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人間はなぜ痛いときに,悲鳴の代わりに痛いと言うのでしょうか?

人は言葉に出すと安心するところがあると思いますが、痛いときなども同じなのでしょうか。

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回答No.12

お返事いただき、ありがとうございます。 それに対して答えたいと思います。 >まず外の世界の事象を言葉によって頭の中の世界に引き取ったときに、いわば外の世界の対象は消えています。 この文章は、外の世界を観察しているのでなく、言葉にすることにより、その言葉を頭の中で見ている、観念しているということだと僕は受け取りました。(違っていたらすみません。) 言葉が発達していない原始時代の人々は、外の世界に呪縛されていたということでしょうか。それゆえに分析できない。つまり科学的に未発達だった。ということは、科学的進歩には言葉は必要不可欠だった。一人の知識なんて限界がある。つまり知識や情報は共有されなければならない。(共有されなければ現実が現実かどうかもわからない!)学問の誕生です。かなり強引ですが、故に人間は痛いときに、悲鳴でなく言葉を発するのではないでしょうか。悲鳴でも伝えるという役割を担うかもしれませんが、中身がない。それよりもHELP!!と叫んだほうが情報量が確実に多い。つまりコミュニケーションがより深く繋がる。その対象は、他人や、観念でない現実の自分自身になります。つまり、ここでいう外の世界です。 >つまり肉体的感覚を消去していることになっていないだろうかということです その通りだと思います。事故の時も、何か言葉にすることにより、「痛み」から気をそらすことができたと思ってます。肉体的感覚どころか、観念的妄想すら消去できていたと思うんです。 >最後の逆説は頭の中の世界だけでは安定できないということでしょうか。 観念的に頭の中の世界"だけ"だと、現実を見失うんじゃないかと思うんです。現実を観る眼を失うというか…。思考だけでなく、行動・経験が伴わないと片手落ちだと思うんです。(片手落ちは差別用語ではないと思います。) 僕の思想哲学になりますが、まず人間は、一人では完全ではないと考えます。それ故に男女があり、自分と他人があり、コミュニケーションを求め、いわば半身の状態が人間だと思うんです。 一人の人間をみても、観念的に自分自身と語ることができます。(悩むことができます。)客観的に自分を観察できる。つまり人間一人の存在にしても、半身状態であり、完結できていない。そこにズレがある。存在として矛盾がある。だから悩む。ちょっと話がズレますが、座禅とか修行して、自分自身と向き合い、その矛盾のズレを克服するのが精神的な平穏を得る人なのではないかと僕は考えます。ただこの場合、頭の中の世界"だけ"でなく、現実の外の世界とも一致するのだと思うんです。一致しない溝(矛盾のズレ)があるから悩み、迷う。 また、自分が思う自分(内的・観念的な傾向)と他人からみた自分(外見的・客観的な傾向)は一致するのは難しい。 また、理想と現実のズレもあります。 人間存在は、常にそれらの二面性のズレの間で汲々としているのではないかと思うんです。故に悩む。また、それがコンプレックスになったり、誤解や孤独な形で人間に襲いかかる。 そういった理由で、僕は頭の中の世界"だけ"では安定ができないと思うんです。実験として、一人で部屋に閉じこもり、誰とも会わなければ、もの凄く辛いです。数日でイヤになります。僕は孤独を好むタイプですが、それでも実体験、とても辛いです。 つまり、孤独とは社会的なことだと思うんです。無人島で独りで生きているのなら、それは孤立と僕は言います。他人がいるからこそ自分がいると僕は考えます。つまり社会と繋がるからこそ孤独なんです。 そういった考えの上で、頭の中の世界"だけ"では安定できないと思うんです。もし頭の中"だけ"で安定できるのであれば、手術に麻酔は必要ないと思うんです。(痛)仮に安定したと自分が思っていても、外の世界の住人である他人から見れば、麻薬中毒者に見えるかもしれません。つまり、自分の世界に閉じこもって、独善的で、現実の世界の住人から見ればとても危険です。他人との繋がりがないからです。現実との架け橋になる言葉がそこにはない。言葉を発するということは、現実に生きている実感を得るためなのかもしれません。自己存在を確認する。故に安心する。 なんだか脱線してまとまりのない文章になりましたが、僕は、頭の中の世界"だけ"でなく、現実の世界も含めた両方ある状態、その矛盾を克服した状態にこそ、本当の安定があると思うんです。 事故で痛い時、悲鳴でなく言葉を発し続けたことにより、頭の世界"だけ"に偏らず、また、とても痛くてグロい現実"だけ"の世界に偏らず、上手い具合に乗り越えることができたんだと思います。 悲鳴は驚いた時に発するものかもしれません。事故の時分は、驚きなんかなく、もの凄く冷静でした。^^;

kaitaradou
質問者

お礼

教えられることが多いお話でした。ただ偏差値的な頭の良さが災いしてせっかくの深い洞察が一見浅いもののように感じられてしまうことが心配でした。認識主体は分からない(分析できない)から認識あるいは思考が可能になるのではないかという仮説は、頭の良い人には理解しにくいものなのかもしれません。

その他の回答 (11)

回答No.1

どうしてなんでしょうね。 痛いと言っても痛みは軽くならないのにね。 かなり痛い時には、悲鳴になって 「痛い」と言う余裕はないですが。

kaitaradou
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。私の感じでは痛い!と口に出すと少し痛みが減るようにも思うのですが、確かに余裕がないような痛みは悲鳴になると思います。

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