまりに悲惨だったので驚愕しています。 しかも古代ならいざ知らず、18世紀から近代までそのような歴史が続いていたのですから(あるいは差別問題は現代も続いています) 小生、予備校の世界史講師であるのだが・・・ アオリジニーの歴史はそんなに悲惨だろうか? 相対論すれば、ネイティブアメリカン・インデォオ・ルワンダ土着民に比較すればマシな部類だと思うのだが・・・ 相対論に過ぎないと言えばその通りだが、現場にしろ、経緯にしろ、アボリジニーはまだマシな部類だと断言してもいい >18世紀といえば日本は江戸時代。 その頃からイギリスによるオーストラリア入植が本格的にはじまったらしいですが、日本も一歩間違ってれば白人に入植されていたのでしょうか? 可能性は高くない。低いだろう。 理由は極めて簡単である 『先ず中国市場が優先』であったことにある よく幕末評論で日本の危なかった、とする評論があるが、あれは国際政治環境を理解していない人間の妄言と断罪してもいいだろう ちなみに、入植の意味次第な部分もあるが、日本を入植地にする意味はあまりない。 人口飽和状態であった当時の日本に入植するのは自殺行為であるし、なにより、もっと魅力的な入植地がゴロゴロしている 当時の日本は世界有数の貴金属の輸出国であるが、それが入植活動に帰結しないのは言うまでもない。 なお、18世紀初頭には、マラリア対抗薬が開発されアフリカ入植が盛んになった時代であることを考えれば尚更である 回答者諸氏の歴史教養については追求すれば、まったくもって失笑するしかないが、その程度の歴史教養が現実なのだろう、とは思う。所詮は、史実無視の歴史小説あたりをベースにしているのが多いだろうから >日本と白人達の出会いはさらにそれより前になりますが、何故白人たちはオーストラリアや一部のアジアと違い、日本を植民地化しようとしなかったのでしょう? 植民地化を狙った可能性は高い。ただし、日本人がイメージする植民地とは異なる 簡単にいえば、経済活動の拠点だけを抑える植民地である。イメージとしては、日本領土を全面的に抑えるのではなく、博多・神戸・新潟・下田などの日本の主要な良港を抑える・・もしくは、資源を抑える程度であろう  それが白人の植民地統治の基本であることも知らない日本人が多いのは、大東亜帝国の植民地統治しか認識していないことなどの弊害であろう。 >やっぱり侍がいたのと資源に乏しかったからでしょうか? 仮に日本が豊かな資源を持っていたとしたら、危なかったでしょうか? 上記したように資源はある そして、危ないという主観・植民地・入植地の意味を極論すれば、意味が異なるだろう 仔細は上記を参照されたし >もし白人たちと戦争になった場合は、武士の力で白人たちを追い返すことは可能でしょうか? 流石に狩りの対象にされて黙ってるような人達ではないとは思いますが…  無理だろう。戦線を維持することはできても、追い返すには、日本の地理環境からすれば、海軍力が重要である 17世紀最高潮のオランダの幻影を最後まで引きずっていたりする幕府や諸家の状況からしても、追い返すのは無理だろう  たぶん、最終的には沈黙するだろう。実際、雄藩と呼ばれる人間は、最後にはヒヨッたし、思想転向したのだから その思想転向に関して、自己総括もしないのがテロリストである維新志士の素晴らしいところであろう(皮肉) >日本と白人達の出会いはさらにそれより前になりますが、何故白人たちはオーストラリアや一部のアジアと違い、日本を植民地化しようとしなかったのでしょう? 優先順位が低いから 以上

  • hekiyu
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回答No.4

危険性は大いにあったと思われます。 何故、植民地にされなかったのか。 彼らの手紙などから推測ですが。 1,キリスト教の布教が思うように進まなかった。  彼らの上等手段である、キリスト教を布教して民衆を  手なずけてから軍隊を送り込む、という手法がとれなかった。 2,資源が乏しく、食指が動かない。 3,武力があり誇り高かった。  植民地とするには手こずる。 4,幕末の話ですが、ローニン(浪人)という  言葉が彼らの間で使われるほど、武士のテロが  流行、こんな国を植民地にするのは  困難だという手記が多く残っています。

  • image123
  • ベストアンサー率24% (79/323)
回答No.3

1500年台にはスペインが日本を植民地させるべき行動が。キリスト経布教を前に綿密な地質調査をおこないましtが、残念ながら鉱山は見つけることはできませんでした。そのうちにイサベラ女王の死後、スペインの力も昔のように落ちぶれ、撤退をせざるを得なくなりました。その後、熱狂的なキリスト教徒も現れましたが、教会の発展を希望しましたが、1600年台はじめでものの見事にスペインからもローマからも冷たくシッペ返しをうけています。その後、徳川幕府により鎖国となりました。 日本には、噂ほどの金も銀もなく、取り上げてやろうと食指が動くような恵まれた土地もなかったのが、幸いとなっただけです。仮に、日本が豊かな資源があれば、今の日本の歴史は大きく変わっており、スペイン姓名で、スペイン語が公用後で、スペイン人との混血の国になっていたのは、間違いなしです。刀や矢と大砲や銃器の戦争では、勝ち目なしです。いくら根性があり組織化された侍がいても、子供玩具のゴム鉄砲では相手を倒すことはできません。敵に近づく前に銃器の玉で廃人か殺されてしまうのが落ち目です。 18世紀では日本は鉱山資源にも、豊かな土地資源にもまったく恵まれていない国というのが、知れ渡り、鎖国をしなくと、食指を動かしてくる国はなかった筈です。 それにしても、1500年台末で、各地方大名が、アジアから遠くアメリカ、ヨーロッパまで日本から日本人スパイを送りこみ情報を得ていたことを、この両目で外国での古文書で知ったときは驚きました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

北米大陸に白人が入植できた理由 伝染病でバタバタネイティブアメリカンが倒れていたから インカ帝国が少数の白人に負けた理由 白人が首都に来る前に、伝染病がすでに首都に到達していたから。 入植できるかどうかは、空き地があるかどうかで、空き地って伝染病で作らています。 日本を含めてアジアはユーラシア大陸としてヨーロッパ人と同じ病気に対する免疫があったので、白人到来(白人の持っている病気到来)に対して抵抗力がありました。 入植による儲けと交易による儲け どっちが手っ取り早いかといえば、交易なので、交易で儲かれば入植して来ません。 オーストラリアに関しても http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/article/080221australia_apoligize.html 伝染病が指摘されています。

回答No.1

植民地化して入植するより交易の方が利益が大きかったからでしょう。 >資源に乏しかったからでしょうか? 金銀銅の大産地だったことを知らないのですか? オーストラリアの歴史も良いけどその前に日本の歴史を学ぼう。

noname#156377
質問者

補足

スペインの宣教師が本国に宛てた手紙に「日本は貧乏だし侍強いし植民地にしてもメリット無いよ」って送ってる手紙があるので、てっきりそれが植民地に乗り出してない主な要因かと思っていました。 金銀が取れたのは知っていますが、それ込みでも植民地化するメリットはあまり感じられなかったということですかね。

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