真田幸村の子孫
本屋へ行ったら、「日本史有名人の子孫たち」(新人物文庫)という面白そうな本があったので購入しました。真田幸村のところを読んでみると、
真田幸村には男二人、女七人の子供がいたという。そのなかで、・・・石合十蔵道定の妻となったすへ以外は正妻の大谷吉継の娘が母親である。嫡男の大助は大坂城で豊臣秀頼に殉死したことで有名である。・・・次男の大八は幸村がまだ高野山麓の九度山にいたころ、京都で石合戦に参加して石に当たり、それがもとで死んでいる。
とあります。しかし、この内容は私が知っている事実とはあまりに異なるので驚いています。たとえば、真田幸村のウィキペディアには、次のように書いてあります。「次男の大八(真田守信)は伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長のもとで姉たちとともに保護され、後に元服し片倉守信となった。以降、公式に残る信繁(幸村)唯一の家系・仙台真田家として現在へも続くことになる。なお、片倉姓から真田姓に復したのは守信の子・辰信の時である。」
さらに、ウィキペディアでは、幸村の妻子は、正室(大谷吉継娘)のほか、側室が4人いたことになっており、子供の数も、男二人、女七人ではなく、男4人、女7人の計11人で、しかも、正室の子供は5人、残りの6人は側室の子供です。たしかに大八は正室の子供ですが、片倉重長の妻(後室)となる阿梅は側室の娘となっています。
新人物文庫の筆者(蒲生眞紗雄)はこれらの事実を知らないで書いているのでしょうか、それともウィキペディアの方に間違いがあるのでしょうか?すくなくとも、大八=守信が仙台真田家の初代となったことは厳然たる事実のように思えるのですが。。。