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律令の国の境の変更
江戸時代に国の境が変更されてます。 東京の両国橋は武蔵と下総の境だったが江戸時代に両岸とも武蔵になりました。 岐阜羽島は昔は尾張だったが江戸時代に美濃になりました。 このような国の境の変更は誰が決裁したのですか。 幕府か朝廷か。江戸時代、政権は幕府だが、朝廷は年号決めたり、叙位叙官は朝廷でした。 国の境の変更は朝廷ですか、幕府ですか。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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やはり老中に一票ですね。 ご参考(自治体のシニアの講座で学芸員が薀蓄): 江戸幕藩制も後期になると、ずいぶんと郊外へと開発が進んだ。 たとえば日光街道最初の宿場、千住宿(駅名だけですが、北千住。そこら一帯は千住○○町と呼称。南千住は荒川区。)あたりを終えて開発され人が住むようになった。 少ない与力同心たちは限られた人数でカヴァーしきれなくなった。 町奉行を越えて、老中に直訴(どういうルートかはしらないが。)。 老中の裁可⇒:大川の真ん中までをお江戸とする。 つまり今の墨田川ですね。どうも若年寄の裁可ではなかったようです。 そんな挿話をご紹介して、場を汚させていただきます。
江戸時代と限れば幕府が決めました。 国の境といいますか地域に線引きして区分するのは、行政に関わる問題です。 朝廷が行政権を放棄していた江戸時代には、決定するだけの力がありませんでした。 そもそも武蔵とか下総という国名が確定するのは、律令制度が制定されたときだ、とされています。 何時かということは正確には分かっていません。 およそ大化元年(645年)から大宝元年(701年)の間であったろうとされています。 それ以前にも各地方に国名があったことは確認されていますが、何時誰が定めたのかは分かっていません。 律令後に分割制定されたとされるものは下記のような国があります。 毛野国(上野国、下野国) 総国(上総国、下総国、安房国) 越国(越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国、出羽国) 吉備国(備前国、美作国、備中国、備後国) 丹波国(丹波国、但馬国、丹後国) 凡河内国(河内国、摂津国、和泉国) 筑紫国(筑前国、筑後国) 火国(肥前国、肥後国) 豊国(豊前国、豊後国) 熊曾国(? 日向国成立後、薩摩国、大隅国を分離) 安房のように一度定められてから一旦抹消され再び復活したものもあります。 いずれにせよ現在のように全国を測量して決めていた訳ではありません。 武蔵だ尾張だと言っても極めて曖昧なものでした。 現在も旧国名の境界というのは分かっていません。 たまたま出てきた史料で、隣同士の村落が所属していた国が違って記載されていることを手がかりとしているだけです。 この記載されている村落の境もはっきりしないのが実情です。 国名といいますか地域に名称を付けるのは、行政上の管理の為です。 朝廷に行政上の権限も権利もあった時代には朝廷が定めました。 江戸時代のように行政上の権限も権利も幕府が掌握していた時代には幕府が定めました。 国の境が問題となるのは境となる地域に人が住んでいて、行政上主として年貢の徴収権の所属が問題とされる時だけです。 江戸幕府としては大名が年貢を徴収する領域を明確にして監視統制する必要があります。 大名の経済力すなわち軍事力の監視です。 これを如何なる理由があっても手放すことはありませんでした。 この延長線上で地域が所属する国も決めていました。 ご指摘の両国橋の東岸一帯を武蔵と変更したのは、江戸の防衛上現在の旧中川を東限としたことに由来します。 寛永年間(1622年-1643年)乃至は1686年(貞享3年)とされています。 塩の輸送路として掘削された小名木川と旧中川の合流点に船番所といういわば関所に相当するものを設けて江戸への船の出入りを監視しました。 当初は隅田川の河口に設けられていましたが寛文元年(1661年)に中川との合流点へ移設しました。 後に現在の江戸川を境としましたが、いずれも北側の境界は曖昧なまま放置されています。 村落の所属を定めているだけです。 その他の地域の編入替えはいずれもその地域での村落の境界紛争の調停として裁決されたものです。 いわば行政措置です。 どちらに所属するかと裁決した結果として境界の位置が移動しただけです。 律令時代のように、国を丸ごと分断したり変更した訳ではありません。
- tanuki4u
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老中ではないかと。 参考 http://www.geocities.jp/yamanokoyk/soukaihunsou.html 相甲国境紛争と公判の調査研究 江戸時代の法体系は、オンデマンドというか必要に応じて必要なレベルで判断。 http://www.geocities.jp/chikuzensakaiisi/page041.html 筑前と肥前 こっちは老中 南葛飾が 下総→武蔵 になったというか文章化されたのは、川の流れが変わってから、知行宛行状なり朱印状などが発行された段階で、されたんじゃないかなと http://www.monjo.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=459 で このへんの文章は老中が発行していたはずだから
- あずき なな(@azuki-7)
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幕府です 将軍は天皇から国の統治を委任されていた人物 天皇の専権事項である暦の変更以外は幕府で出来たはずです