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水戸黄門悪君説

水戸黄門、実は「大日本史」の作成のため領民に重税を課した悪君である、との説があります(Wikiでも紹介されています)。 しかし、いかに大書であったとしても歴史書の編纂程度でなぜそれほど経費がかかったのでしょうか?大碌で高名な学者を雇ったとしても今日のハコモノ行政とは比べ物にならない程度の経費と思いますし米にすれば領民一人当たりの税額アップはたかが知れてるとも思うのですが。

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  • hena-hena
  • ベストアンサー率72% (8/11)
回答No.2

水戸藩は3代綱條の時に検地のやり直しで35万石とされましたが、 検地竿の規格を変えたためで実質は28万石と言われています。 その28万石から4万石を2人の弟(松平刑部大輔・松平播磨守)に分知しているので、 実際の水戸藩の石高は24万石となります。 水戸藩では新田開発や海産物などの運上で 10万石くらいの雑収入があったようです。 光圀の時代における水戸藩の平均税率は53%、五公五民として12万石、 雑収入を含めると22万石が水戸藩の収入になりますが、 これには家臣の俸禄が含まれているので実際の収入はもっと少なかったはずです。 水戸藩は藩の規模に比べ藩士が多く、 光圀時代の家臣の分限帳には家臣1067人の名がありますが実数は4000人に及ぶと言われて、 この人件費が藩の財政を逼迫させる一因となっていました。 その他に水戸城及び城下街の拡張、防火体制の整備、寺社の移転、 笠原水道の敷設などを行ったため更に財政は悪化する事となりました。 大日本史についてですが、光圀時代は毎年8万石が 大日本史編纂に充てられました。 光圀は全国から学者を集め士分に取り立てるなど、 積極的に家臣の新規召抱えをしました。 水戸家は寛永年間の218人をピークに採用人数は100人以下に減少していたのですが、 光圀の藩主就任と共に延宝年間に145人、天和・元禄年間が150人と増えています。 元禄期以降は常に4、50人が彰考館に詰め、 光圀によって採用された学者は130名にも及んだそうです。 また光圀は「源義経が平泉から蝦夷に逃れた」と言う伝説を確かめるため、 「快風丸」と言う大型船を2隻建造し北海道に派遣するなど、 建造経費もそれなりに掛かったようです。 まぁ、船の建造は多額の出費だったのは間違いないとして、 経費で一番大きかったの人件費だと思います。あとは旅費、資料の購入代金なども掛かったでしょう。 水戸家が威信を賭けて行った事業なので、金は惜しまなかったと思います。 光圀の時代は出費が増えた割りに 税率が53%と税率が低かったので良かったのですが、 光圀の跡を継いだ綱條は松浪勘十郎を登用して財政再建を図るのですが、 農民の負担は甚大で後に宝永一揆を招く事になり、綱條の評判は落ちました。 綱條は農民の反感を買い、一揆を招いた張本人として「統治能力なし」と (年齢等の要因もありますが)将軍候補から外された経緯もあるので、 財政悪化を招いた光圀が名君と言われと、 その尻拭いをしなければならなかった綱條が可哀想な気がします。

fukkatsu-biz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。8万石もかかってたんですか! 22万石の収入で文化事業に8万石では確かに破綻しないほうがおかしいですね。

その他の回答 (4)

回答No.5

研究というのは意外に金のかかるものです。 そして、問題なのは、それが大事な文化事業であり、後世に対しての投資ではありますが、その時の飯の種にはならないということです。箱物に金を使うのを大賛成はしませんが、あれは金をつかっただけ、雇用や収入を生んでいます。当時でも秀吉の建築道楽は民間の景気対策にはなっています。 ということで、当時の納税者にとっては、全く金をかけるだけで恩恵のないものだったのは、間違いないでしょう。 余談ですが、その事業をもとに生まれた水戸学は勤王思想を奉じ、幕末の回天の業を推し進め、明治維新を成立させるという大成果をあげます。まあ、結果的には本家を潰すということになってしまったとも言えますが^^;

fukkatsu-biz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。20世紀までかかる文化事業では回収は相当あとになりますなぁ。

回答No.4

 回答番号:No.3 誤植;すみません。  当時のいがくでしょうが⇒当時の堕胎医学でしょうが、  お家騒動の原因になるという糊塗だそうです。⇒お家騒動の原因になるという事だそうです。  文月さんに、間違っているといわれるかな?

回答No.3

 水戸徳川の家臣系ですが、講談が造った虚像であるようですね。  しかし、私はどの方であれ、伝えられる虚像は大切にします。  光圀公、正しい事かどうわかりませんが、自分に体を預けた女性(正夫人ではない)の妊娠中の子を、当時のいがくでしょうが、堕胎させています。  今でも女性の心身に多大の影響を与えることですが、所謂る中将流ってやつですね。  少しでもこの世に出ると、お家騒動の原因になるという糊塗だそうです。  だから名君だとも言われているそうですが、それなら最初から女性を妊娠などさせない事だと存じます。

fukkatsu-biz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。黄門様は若いころ辻斬りしていたという説もあるほどですから堕胎くらい平気だったのかも・・・ 時代が違うとはいえあまり人情家とは思えませんね。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

尾張藩 61万9千500石 + 木曽の森林資源 紀伊藩 55万5千石 + 紀州の森林資源 水戸藩 28万石で35万石に石直しして 江戸定府 尾張・紀伊は家康から貰ったものをそのまま評価、つまり課税対象にしていますが、水戸藩は準御三家的な扱いをされていたのを「背伸び」して評価を上げちゃいました。本来28万石しか取れないのに、水増しで課税です。こりゃ、領民やってられませんわ。 しかも定府で金がかかるわ、森林資源のへそくりがないわですの。 http://www.keibunsha.jp/books/9784905849506.html この本で経費に関しては論考しているらしい。

fukkatsu-biz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。貴説では水戸藩の窮乏は黄門様のせいではなく藩の構造、体質的な問題ということですね?

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