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「あがり」と人間社会。相対視と絶対視
- 「あがり」についての質問を見て、昔考えたことを思い出しました。
- 「自分の相対化」という問題を共通する経験から紐解く。
- 「絶対視」の重要性と「あがり」の社会的心理について考察する。
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No.1の者です。コメント有難うございました。 前提となるポイントは「”他者からの絶対自由”が、(bossambaさんのいらっしゃる環境下で)実現可能か」ということかと見ました。 普通はこれが不可能なので、先の欄に記したように「理想と現実のギャップの処理」「シナリオの想定」といった形で、不確定要素を内的に処理する必要が出てくる、という判断になろうかと思います。 他者からの絶対自由とは、言い換えれば、(他者との関係性による)不確定要素が「存在しない」(もしくは存在したとしても、bossambaさんの価値の中で「取るに足らない」)と判断することかと思います。 「あるがまま」は、他者への深い理解の試みと、自らへの深い理解の試みがあってこそ、はじめて達することの出来る世界かと思います。(「森田療法」などは、そこにいたるメソッドの最たるものといってよいかと思います) もしよろしければ、「森田療法」について書かれた本等に眼を通されると、bossambaさんにとっての示唆が得られるかもしれません。。。 以上、(ズレてるかもしれませんが) もしご参考になる部分あれば幸いです。
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- Chuck_GOO
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あがりは、必ずしも相対視のみに基づくものではないと思います。 むしろ、他者との比較のみならず、自分自身の「理想」と「現実」とのギャップ可能性を意識しすぎる事が、あがりにつながるのではないでしょうか? (その意味では、他者=自分にとっての理想の1つ という構図が出来ているようにも思います) 「相対」から「絶対」にシフトするにしても、 自分自身の「理想」と「現実」との間のギャップ可能性にどう向かい合うか、というところがポイントになるのではないか、と思う次第です。 音楽なりスポーツなり、たくさん練習して、いろいろなケースを想定して立ち向かえば、 たとえプレー中に失敗したとしても「想定内」ということで立ち直りできることがありますが、 いきなり立ち上がりにミスをし、そのミスを「想定外」として引きずると、プレー中ずっと立ち直れないことがあります。 「失敗可能性」にどう立ち向かうか、(「失敗絶対しないように準備周到に立ち向かう」という考えもありますし、「ある程度まではれんしゅうでカバーできるが、想定外の事態もありうるので、それはそれで人事を尽くして天命を待つしかない」といった考えもあるでしょう) とどのつまりはそういうことかな・・・と思う次第です。 1つの考え方として参考になりますれば幸いです。
お礼
はい、自身の理想がとても問題であると思います。理想がすなわち現在今この瞬間ということにできればと思ったのです。理想というのでもないです。あるがままというか。 (自分の中の理想や他人と比較)思想からなんとか自由になれればなと思いました。 たとえばスポーツも「想定」しなくてもいいということになると思います。
お礼
むしろ、自他を深く認識するところからしか、正常心は生まれないので、それが「あがり」を「軽減」することになろうかと思います。それはまったく同意です。 私の理想とするところは「き○○○」しか到達しませんね。