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偽善と優しさ

時々思うのですが、 上記の違いって何だと思われますか? 私は優しさっていうのは実は無くて、 自分は偽善者だと思っています。 良い事をすると自分の気分がいいですよね? それってつまり「=偽善」ではないかと感じるのです。 偽善と優しさについて、 定義づけが出来る方がいらっしゃれば、 ご意見をお聞きしたいと思います。 よろしくお願いします。

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回答No.21

御質問の趣旨と全く無関係なNo.12の投稿を大目に見ていただき感謝申し上げます。興味深い御意見が続々寄せられていますが各回答への御返事を拝見させていただき御質問者様の並々ならぬ知性を感じております。(大目に見ていただいたことへのゴマすりではありません!) さて横着者丸出しで、辞書を調べていただいたかたの背中におっかぶさる形になりますが 「優しい」=「恥ずかしい」 ということを御教えいただいて思わず考え込みました。確かに日常いかにも優しいことを行って気恥ずかしいという感情を抱くのは、よくあることですが同義語であるとは・・・ 「優しい(とは何であるかを知っている)」だから 「(優しいことを行えないことが)恥ずかしい」 のであろうか。つまり 「恥を知っていること」=「優しい」? >僕は優先座席に座るようにしています。 席を譲るのが当然だと思われるので、気が楽になりますよ。 これわかりますね~。私も自分の前に妊婦さんとか御年寄りが来たら次の駅で降りるふりして(すかさず割り込もうとする若造とかオッサンがいたら何気にぶつかったりして)黙って隣の車両から乗車し直したり・・・。何で、ここまでせにゃならんのか。 私も若い頃はご多分にもれず電車で席を譲るという行為に人並みに照れ臭さを感じているクチでしたが年齢が上がるにつれて親も年をとり体が弱り自分自身も病気をして長時間立っていることに耐えられないようになってからは御年寄り等が辛そうに立っているのを見ると恥ずかしいというより気の毒なという気持のほうが強くなりました。 思えば若い頃ほど想像力に乏しく無神経で残酷だった。年齢を重ねて人生経験が豊富になるに連れ、人の辛さを我が身に置き換えるようになってきた。置き換えるだけで何かできるとは限らないですけど・・・。それだけに60年も70年も生きてきて「ワイが」「ワテが」とガツガツしてる中高年見ると若造以上にムカついたりする。 「共感」ということばが挙がりましたが、それも結局、個人的経験に裏打ちされた域から出にくい。その個人的礎の諸々を超えて想像力を働かせることができる、これをこそ優れた能力、「優しさ」と呼ぶべきなのでしょうか。 個人のキャパシティを超えて他者に寄り添うということが凡人の到達困難な高みにあるとすれば 「自分は偽善を行っているのではないのか?」 という自己への問い質しは我々にも実行可能にして高度な精神活動ではないでしょうか。 少なくとも何が善であり真の優しさであるかという茫漠とした問いかけよりも手が届きやすいように思います。 気がついてないんですよね、大体が・・・。それをハッキリ指摘し合えば自覚に乏しい人は傷つくし角も立つ。しかし思い込みや自己満足に浸かっている人を「よしよし」と受け入れてあげるのが真の「優しさ」なのだろうか? 私個人は私のために良かれと思ってくれているなと感じられる限り、あまり結果に拘りません。やはり私ごときに良かれと思ってくれる、その気持自体が非常に有り難いと思うからです。そして自分も、かつてその気持を抱いた経験から、それがどのように素朴で温もりのあるものかを承知している。 先の投稿で私は「哲学的に追究していった結果の不純物ゼロの・・・」と述べました。詰る所「素朴にして温もりのあるもの」これに尽きるのかも知れません。発端とか結果とか個人的経験とか、そうした全てを取っ払った後に残るのは、もう「素朴にして温もりのある」これしかないようにも思います。 結果が芳しくなかったことを理由に素朴な温もりのある優しさをかけてくれた人を責めることができるなら、その責める人は、このような気持を自分で抱いたことがないのでしょう。 また不可抗力以外で相手に恨まれるような結果になった場合は「優しく」してやったつもりの自己を厳しく見詰め直さねばならないと思います。でなければ善の高みを登って行くに怠慢であるのではないでしようか。 なんか聖職者みたいな結論になっちゃった。 私は単なる温もりのなかにドップリゆるゆる溺れてるのが好きですぅ・・・根性ないもんで。

kaiu
質問者

お礼

再度丁寧なご回答ありがとうございます。 質問を挙げさせて頂いてから、 ずっと標題の件について考えております。 そんな中昨晩久しぶりに母と電話で会話し、 30を迎えた私に母は 「人間30にもなればとうが立ってくるから、あなたも気を付けなさい」 と、諭されました。 それからsirayukihime様のご意見を読み、 >「共感」ということばが挙がりましたが、 >それも結局、個人的経験に裏打ちされた域から出にくい。 >その個人的礎の諸々を超えて想像力を働かせることができる、 >これをこそ優れた能力、「優しさ」と呼ぶべきなのでしょうか。 これを反芻して思い当たりました。 私は下のお礼文で「自分の限界を知っている」と 書きましたが、そう言い切れて尚且つ恥を感じ続ける自分は まさに「想像力が乏しく」、「怠慢」であると。 >私は単なる温もりのなかにドップリゆるゆる溺れてるのが好きですぅ・・・根性ないもんで。 いえいえ。人が環境を選ぶのだと思います。 sirayukihime様が温もりの中にいらっしゃるのであれば、 それはsirayukihime様のお人柄でしょう。   考えが自分の中で大きく前進した様な気がします。 ありがとうございます。

その他の回答 (27)

noname#11028
noname#11028
回答No.28

「善」とは、対立する「悪」という存在があって、初めて成立するものです。 「偽善」は、「偽」ものの「善」ですね。 「善」でないものは、即ち「悪」です。 自分が「悪」だと、認識している存在が、施す「優しさ」を、人は「偽善」だと感じるのではないでしょうか。 「それって偽善なんじゃないの?」=「あんたはそんなにりっぱな人間じゃない」 ってことだと思います。 もしくは、「えらそーなこと言ってるけど、あんた本当に解ってる?」 とか、 「偽善」とは、「反省」を促すための言葉だと思っています。

kaiu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人間に拠る、という事でしょうか。 確かに善悪がなければ優しさも偽善も存在しませんね。 優しさも偽善について考え出すと、 善悪も必ず付いて回る課題ですね。 対象の善悪を正しく知る事が即ち優しさに繋がる、 というご意見ですね。 ありがとうございました。

kaiu
質問者

補足

こちらで皆様にお礼をさせて頂きます。 当初書きましたが、難しい題材であるだけに あからさまな答えは期待していなかったのですが、 たった10行足らずの稚拙な質問文に 丁寧に答えて頂けた事、とても有り難く感じております。 また、たかが掲示板ですが、私自身にとって 考え直させられた事も多く、とても有益なものでした。 おそらく生涯考え続ける標題ですが、 ずっと置いておく訳にもいかないので ひとまず締めさせて頂きます。 cherry_moon様、threelions7様、happy_books様、 siirakansu様、kigurumi様、torauma様、 sirayukihime様、kentikuka様、wadatumi2005様、 aluminizedman様、frau様、Ryu831様、 AbCd98521Dreame様、zenzenzen様、fadalricia様、 皆様が暖かい気持ちを日々持たれていられる様、 心よりお祈りしております。

回答No.27

たびたび投稿させていただき恐縮です。 >私は下のお礼文で「自分の限界を知っている」と 書きましたが、そう言い切れて尚且つ恥を感じ続ける自分はまさに「想像力が乏しく」、「怠慢」であると。 「自分の限界」を知りつつ恥じるどころか開き直っている人間が多いなかで私どもが述べた意見を意図した以上に深く御汲み取りくださり改めて貴方の知性に敬意を表します。 まあ日常生活のレベル程度では厳格な追究をしなくても「私も満足、貴方も笑顔」で、じゅうぶん廻って行きますね。たとえ自意識や自己満足に裏打ちされたものであってもノー・プロブレムです。 では事態が生命の存続にかかわるほどの状況、しかも自分にとって重要でない相手が対象だったら・・・と 考えてみました。 こうした事態に直面して手をこまねいていることが自分の心理的側面において居心地が悪い、それを払拭せんことを計って行動に及ぶというのは多少ともプライドを持ち合わせていれば分かりやすいことです。しかし事態が自分の生命をも要求するような、しかも相手が自分にとって特に重要な価値を持たぬ場合。 反射的に己の危険を顧みず救助を行おうとする動きはヒトの本能の部分に組み込まれているという学説を目にした事があります。ここで、こういう本能由来の動きをも無視して想定していくと個人的経験に裏打ちされた分かりやすい共感や他者の視線を無関係としたうえで尚且つ残るのは苦境に陥っている相手を救い上げずに居れない「優しさ」を実行できない己を許すことができないという余人の想像を絶するほどの激烈なプライドを保持していなければなりません。また、これこそが真のプライドと言えましょう。 そして、もう一つ。自分が経験していない苦痛を察するためには、やはり個人の限界を超えた想像力、即ち真の知性が要求されてくるということです。 いかがでしょうか。我々凡人にとって、いかに至難の業であることでしょうか。謙虚にならざるを得ませんね。 >想像力が届かない。満足が自分の中で停まってる、他人の満足まで想像できない。エンドユーザーを意識できない こうした問いかけを折節に自身に対して行っていくということが我々の日常のなかで実行可能な叱咤の方法ではないでしょうか。 「素朴な温もり」辛うじて、これを知っていることを幸いとし、大切に保ち続けることを矮小なる己に言い聞かせたいと思います。 私自身も改めて襟を正す思いにさせられた御質問でした。

kaiu
質問者

お礼

再度丁寧なご回答を下さりありがとうございます。 sirayukihime様が度々お使いになる 「我々凡人」という言葉、余り慣用的ではないので 少し不思議でしたが、 自虐とは行かないまでも、謙虚さを自身に都度認識させる為に敢えてお使いなのですね。 私も自分は偽善者である、と公言し続け、自省の源としたいと思います。 また、人間の精神には 知・意・情が存在するといいます。 それらを精進させていくのが優しさに繋がるのだと思います。 度々為になるお話を頂き、ありがとうございました。

  • torauma
  • ベストアンサー率20% (38/183)
回答No.26

>偽善と優しさについて、 >定義づけが出来る方がいらっしゃれば、 >ご意見を・・・・ ・・・・なんで誰もハッキリした回答入れてくれないの、今の日本人は 感謝する事を知らないから、「 自分は偽善者の自己満足 」という焦燥感しか得られないんじゃないのですか。 「拝金主義のグローバリズムが現実」、「阿呆の役人や教師と社会正義を共有していれば優位」 こういう回答(無回答)者達が、イラク戦争参加を可能にしたんでしょ。 あげくに”人間はどのような現実にも慣れることができる”と考える哲学者達がサル達を喝破してみせれば多数者が同調、自己擁護を共有するんでしょ。 だから北朝鮮の体制維持もできた。 きっと思想・哲学界は一般人の助け合いに参加する資格って無いのでしょう、ねぇ?

kaiu
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございます。 あまりあからさまな批判は本意ではないのですが、 torauma様には二度もご意見を頂き、 他の方々からも多くのご回答を頂きました。 ですので、 >きっと思想・哲学界は一般人の助け合いに参加する >資格って無いのでしょう こちらのご意見に関しては賛同し兼ねます。 >今の日本人は 感謝する事を知らないから、 >「 自分は偽善者の自己満足 」という焦燥感しか >得られないんじゃないのですか。 仰るとおり、私が偽善者である事を確信できたという事は、 私にとってとても有益な事でした。 こちらの掲示板のお陰だと思っております。 イラク戦争参加や北朝鮮の体制維持については、 身近であり、興味深い題材ではありますが、 主旨とは違いますので、別スレを立てられた方が torauma様にとって生産的な様な気がします。 また、一つだけよろしいですか。 今の日本人は~、とか○○は~、という言い方は、 普段も何気なく使いがちですが、 議論するにおいてはとかく比較論になりがちなので、 控えられた方がよろしいかと感じました。

回答No.25

そう ですか.

kaiu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ですが、意味が少し分かりかねます。 また何か補足があれば、お願い致します。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.24

たびたびすいません。 もう一つ関連したものを思い出しました。 現在アフリカでは餓死が深刻化しています。 テレビでアフリカの知識人と日本の若者と対話を見ました。 アフリカの知識人が言うには「日本を含む先進国がアフリカの飢餓を引き起こした」と言いました。 それについて日本は責任を取るべきだと断罪しました。 日本人の若者はそれを聞いて青白い顔になり、言葉を失いました。 そして一人が他の日本人の若者を責め、もう一人も他の若者を責め立てました。 アフリカの知識人が言うには、先進国がアフリカを植民地としてしまった事に原因があるとしました。 援助と称して機械を援助し、今まで手作業で農作物を作っていたのに、その人手を機械がとってかわったことにより、人々は失業したのだそうです。 土地を持っていた人たちはお金でその土地を買収していた現地の人に自分の土地を売ってしまい、土地無し仕事無しに陥らせてしまったと言うのです。 いくら教育面で資金を提供しても、働く場所が無いので、大学に行けても職が無いのだそうです。 わたしはそれを聞いて、そう単純に日本に責任転嫁していいのだろうかと思ったし、日本の若者がその主張を聞いて、他の若者を批判するのは愚かなことだと思えました。 アフリカの知識人にすれば、日本の援助こそ悪だったというのです。 これは私の考えでは偽善になるってことになります。 じゃあ どうすればいいのかというと「そんなこと自分で考えなさい」とその知識人は言っていました。 待て その前にあなたが責任転嫁にエネルギーを費やすより、自国のために考えなさい と思いました。 結局 責任が誰にあるのかどうどう巡りしても何の解決にもならないと思えるのです。 自国民のよきリーダーが出なかったことが全部先進国のせいにはならないし、私服を肥やしたアフリカの権力者は全く自国民の飢餓に対して責任が無いわけじゃあない。 そういう人たちを選出したアフリカの知識人に全く責任が無いわけでもなく、自助努力をしないでただお金をくださいと外交していたアフリカの政治家に対し、心を動かし援助した先進国がさらに「もっとどうにかしろ」と鞭打つような発言をされては、これ以上さし出した手を叩かれたくないので敬遠したくなります。 マザーテレサのようにぬくぬくとした環境から抜け出し身を投じて人々を救済する人が出なかった。 それが不幸であったと思うし。 もっと別なところに原因はあるのかもしれませんが、やはり良きリーダーが出なかったことや、武力により恐怖政治をやるリーダーに負けてしまったことも、一因なのではないかとも思います。 アフリカの人々にとっては日本は偽善者でしかないなんて、それを聞いて悲しくなるのは私だけでしょうか。 寄付というものはいつだっていいところに使われるものじゃあない。 使い方を間違うと、悪化するし人も飢餓に陥らせる。 偽善者呼ばわりもされる。 難しいですよね。

kaiu
質問者

お礼

再度の丁寧なご回答ありがとうございます。 とても深いお話で、本当に難しいです。 自分の善悪にすら疑問を抱く人間というものが、 遠くの国の大勢の人間の事を考え、最良のものを 編み出すのは一体何をどれだけ考えればいいのでしょう。 そして環境問題。発展途上国で起こり続ける砂漠化や塩害、 絶滅危機に陥っている動物達。 ナイジェリアのミュージシャンであった故フェラ・アニクラポ・クティが 「日本はマスコミ(メディア)にスポイルされている」と 強い口調で日本を非難したそうです。 テレビやパソコンの向こう側から予め意図された情報を 垂れ流して聞かざるを得ない先進国の大半の人々は、 やはり平衡を失っているわけで、既に私達の想像力だけでは足りない 彼らとの温度差を大きく感じずにはいられません。 >結局 責任が誰にあるのかどうどう巡りしても >何の解決にもならないと思えるのです。 本当にそうですよね。 せめて少しでも現状を正しく理解する事が 今の私に出来る事だと感じました。 結果における対象者とのズレに関してのご意見でしたね。 興味深いお話をして頂いてありがとうございました。

回答No.23

>No.20「自己満足」 自己満足●想像力の乏しい人の決め台詞。放任主義。      チッポケな満足、届かず、停まる。脳死状態。 自分が喫茶店に行く金を節約して、小銭を募金したとする。  ↓ それが貧しい国の薬代になり、 子供たちが学校で使う黒板チョークになったり  ↓ たかが風邪をこじらせた貧民、栄養失調、体力の劣る子供の命を コーヒー代で救う可能性がある、日本の小銭が途上国の命に化ける?  ↓ わが国では識字率100%が当たり前だが、 当たり前の教育を受けられない子供 が世界中にどれだけいるのか こんな想像をできない人が、よく自己満足という言葉を使う。 自分の行為が、他人にどれだけの影響を与えているのか 他人の身になって考えるという、想像力・優しさ・共感力が、 低下した人をよく目にする。 自分の命が贅沢が文明生活が、どれだけの犠牲の上に成り立っているのか なんて考えた事ないんだろな。 そういう奴らが、ヒモ付き援助、ODAとかやって自己満足してる。他国への援助だが、自国の企業には丸投げの仕事が入ってホクホクしてやがる。日本の押し売り企業産物で、途上国が使いこなせず、廃棄された例は山ほど。高価なハードばっか押し付けて、肝心のソフトに目が届かない。 想像力が届かない。満足が自分の中で停まってる、他人の満足まで想像できない。エンドユーザーを意識できない巨大メーカー役員と同じだな。脳死状態だなホントこいつら。チッポケな器だな。 やべ、だらだらグチグチ無駄口が回っちまった。 聞き流してください。饒舌になり出したらアルミは危険だ。

kaiu
質問者

お礼

再度の丁寧なご回答ありがとうございます。 強い口調でご意見を頂いたアルミ様(?)ですね。 とても印象に残っております。 優しさもご自分の意思だと言ってはばからない アルミ様はとても強いお方なのでしょう。 >想像力が届かない。満足が自分の中で停まってる、 「自己満足」、言葉通り仰る通りだと思います。 でも、ご存知の事と思いますが、 優しさは自己満足だ、という人の中には 「謙虚さ」という気持ちも含まれていると思います。 「他人の感謝を期待してはいけない」、 また、自分のした善い行いに対して結果が伴わなかった経験に対しての、 自省の思いも含まれているかも知れません。 ご回答頂いた方々の中から、私はその様な印象も受けました。 ご意見頂きまして内容もごもっともだと思いますが、 言葉とは決して一つの意味を持たないと感じまして 書かせて頂きました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.22

>それも結果としては相手にとって悪なので、 >偽善という事ですね。 はい。 多くの人は「善意には自己満足を含有しているので、その善意は所詮偽善だ」と捕らえているようです。 例えば、溺れている人を発見し、でも濁流で自分が飛び込んだら死ぬと思ったけど、見ていて心が痛くてしょうがない。 そこで飛び込んで溺れ死んだとします。 周りの人たちはなんと親切な愛情の深い人だと故人をしのびます。 でも、、、自分が見ていられないという感情に耐え切れず、アクションを起して 見ていられない状態から脱却しようとした可能性は? それは他人のためじゃあなくて、自分の為に留まる。 うーーん どこまでいっても偽善になるのか? そっちの方向で善か偽善か考えてもどうどう巡りな気がします。 で、別な方面からアプローチして今回の質問を考えました。 私の偽善の概念は、相手が「この人いい人」って思ったら、それはその人にとって善意を受けたと感じるので、『その人にとって』は善意になります。 「いんや あなたは利用されたのです 彼の満足のために」と言う必要は無い。 だって善意を受けた人は満足しているのに波風立てることはないし。 しかし、よかれと思ってやったことを相手が誤解して悪意だと思い込って怒ったとします。 私には相手の怒りの理由がよくわからない。 この言葉かなぁ? でもまさか馬鹿じゃないだろうからこの言葉は比喩だって理解するだろうし、そのほかの文章からも当然 この文章には悪意は無いとわかるだろうし、、、あれ?  あれ? です。 いっくら説明してもこちらの真意を全く理解しない。 従って相手にとってはこちらの善意は悪意としてしか存在しない。 「モシモシ アナタ ニホンゴ ワカリマスカ」 というと「もちろんわかりますよ」とやっと的を得た回答が返ってくる。 おお繋がった! 「貴方は日本語が理解出来ますか」と書くとそれに沿った返答が返ってこない。 ああ、これが原因かと納得し、善意を悪意と取られた理由がわかり すっきり。 従って前の回答同様、私がよかれと思っていても、それは「相手の世界」では偽善になる。 私の世界では善意だとしてもね。 こういう場合住んでいる次元が違うと流しています。 ちなみに誰も「自分は優しい人です」なんて言う人はおらず、他人が優しい人かどうか区別するにしかすぎず、その人の実体を表してなどいないし、その人の行動の真理を表してなどもいないと思います。 定義づけというか、、、こう解釈しています。 「その人の住む世界で 善は悪にもなるし 悪は善にもなる」です。 今までの戦争もそんな感じ。 片方では善でも同じものが片方では悪としか見えない。 だから戦争が繰り返し起こる。 日本では他人の者を盗むことはあくだけど、どこかの国では盗むというか持って返ることは他人に得を与えたことになるらしい。 集団の価値観の違いからも善・偽善の判断はコロコロ変わり、これは定められる性質のものではないと思います。

kaiu
質問者

お礼

再度のご回答、ご丁寧にありがとうございます。 善意を行った結果についての見解ですね。 >住んでいる次元が違う こちらは重要ですね。 国→地域→学校・会社→家族→個人と コミュニティの大きさに関わらずしかも時代と共に 確かに両者に「ズレ」が生じます。 それを知る事は大変困難であり、 何が善か・悪かという事を一つに定義できない。 という事ですね。 私も良かれと思ってやった事が やり過ぎてしまったり、失敗は数知れず…です。 こちらから見ると、確かにそれは多岐に富んでいて、 訳が分からない事でしょう。 でも、対象者にとっては本意または真理はある筈だと感じます。 相手の気持ちを汲む、或いは状況を理解する、 国を知る、つまり対象を知ることが肝要であるという 事を改めて思わされました。 ありがとうございました。

回答No.20

あくまで自分の考えですが、 偽善は、「自分のためにすること」で 優しさは、「他人のためにすること」だと思います。 例えば、子供が「お母さんに褒めてもらう」ために家事手伝いをするのはまだ偽善の域を出ていません。 しかし、スマトラ地震などを見て本当に現地の人たちに何かをしてやりたい、そういう気持ちから来ていれば、それは「優しさ」だと思います。 外見は一緒なのでしょうが。

kaiu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >外見は一緒なのでしょうが。 気持ちの発端の違い、という事ですね。 ところで、一連の他の方々のご回答から見られる「自己満足」というものは、 どちらに当てはまると思われますか? 「自己満足」=「自分のためにすること」=「他人のためにすること」 だと私は今のところ認識しております。 >しかし、スマトラ地震などを見て~ 私事ですが、当時被災に比較的近いところに 居りまして、荷物の一部が無くなる等被害に遭いました。 保険会社と交渉中、現地のニュースで実際に 現地で見た怪我をした男の子を見かけました。 いたたまれなくなりましたが、私がその時した事はせいぜい募金位です。 こんなものが優しさだとは私は到底思えません。 お時間があればご意見いただけるとありがたいです。

  • Ryu831
  • ベストアンサー率38% (241/621)
回答No.19

全く自分と同じように考えている方がいて、非常に驚きました。 今はもう30過ぎのオヤジになり、以前とは少し考え方も変わってきましたが、高校から大学時代は非常にこのことで悩んだ時期があります。 (今もその影響は多分にある) 近所の人が宗教に入っていて、行事によく連れて行かされたり、参加させられました。 そこで人々は皆、「他人のために」自分が何ができるのか、真剣に語っていました。終いには世界平和まで祈る始末。 ボランティア活動などもそこの団体でいっしょにやったのですが、結局これは自己満足じゃないか!と思うようになったんです。 他人のためだの、アフリカを支援する募金だの。。 特にアフリカなんて自分とは全く無縁の世界であるし、食糧事情が悪いことに同情はするものの、募金をしてまで救おうなんて思いません。ではなぜ募金をするのか。気持ちが良いからです、いいことしたって。 また、そんなことができるのも、まず自分達には腹いっぱい食えるメシがあるから、精神的余裕ができて、他人を救おうだの世界平和だのと言えるんだと思うんです。自分が飢えている時に、それでも人を救おうと思えるのか?そこが疑問です。そうじゃなけりゃ全部自己満足の世界です。 でもこれは偽善とは違います。他の方も言っていましたが自己満足です。良い自己満足かな。 友人が腹が減っていたからラーメンを作ってあげた、恋愛相談に乗ってあげた、などなど、親切心から来る自己満足。 偽善となると、、例えば募金と偽って金を巻き上げるとか、世界平和を謳いながら武器を作っているとか、、ですね。 で、「優しさ」に付いてですが「優しい」と言う言葉に、純粋無垢な心の温かさのようなイメージがあります。 でもそれは、自分が人のために何かをしてあげよう、と思い、それが行動に移った時、その行為を他人が見て判断するものだと思います。 優しさの裏には自己満足や打算がある、と思っても、やはり質問者さんも、他人から優しくされれば嬉しいものでしょう。心も温かく感じますし。 うーん、、でも考えれば考えるほど、優しさの本質って難しいな、って感じます。 結局、自己満足であろうと、他人がそれをする事によって喜んだり感謝してくれるのであればいいのではないでしょうか。募金だって、しないよりもしたほうが結果的にいいのです。そう割り切って行動しています。 支離滅裂な文になってしまうすみません。

kaiu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >今はもう30過ぎのオヤジになり、 >以前とは少し考え方も変わってきましたが、 >高校から大学時代は非常にこのことで悩んだ時期があります。 私も30のオバチャンです。でも同じ様に学生時代から 考えていました。 同じ様な方がいて嬉しいです。 >また、そんなことができるのも、まず自分達には >腹いっぱい食えるメシがあるから、精神的余裕が >できて、他人を救おうだの世界平和だのと >言えるんだと思うんです。 学生時代は私は人間は打算的で偽善者だ、といって はばからなかったので、優しさは存在する、という意見の人間から 真っ向から意見を否定されました。 私は自分の、彼らの言う「優しさ」の許容量を知っていたので、 それ以上の事に責任を負うのが嫌だったのです。 Ryu831様の仰るとおり、 >自分が飢えている時に、それでも人を救おうと >思えるのか? このことに当てはまるような気がします。 >特にアフリカなんて自分とは全く無縁の世界であるし、~ こちらもよく分かります。 世界平和のために祈るような方はさぞかし家族や友人や隣人を 大切にしている事でしょう。そうでなければ偽善というか 嘘やまやかしだと感じます。 >偽善となると、、例えば募金と偽って金を巻き上げるとか、~ ここまでいくと偽善というか犯罪ですね・・・。 でも、仰る事分かります。 >で、「優しさ」に付いてですが~ こちらも良く分かります。 他人のために何かをするという行動には自己満足が含まれるが、 結果他者が思いがけず暖かさを感じた時それは優しさとなる、 という事ですね。 共感できる部分が多々あって嬉しかったです。 ありがとうございました。

  • frau
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回答No.18

偽善と優しさについても、単純に分けられる問題ではないですよね。偽善とか優しさとかの抽象的な観念やそれを表す言葉はそれこそあまりにも複雑で怪奇で不可思議で、偶然的でありながら必然的な…具体的な要素で成り立っているからです(あ、これも抽象的用語の対立する一方の言葉か)。解体してみなければならなくなりますが、あまりにも難題なのでとりあえず辞書をひきました(笑)。 【偽善】本心からではなく、みせかけにする善事。「-的な行為」「-者」⇔偽悪 【優しい・恥しい】 (1)身も痩せるように感じる。恥ずかしい。 (2)周囲や相手に気を使って控え目である。つつましい。 (3)さし向かうと恥ずかしくなるほど優美である。優美で風情がある。 (4)おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。 (5)悪い影響を及ぼさない。 (6)情深い。 (7)けなげである。特殊である。神妙である。 (8)(「易しい」と書く) ア:簡単である。容易である。 イ:わかりやすい。 以上「広辞苑」からでした。 「優しい」は「恥ずかしい」と同義語なんですね。だから先の回答のお年寄りに席を譲るというのはやはり「優しい」ことなのでしょうか。確かに優しさを持ち出すときは確かに照れが生じます。それは相手と他の誰かの視線を感じるからでしょう。また教育などで養われた「規範」や「良心」の目の視線を感じるからでしょう(フロイトはそれを「超自我」と名づけました)。その意味では「優しさ」とは第三者の視線をも考慮しながら実行されるものかもしれません。 「優しさ」は教育の一環、理想をいえばすべての根幹となるべき価値観でしょう。しかし親の価値観によっても違ってきます。教育者の思惑がどのようであっても、それを被った側の生まれつきの個性、固有の体験からくる「優しさ」もあるわけです。「自分が同じ経験をしたから相手の気持ちはよくわかる」というのはその状態はピュアなものでしょうからそれ自体評価されるべきです。吹く風が優しさを余韻に残していっても、その風がどこから来たか、などと根本をつきつめていくと、人類の存在意義まで追求しなければならなくなりません。また善行全てが「自己満足」とする考え方自体、偽善的になってしまうきらいがあるように思います。 「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」という聖書の一節の通りにする。そこで実行者の「優しさ」が満足するのならば宗教的な教育の結果です。善行をして気持ちがよくなるのは規範という「監視者」に対して反抗しなかったからかもしれません。例えその教えに対して疑問を感じていてもそれが「優しさ」であると強制され、定着した価値観であるのならば、実はどこかにあるはずの真実の自分に対しての偽善となる。やはり自分で探しに行くものだと思います。 さて、こうして改めて辞典で調べたのですが、辞典って一般論なんだと感じました。当たり前ですが…。しかし「特殊」「神妙」という言葉とあるのは意外でした。さらに「特殊」を調べると「=普通と異なること」、「神妙」はこれまた「=けなげ」や「=特殊」「=すなお」と同義語でした。 また「人の知力を超越した現象」と出ました。これが真髄かなと考えます。本当の優しさは「人の知力を超越した現象」、つまり神の愛(宗教的な意味ではなく哲学よりの意味での)に近いほどの「優美」なるものなのかななどと想像しました。 辞典では「偽善=みせかけ」とありますが、私は偽善とは「思い込み」もあるのではないかと思います。たとえば自分は常に良い人であろうと思っている人。でも本当の「善」なのか?それは本人が決めることであり、「善行」だと思って行動することでも他の誰かにとっては「偽善」かもしれない。そして前者に共感し協賛する人も同じ価値観を持つ「偽善者」であるのではないか? 時に偽善は暴かれるときもあるでしょう。それは「裸の王様」の童話と同じように。あの素直な子供が「否!」と叫んだのは、まだ恐れを知らない純粋さと無知ゆえの強さがあるわけですが、果たしてこれが子供だけにいえることでしょうか。 この魑魅魍魎の大人の世界でも、「否!」と叫べる人は現にいます。たとえば会社の内部告発をする人。組織はヒトと同様、オモテの顔ももちますが、オモテがあれば当然ウラもあります。果たして見た振りしているのと見ぬ振りができないののどちらが偽善か。それらの人にとっては「真実を語る人」とはやっかいなことを持ち込んだ「悪い人」であるのでしょう。しかし「力」という無言の悪に立ち向かう姿は饒舌な偽善の軽薄さを圧倒する孤高の尊さを感じられ、ついつい感動してしまいます(個人的には)。またこの強さと根性こそ「人の知力を超越した現象」なのかなとも思いました。 私は一時期法律を学んでいましたが、同時にこの混沌の世界を「法」というツールで斬るだけのものというイメージを学びました。「法」がすべて正しいとは思いません。それ以上に複雑で混沌としている現実が「法」すらも包括しながら無限に広がりゆくブラックホールのようなものだからです。「法」はそれを後天的に学び、善悪の指標とし、あるときは驚くべきほどの合理さで片付けてゆくもであるという感じを否めません。 とすれば、その「法」を使ったとき望みどおりの結果(判決)をくだしてもらえるならば「法こそ正義」、望みが打ち砕かれたなら「法は偽善」となるのでしょう。指標や軸となる何か、それ自体対象者あっての存在です。対象者の主観、客観、感性や感情、意思や思考によってこれだけ大きく変化するのですから、本当に一概に「善悪」は何かとは言えません。 例えばボランティアは微妙なことです。誤解を恐れずにいうと「尽くすことが好きな人」もいるからです。後者は尽くすことで自己愛が満たされますから必ずしも相手のためを思っているのではありません。よく「あれだけ尽くしたのに捨てられた」と恋愛相談などでみかけますが、尽くされた相手はその「偽善」を感じてしまうからではないでしょうか。 うつ病の方に「頑張れ」ということも当人にとっては禁句です。純粋な励ましも、時には傷を深めることとなる。 反対に「偽悪」で思い浮かぶのは「ねずみ小僧」です。盗人ですが、貧乏人にとっては神様でしょう。でも「法」からみればまようことなく「悪」です。 多く取り上げられている席を譲る件についても当てはまります。こちらが「お年寄り」と判断しても、相手の方は「こちとらまだ若いんじゃ」と思っているかもしれず(笑)、第三者から見て微笑ましいことでも当事者間では主観と客観の差異があります。 しかし席を譲らない人の心理は「多数派同調バイアス」といって、自分が譲らなくても誰かが譲るだろう、という他者への期待のことです。こちらの方が実際的なのでは?。これが仮に人の本性だとしたら、譲る人というのはその気持ちを超えて、堂々と照れることができる素敵な人だと思います。 確かに真心で接してもそれを与えられてもあるときは、時と場合、人によってありがた迷惑となる。純粋な動機があっても結果には結びつかず、逆に不純な動機が意図せず誰かを助けることもある。結果は対象によって不測だが、動機は自分のためだという意見が多いようですね。「善悪」とはシーソーゲームみたいですよね。 だからこそ人はこのように「優しさ」とは?「善とは?」と考えずにはいられないのでしょう。やっぱり神様からの課題なのかな? 個人的には曖昧な「優しさ」ではなく「共感」ということに賭けたいですね。同じ経験をして同じ気持ちを理解できても、あまりにも入り込めば自己と他者を同一視してしまい、自分が傷つくし、また相手の傷を深めることになる。姿勢としては遠からず、近からず対象物と接するということでしょうか。そして相手に何かを期待しないこと。言うまでもなく「優しさの押し売り」と一転してしまうからです。また私が誰かの優しさを見つけたとき、またそこには「掘り下げてしまったゆえの厭世的なドライ感」よりも「照れ」というウエットを見れたら、と思います。そんな人、ついつい信頼してしまうんです。

kaiu
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 おそらくfrau様は細やかな性格の女性なのですね。 久しぶりに女の人っていいなあと思いました。 例に挙げて頂いた一つ一つ、とても良く分かります。 私も質問を挙げさせて頂いてから関連しそうな所を調べていますが、 >「優しい」は「恥ずかしい」と同義語なんですね。 こちらは知りませんでした。 とすれば、恥ずかしくない事=優しさではない とも(ある意味)言えるのでしょうか。他者の目を 気にしがちなどちらかというと日本的な考えだと感じました。 >「尽くすことが好きな人」もいるからです 確かに居りますね。それもたくさん・・・。 「愛されるより愛する方が幸せ」と似通ったものを 感じます。そういう人達は、それとほぼ同じ心理だという事を、 なぜ感じないのでしょう? 「相手の為を思っている」と 見せかけて、実は自分の意思を持たない(或いは意識していない)からでしょうか。 >個人的には曖昧な「優しさ」ではなく >「共感」ということに賭けたいですね。 「優しさ」は偽善とも自己満足ともつかない 曖昧さを持つので、自分の行う善い事柄は「共感」を 伴ったものであればいいと感じていらっしゃるという 事ですね。 frau様のご意見もそうですが、 読んでいて暖かくなる回答がいくつかあります。 それでさきほど気づいたのですが、 最初に「私が偽善者であると感じる」、という問いを投げかけたのは 完全にそう思ってしまうと、逆説的に人に何か善い事を されて自分が嬉しいという結果になった時に、 してくれた対象に対して何も感じなくなるのでは、 と思うのですが、暖かさを感じる自分にも矛盾を感じているからかも知れません。 それはやはり大方の皆様も仰るように永遠の課題なのかも 知れませんね。 考えがまた深まりました。ありがとうございました。

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