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隋はなぜ、聖徳太子の文面を容認したのですか?
日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処(ところ)の天子に致す・・ 当時隋は、日本(倭の国)よりももちろん大国なのに、なぜ、報復しなかったのでしょうか?運河の工事、高句麗征伐でそれどこではない?早い話眼中にないと言う ことだったのでしょうか?文献がすくない時代の質問で恐縮です。 よろしくお願いします。
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- kitakanjin
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「隋書」によれば、遣隋使は600年、603年、607年と3回行われている。 「日出ずる・・・・」は、3回目の607年の事で、何れの時も倭王は多利思北弧(タリシヒコ)で有るが、国書には倭王の署名が無い。何故、国書に倭王の署名が無いのか? 北弧は男性名で、女官6~7百名を侍らせていた様で、推古女帝ではない。聖徳太子は推古女帝の摂政だったはずで、聖徳太子が小野妹子を隋に使わしたので有れば、当然倭王は推古天皇のはず・・・? 小野妹子を隋に使わしたのは聖徳太子ではないようだ。 そうすると「日出ずる・・」も聖徳太子の作ではない様だ。(直接の回答ではないが、参考までに)
- pyon1956
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さらに補足。 いわゆる「対等外交」をしかけたのは、ひとつには隋が北朝系であることも理由として考えられます。より中国に近い高句麗は実は倭国と争い(好太王)つつ、南朝と北朝の両方につながりを持っていました。これに対し、倭国は基本的に南朝一辺倒で、それを戦争の一理由ともしていたようです。 この南朝一辺倒の考えからすれば、北朝というのは倭国が東夷であるのと同様、北狄(ほくてき)で、そういう意味で対等である、という考えです。 その論理を裏付けるのが「菩薩天子」というイデオロギー。仏教では菩薩は複数いますので、菩薩である天子は複数いても問題ない、という思想です。 #3さんの言われる断交ですが、実際「此の後遂に絶つ」という記述が「隋書」にあります。
- junt
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隋が成立した時、百済や新羅は隋に使を派し、その柵封体制に入りましたが、高句麗は南朝、陳との国交を断たず、隋への朝貢をしませんでした。そのため、598年以降、隋は高句麗討伐の兵をおこして攻めましたが、これを降ろすことができなかったのです。推古13年(605年)天皇や聖徳太子らが誓願して仏像を造らせるのを聞いた時、高句麗の大興王が黄金三百両を献じたというのも、隋の侵攻に対して日本と友好関係を保っておこうという政治的配慮によるものです。日本もこの高句麗を通じて隋をめぐる国際情勢を熟知していたので 、隋とも友好関係を結び、その文化を摂取することを決意しました。 日本が当時の朝貢外交という慣行を無視して、あえて対等の文章を国書に使用したのは、一見無謀のように思われますが、隋が当時、高句麗の頑強な抵抗に手を焼いている最中であったことを知っていたからです。隋としては、高句麗と日本が友好関係を結ぶことを得策と考えなかったので、むしろ日本の要求を認め 高句麗との離間を図る政策を取ることが予想されたのです。これはNo.1さんのいうように瀬戸際外交などではなく、ここに聖徳太子の外交感覚の鋭さを読み取ることができるのです。 それから朝貢というのは、朝鮮のように毎年土産物と国書を持って行き、その柵封体制に入ることを言うわけですが、日本は朝鮮のように毎年使節を派遣するのではなく数十年に一遍行ける時(気がむいた時)、土産物を持って行くだけで国書は持って行きませんでした。それは、日本側にしてみれば、聖徳太子以来の対等関係を継承するということもありましたが、こうした姿勢を踏襲して再三国書を奉呈しても『蛮夷の書、無礼なる者あり』(隋書)と言われ紛争の火種になるだけであるから、国書を省略し土産物の貢献のみにとどめたのです。(それから隋や唐を日本の発展に寄与させるというのが日本の政策であり、遣隋使・遣唐使の留学費用が全て隋・唐持ちである以上、手ぶらというわけにはいかなかったのです) 隋や唐の側からしても、対等な文章の国書を受け取ってメンツを潰されるのも困るし、朝貢させて臣下にしてしまうと、王朝の一藩屏(はんぺい)となり、もしもの時は海を超えて兵を送り守らなければならない義務も負うわけです。これを避けるため日本を不臣の扱い(国書は持って来なくてもいいし、土産物も不定期でいい)としたのです。 しかし、この『対等外交』が問題になったことがありました。753年正月、唐朝は朝賀の席次を、当初西畔第一に吐蕃、第二に大食(アラビア)、東畔第一に新羅、第二に日本をあてました。ところが出席した日本の遣唐副使大伴古磨呂は猛然と抗議し、『朝貢する新羅と朝貢していない日本の席順は当然日本が上席につくべきだ』と言い張りました。唐王朝はこれを認め、日羅の順を入れ替えたという事実があります。
そもそも聖徳太子という具体的一個人が存在していたのかというところにも歴史上の疑問があります。(余談ですが) さて、現在の日中関係とは異なり、当時の隋と日本(大和朝廷)は対等な国と国との関係ではありませんでした。(中華秩序では国は無く天下の主たる皇帝とその他、または中華文明の及ばない夷)東海の蛮族が蛮族らしい無礼な書簡を送ってきた、ということで皇帝は怒りはしたのでしょうが、大国らしく黙殺をしたというところもあるかと思います。 なお、報復とすれば1の方の仰るように断行くらいが関の山であったと思います。当時の海運能力からして、日本海を渡って大規模な軍勢を送り、かつ上陸作戦を展開、さらに補給を維持することは不可能であったかと思います。
- pyon1956
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ついでながら、これ聖徳太子の文、というのには異論もあるようです。 隋書の王名は姓が阿毎(あめの)、名が多利思北孤(たりしほこ)、すなわち「天足矛」ではないか、という読みがあって、その場合そもそも大和政権なのか、という(国内記録に無い)問題もありますから。 それと、対高句麗戦争と両面で倭国を攻めるのはあまりに無謀だったでしょう。へたをすれば背後を突かれる。とりあえず倭国は敵対したわけではなく「二人の天子、という容認不能ではあるが少なくとも隋が帝であることは否定してないわけですから、後回し、ということでしょう。 戦争はいきなりやるものではなく、クラウゼビッツじゃないけど外交の一環としてやるものです。 その点で、裴世清を使者としていろいろやってますから。その上で決裂すれば、戦争ということでしょう。事実、その後に隋は滅びましたが、その後継王朝である唐と白村江で戦争しました。
日本側は対等外交を考えていたようですが、隋書には 「その王多利思比孤使を使わして朝貢す」と記されてるように、あくまで蛮族の王が朝貢してきたという認識しかありません。 そして、「蛮夷の書、無礼なるものあり。またもって聞することなかれ」と煬帝は怒ってますが、高句麗との戦争を控えていたので、日本を高句麗側に付かせるのは不利と考え、裴世清を送使にして小野妹子らの一行を倭国まで送らせ、国交断絶を避けます。 聖徳太子は隋の事情を高句麗の僧侶恵慈から得ており、瀬戸際外交を行ったと考えてよいでしょう。 http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/kenzuisi.html
お礼
素早い回答ありがとうございます。 当時、東西南北、太陽の軌跡などは把握されていたのでしょうか?
お礼
ありがとうございました。 さきに回答して頂いた皆様も感謝します。 高度な(私には理解の及ばない)展開なのでここらで締め切らせて頂きます。