水戸藩は3代綱條の時に検地のやり直しで35万石とされましたが、
検地竿の規格を変えたためで実質は28万石と言われています。
その28万石から4万石を2人の弟(松平刑部大輔・松平播磨守)に分知しているので、
実際の水戸藩の石高は24万石となります。
水戸藩では新田開発や海産物などの運上で
10万石くらいの雑収入があったようです。
光圀の時代における水戸藩の平均税率は53%、五公五民として12万石、
雑収入を含めると22万石が水戸藩の収入になりますが、
これには家臣の俸禄が含まれているので実際の収入はもっと少なかったはずです。
水戸藩は藩の規模に比べ藩士が多く、
光圀時代の家臣の分限帳には家臣1067人の名がありますが実数は4000人に及ぶと言われて、
この人件費が藩の財政を逼迫させる一因となっていました。
その他に水戸城及び城下街の拡張、防火体制の整備、寺社の移転、
笠原水道の敷設などを行ったため更に財政は悪化する事となりました。
大日本史についてですが、光圀時代は毎年8万石が
大日本史編纂に充てられました。
光圀は全国から学者を集め士分に取り立てるなど、
積極的に家臣の新規召抱えをしました。
水戸家は寛永年間の218人をピークに採用人数は100人以下に減少していたのですが、
光圀の藩主就任と共に延宝年間に145人、天和・元禄年間が150人と増えています。
元禄期以降は常に4、50人が彰考館に詰め、
光圀によって採用された学者は130名にも及んだそうです。
また光圀は「源義経が平泉から蝦夷に逃れた」と言う伝説を確かめるため、
「快風丸」と言う大型船を2隻建造し北海道に派遣するなど、
建造経費もそれなりに掛かったようです。
まぁ、船の建造は多額の出費だったのは間違いないとして、
経費で一番大きかったの人件費だと思います。あとは旅費、資料の購入代金なども掛かったでしょう。
水戸家が威信を賭けて行った事業なので、金は惜しまなかったと思います。
光圀の時代は出費が増えた割りに
税率が53%と税率が低かったので良かったのですが、
光圀の跡を継いだ綱條は松浪勘十郎を登用して財政再建を図るのですが、
農民の負担は甚大で後に宝永一揆を招く事になり、綱條の評判は落ちました。
綱條は農民の反感を買い、一揆を招いた張本人として「統治能力なし」と
(年齢等の要因もありますが)将軍候補から外された経緯もあるので、
財政悪化を招いた光圀が名君と言われと、
その尻拭いをしなければならなかった綱條が可哀想な気がします。
お礼
回答ありがとうございます。8万石もかかってたんですか! 22万石の収入で文化事業に8万石では確かに破綻しないほうがおかしいですね。