• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:弁証法について)

弁証法について

このQ&Aのポイント
  • 弁証法とは問題解決のための方法であり、試行錯誤法と同様に有力な方法とされている。
  • 試行錯誤法では時間がかかるが、弁証法では最初の時点で有効な考えを絞り込むことができる。
  • 弁証法は結果的にうまくいく場面においてのみ有効であり、間違った場面で使用すると粗雑な結果になる可能性がある。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

http://okwave.jp/qa/q7863599.html での回答を読み返してみたら、あまりに不親切だったので、こちらにも回答しておきます。 「弁証法」といっても、その根幹にある「相手の批判・反論を引き受け、自分の主張の水準を変えていく」という考え方は、わたしたちにとって、別に特殊なことでもなんでもないんです。 このあいだ、イギリスのティーン向けドラマでこんな話を見ました。 十代のメタラーの男の子が恋人の父親に、結婚の許しを求めに行くんです。 「お嬢さんを愛しています。結婚させてください」 すると、お父さんはその男の子の、いかにもメタラーという革の上下、鎖ジャラジャラ、長髪という人相風体を見て「どうやって生活していくつもりなのか。苦労をすることがわかっているところに娘はやれん」とつっぱねた。 そこでドラマでは、ふたりは友だちの助けを得て駆け落ちするんですが、ここは弁証法的解決手段とはいえません。仮に、その青年が、自分の将来の人生設計を恋人のお父さんに示すとする。経済的な問題に関しての自分なりの対策も盛り込んである。これは弁証法的な思考です。 ドラマでは、逆に両親の方が、自分の娘が恋人を含めて多くの友だちに愛されていることを知って譲歩するのですが、これもまた弁証法的思考に基づいています。つまり、当初お父さんが考えている「正しさ」は、経済的安定や社会的ステイタスにあったのですが、一連の出来事を受けて、お父さんは自分の考える「正しさ」の枠を広げたわけです。 実際のドラマの結末も、弁証法的です。さんざんドタバタしたあげく、主人公たちは自分の若さ・未熟さに気づいて、結婚は繰り延べる。これも「愛」こそ「正しさ」である、という水準を、社会的成熟や親に対する理解にまで広げているわけです。 このように、わたしたちが合意に至るプロセスというのは、多くの場合、弁証法的な思考を含んでいます。 ただ、ここで注意をしてもらいたいのは、ドラマの例でもあきらかなように、どちらも「正しさ」を求めるために弁証法を道具として使っているわけではないということです。 そうではなくて、相手の主張に耳を傾け、自分の考えが一面的・独断的であったことに気がつき、合意に至るという一連のプロセスが、結果として弁証法的になっている、ということです。 > 問題解決のための方法 とありますが、多くの場合、わたしたちが問題に直面したとき、「弁証法的解決」なんて悠長なことは言っておれず、むしろ「何から手をつけたら良いのかわからない状態とは、なんでも良いから手をつけたほうが良い状態である」(森博嗣『つぶやきのクリーム』:これは思想書ではなくて、エッセイです。昨日読んだところにありました)ということになっています。 原発の問題にしても、憲法改正の問題にしても、「どう考えることが正しいか」と言っていられるのは、わたしたちが少なくとも直接の当事者ではないからです。わたしたちの日常に突発的に起こるトラブルの解決には、議論は役に立ちません。確かに、うまくいって振り返ったのちに、ああ、あのとき自分が自分の主張を曲げて、Aさんの判断に従ったのは正しかった(弁証法的だった)と跡づけることはできますが、まさにその渦中にあるときは議論より、解決に向けた行動が求められるはずです。 議論というのは、わたしたちが他者と意見を交わし、それが単なる情報交換にとどまらず、自分の意見に対して相手の積極的な同意を求めようとするときに使うものです。そのとき、先の回答でも書いたように、わたしたちはみな「正しさ」を求める、という思考の癖を持っていますから、相手に受け入れてほしい主張(結論)を支える証拠や理由をもあわせて提示します(前提)。 おそらく質問者さんが「弁証法」という言葉を使っておっしゃっておられるのは、たとえばヘーゲルの言う「弁証法」などのことではなくて、前提が真なら結論も真となるように構成された演繹的な議論についてなのではないか、という気がするのですが、この演繹的な議論なら、その妥当性は形式から判断することができます。 こうしたことについての本は、たくさんありますのでぜひご覧になって下さい。手元にあるのは、齋藤了文・中村光世『「ただしく」考える方法』という本なんですが、別にそれに限らず、本屋さんか図書館の「論理学」の棚でいろいろ見て、自分の問題意識にぴったりくる本を探してみてください。 以上、参考まで。

feeders
質問者

お礼

--わたしたちが合意に至るプロセスというのは、多くの場合、弁証法的な思考を含んでいます。--そうだと思います。 ただ、ここで注意をしてもらいたいのは、ドラマの例でもあきらかなように、どちらも「正しさ」を求めるために弁証法を道具として使っているわけではないということです。--そうだと思います。 そうではなくて、相手の主張に耳を傾け、自分の考えが一面的・独断的であったことに気がつき、合意に至るという一連のプロセスが、結果として弁証法的になっている、ということです。 --そのように考えます。 --弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。--と書かせてもらったはずです。 生活の知恵のようなものだと思います。最初から弁証法を意識して使うことはないように思います。ですから、弁証法を形式化して理論めいたものとして提示されると、違和感を感じてしまうわけです。ヘーゲルの弁証法は概説書で読んだだけですが、このような感じを持つのは私だけでしょうか。マルクスの弁証法に対しても、形式化がなされている点で、少し違和感を感じますが、生活の知恵を社会生活の知恵というふうに拡大するのはありかなという気はしています。ご意見を頂ければありがたいです。 -前提が真なら結論も真となるように構成された演繹的な議論についてなのではないか、-ということですが、そういう言い方をしたつもりはないのです。演繹的な議論であれば思いこみの混入する余地はなかなかないと思います。最初の前提が真かどうかということを除けば、そもそも疑問を抱くことはありません。 一方、帰納法的な考え方については関心があります。思いこみの混入する余地や、他のbetterな考え方はないのかといったような関心を持ってしまいます。御紹介頂いた書物にあたってみます。ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.4

先のNo.1は、全く無用なコメントであったと反省して、弁解をかねてもう一言。 「最初の考え」「最初の時点で有効な考え」という部分を、無意味なものとして取上げたつもりではなかったのです。方向性が見えないので何等かの反論があるのではと思い、指摘にとどめ、為に単にけちをつける感になってしまいました。 「弁証法」の意味を、単なる対話に過ぎないとする見方と、その対極としてヘーゲル的なものがあるとして、両御質問ではヘーゲル的なものに寄ったところから、ヘーゲルに批判的な見解を出された、と見たのでした。私としましては、それは、ヘーゲルとの関係で充分意味のある論点ではないかと思っているのです。「弁証法」を単なる対話と見る見解ではヘーゲルとの接点は遠く、「正しさ」の根拠を問う筈もなかろう、と見ていました。私の理解出来る範囲のヘーゲルは、先のご質問で出されて居られる「正しさ」の根拠を問うてこそ、後世皆がヘーゲル弁証法と呼ぶ方法をとるに至った。完成型から見ると、抽象の極地の論議に見えるとしても、「現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題」を彼が落しているのだろうか、と思うのです。 ヘーゲル本人は、対話形式とか、正反合といった形式を自分の方法として言ったりしていないはずですね。そして、かれが弁証法的段階と呼ぶのは「正反合」の「反」の過程ですね。それは誰かが反対意見を提出するといった底の反対を云うのではなく、矛盾を言うのでしょう。そしてそれが問題とされるのは、「最初の考えAが正しく成りたつ」からこそでしょう。だからといって、考えAが何等かの客観的な正しさを持たねばならない、となるのでしょうか。主客未分などという言葉を使う人も居ますが、ヘーゲルの立場も一種のそれであるのではないか。ヴィトゲンシュタインなんかは研究していないかも知れませんが、現象学者といわれる人たちの多くはヘーゲルを研究していて、その成果の上に立っているのではないか。それは、「何かを正しい」と言うことはそもそもどういうことなのか、を追求することを含んでいる筈です。---この間の話を系統立ててする力は私にはありません。それはともかく、正当性の根拠ということから、弁証法を抛棄するあるいは単なる対話とするというなら、それは話が逆だろう、と先のご質問に対し思い。こちらの、適用出来たり出来なかったりする類いの道具であるかの見解には、それはヘーゲルのものではないだろう、と私が思った点を何となくお判りいただければ、弁解になったかと思います。

feeders
質問者

お礼

ありがとうございました。ヘーゲルについていろいろ勉強してみます。

回答No.2

 弁証法。という名は、意味を示していないようで、アメリカ映画を見ていて、弁証法は、弁論術、弁明法、みたいなものと思われているんだな。思った事がありました。 弁証法という名は、形而上学に対しての、弁証法、であり。形而上学の反定立としての、考え方、が 弁証法思考、なのです。 学生時代のマルクスの論文を読んで、書き送り、マルクスを発憤させたと言われる手紙。  愛するカ-ルよ、父は悲しい。おまえは大学で一体何を学んだのだ。おまえの言っている事は、過去の 天才、偉人、の言葉(=知識)を自分に都合のいいように、並び変えているだけではないか。 どこに、そなた自身の、考え方、というものがあると言うのだ。  へ-ゲルの影響を受け、他の欧米人のインテリ父親とは、知能レベルが違う、ドイツ人は頭が良くなっている事を感じさせる、ものではないでしょうか。 弁証法思考の始まりであり、ほぼ完成形と言える、ヘ-ゲルの考え方も、マルクスの考え方も、既に含まれており。超えているのが、インドの釈迦と古代中国の、老子、の考え方、ですが。 ブッダ、(知恵)に目覚めた人。と呼ばれた。釈迦の考え方、理法、を理解会得出来た者は殆どいないようですし。老子の明(みん、一班の知恵とは区別した。道(タオ)を知る知恵。は、 かって理解出来た者が一人もいない、と言われる難解な哲学。とも言われているようです。 釈迦や老子の考え方が解るなら、ドイツ弁証法はなんでもないもの、となるでしょうし。 弁証法をりか理解する事は、釈迦や老子の考え方に接近する、事になるのでしょう。 ただ、へ-ゲル右派といわれる。ナチズム、も、へ-ゲル左派、と言われる。マルキシズム、も、 闘争、支配権の獲得という思惑に執着し。哲学そのものを道連れに、弁証法を滅ぼしてしまった。 との意味はあるでしょう。 ナチズムとマルキシズムが、第2次世界大戦において、スタ-リングラ-ドで死の抱擁をした。歴史無、トゥインビ-が表現ていますが。 勝った、漁夫の利、を得たのは、形而上学=ユダヤ思想の大国。アメリカだったのです。 あなたが言う、自称マルキスト、は人類の歴史は階級闘争の歴史である。と、歴史家ヘ-ゲルなら、苦笑するような事を、唯物史観、などと言っていたんでしょう。 老子は、春秋、戦国、という。弱肉強食、権謀術数の時代を、そういうものとは関わる事なく、生き抜いた、ようですし。釈迦はその理法を理解されないまま、神様、仏様、に祭り上げられているようです。 老子も、飛ぶ鳥跡をの残さず、修行者は足跡を残さないように生き(=死ぬ)なければならない。 という釈迦の言葉そのままに。 500余文字の「老子」を伝え、牛にのって、立ち去った(死出の旅路に)と伝わりますが。 その後、山に入り、仙人となり260歳まで生きた。との伝説になったようですが。 この理解で正しいでしょうか。の質問には答えかねますが。  ヘ-ゲルのアウフファ-ベン(止揚)言葉の、4っの意味の、うちより高いものになる(変化する)。は 変化は必ずしも、進化、ではない。高くなる=低くなる、進化=退化 となる。でしょう。

feeders
質問者

お礼

弁証法は相当に奥深いものだとわかりました。もっと勉強してみます。とりあえず、自分にわかる範囲で考えてみます。ありがとうございました。

  • old_sho
  • ベストアンサー率38% (20/52)
回答No.1

直前のご質問に続いて弁証法を問うて居られますが、異なる「弁証法」像が浮かんだもので、余り役に立ちそうにない一言を。 「弁証法」像ですが、前問では正反合の発想と表現されていますが、寧ろ形式と見て、形式的なそれを批判されているようにお見受けしました。今回は問題解決法だとされて居られます。両者に共通する疑問点なのですが、ghostbusterさんが指摘されて、feedersさんはお答えになって居られない点です。 >最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 >弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるので この二つに共通する、そして前問で問題にされて居られる「考えAが成りたつ根拠」、これが弁証法が成り立つために必要だ、という発想は弁証法に不可欠なのですか。ghostbusterさんの対話の発展形式としての弁証法という見方では、当てにならない考えかも知れないですよね。そのあたりfeedersさんの考えて居られる「弁証法」がよく見ない、勿論私の勉強不足が原因ではあろうと思いますが。 弁証法という言葉が指す対象は、論者によってまちまちだ、と私はあきらめていて、弁証法だからどうだという論法は殆ど無視するのです。ご質問に関しても、前問では形式的な弁証法に疑問を投げて居られるようで、それはそうだろう、でおしまい。今回も、問題解決法だと言われるなら、それでよいではないか。という調子です。引っかかるのは、両者に「ヘーゲル」の名が登場する点です。 >ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法 >人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったもの 部分的な話であるのに断定するのは恐縮ですが、どちらも、本人が聞いたら自分とは関係ない、と言いそうな気がするのです。 以上の二点のうち、後者は言い出せばきりのない話になると思います。ただ話の前提に絡みそうでもありますね。ヘーゲルの考える弁証法は、そのように形式的なものではなかったのではないか。彼の考える理性を、「不変の理性」としてしまってよいのか。かれは、そもそも弁証法をお手軽「問題解決の方法」であるかの如く考えていたのだろうか。feedersさんの考えて居られる「弁証法」との隔たりが見えない。と、素人の感想です。

feeders
質問者

お礼

>最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 --この件については、こちらが間違った思いこみをしていたことがわかりました。その旨をもっときっちり書くべきでした。その代わりに、-弁証法の仕組みがよくわかりましが、-という言い方で片づけてしまいました。不用意というか不誠実でした。反省しています。 >弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるので --この言い方は、何も弁証法に限らず試行錯誤法にも当てはまることなので、意味がありませんでしたね。撤回します。  ヘーゲルの弁証法についてはもっと勉強してみます。ただ、率直な感想を言うと、私には弁証法が日常生活における普通の思考法のように思えるのに、ヘーゲルの弁証法について解説を読むと、大げさというか、本当にこんなことまで言えるのかといった疑問を感じてしまいます。  ありがとうございました。