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幕府と天皇家

江戸時代、朝廷は公家諸法度により、実権をもたなかったんですよね。 官職なども幕府が指名して朝廷が追認任命するものだと聞いています。 それが幕末、井伊直弼が独断で条約を結んだことで評判が悪く言われ殺されていますが、朝廷は追認するだけなので待っていれば良かったのではないんでしょうか? それとも朝廷になにか魂胆があって、アメリカの言う期限までゴネていればなにかあると考えたのでしょうか。 また、尊王論を幕府が禁止しなかったのはなぜでしょう。

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noname#113260
noname#113260
回答No.3

徳川幕府の本質ですが、本来は譜代の幕臣によって運営され、外様、親藩といった大禄の大名には口を挟めないシステムになっておりました。 幕末に老中:阿部正弘が登場しますが、かれは鎖国か開国かの決断に際し、幕臣だけではまとまらないと判断し、広く諸大名にも意見を求めます。 これにより幕臣以外は政治に口を出さないというタブーがなくなり、現在で言う「野党」のような政治勢力が出来てしまいました。 安政元年「日米和親条約」が結ばれますが、こうした野党勢力の反対が多く、幕府は朝廷に追認してもらうことで反対派を押さえようとしました。 これは「朝廷」という権威が幕府の上位にあると、認識させる結果になり、逆に野党勢力はこの朝廷に結びつくことで自らの正当性を図ろうとして「尊王」主張が生まれます。 ここに登場したのが「行動派」の井伊直弼。 彼が無責任で無能力な政治家であればよかったのですが、真面目に自分の手で何とかしようと考え、14代将軍を紀州から迎えるとともに、反対派の粛清に乗り出します。 これは時代の流れに竿をさす結果となり、彼自身は殺された。 というのが流れで、この時期アメリカは「小笠原諸島」の領有を宣言したり(イギリスには日本の領土といって手を引かせ、幕府には無人島だからアメリカが貰うと言ったり)、条約を結ばざる得ないところに来ておりました。 また孝明天皇の意思は「攘夷」であり「尊王」は取り巻きの岩倉あたりが言い出した事ですから、こうした公家とそれと利害で結びついた大名(一橋派)を弾圧することで尊王を押さえようとしました。 井伊直弼暗殺後は一橋派が反動で台頭しますが、一体となっていた野党勢力も、体制はこのままで政治改革を主張する慶喜や春嶽と革命を模索する岩倉などが分裂、天皇もどちらの神輿に乗るかで、幕末の政争に巻き込まれていきます。 回答としては アメリカの事情:諸外国より出遅れたので一気に決着をつけ有利な条件で日本と国交を結びたい。 幕府:安部正弘の失敗を見た井伊直弼が、幕府主導でやりたかった。 朝廷:やっと日の当る状態になったので、権威を見せ付けたい。 です。

  • tomotaro
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回答No.2

この時代は孝明天皇の御代でこの天皇は迫り来る外国の脅威に対して強い怖れと拒絶反応を示しました。徳川幕府に海防と軍艦築造を勅命し、終始攘夷を主張しました。ペリーが再び来航した年(1854)に改元して「安政元年」とし、自ら神社に『国家安泰』を祈り、全国の寺社に使者を派遣して祈祷させた。アメリが側は圧力をかけ、アメリカ有利の条約締結を迫った。これに対して幕府は腰くだけとなってしまいましたが天皇は断固拒否を主張し幕府にもそれを求めました。 しかし大老の井伊直弼は、独断で通商条約を結んでしまい、桜田門外で暗殺されました。 尊王論ですが、あくまでも徳川幕府は政治を朝廷から委任されているわけです。 この孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していました。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。 孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たりこの容保公も孝明天皇の信任を得ていました。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であったわけです。このような時期に幕府は尊王論を禁止することはできませんね。 岩倉具視ら倒幕派にとって、孝明天皇は彼らの理想実現を阻む「敵」であるわけで、この天皇は攘夷派の象徴で、徳川家を温存させてその上に君臨したいと願う保守的な帝として映っていたわけです、彼らは「幼君」(明治天皇)を擁立して一気に新しい体制へ移行したいと考えていたわけですね。 その後、孝明天皇は崩御し(暗殺説あり)、すぐに家茂公も亡くなりました(暗殺説あり)その後は歴史が示すとおりですね。

  • notnot
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回答No.1

直接的には、幕府がアメリカへの時間稼ぎのために、「朝廷に相談しないと決められない」としたためですね。もともと鎖国は幕府が決めたことなので、幕府に決断力のある人がいればそうはならなかったと思います。井伊の大老就任はその後です。 もちろんバックグラウンドとしては、水戸をはじめとする尊王論や、攘夷過激派の長州、幕府に不満を持つ岩倉など下級貴族の朝廷での活動もあったと思います。 >また、尊王論を幕府が禁止しなかったのはなぜでしょう。 尊王論と言っても、全員が同じ意見では無かったと思いますが、「天皇を尊ぶこと・将軍より天皇が偉いこと」という意味と捉えると、将軍は天皇の任命ですから幕府が天皇権威を否定することは出来ませんよね。 幕府に代わって天皇を直接政治の中心とすべきと言う倒幕・王政復古が朝廷の主流になったのは、倒幕反対で公武合体派であった孝明天皇が謎の急死!を遂げて少年明治天皇即位後だと思います。