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偽善と善の違いって?

前に http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2117763 という質問をしましたが範囲を絞って再び質問させて頂きます。(あちらは補足への回答がまだなのでまだ締め切りません) タイトルの通り、偽善と善の違いが分からなくなっています。 おそらく私は偽善者です。皆さんも上記質問のNo.2への補足を読めば、そう感じるでしょう。 私はかつて自分で本心からの善事だと思ってしたことを「偽善」と言われ、またそう言われた人を知っています。 そこで「なぜ善事をしたのか」と深く考え「私は偽善者だ」という結論に至りました。 しかし、どこまでが偽善といえるのでしょうか。 ボランティアの参加動機が「内申書のため」だったら偽善でしょうか。 「親にほめられるから」では? 「皆の喜ぶ顔がみれるから」では? 「いい事をしている自分が好きだから」では? 私は自ら老人看護職に就いた人と話したことがありますが「家族の方にお礼を言って貰えると嬉しい。報われた感じがする」と言っていました。 これは「お礼を言ってもらえる」ということを期待しているから偽善と言えるのでしょうか? 今、私の中では「理由なき善はない。だから偽善でない善などない」という結論があります。 だからマザーテレサも「みんなが喜ぶ顔を見れる」という代償を求めたということで偽善者になります。 「それはおかしくないか」と考える自分もいるのですが、先の結論に明確な反論ができないでいます。 募金に協力している人を見て面白がるように笑う人も、席を譲るのを「偽善者と思われるのが嫌」と思う人もいるのです。 哲学カテに質問してますが私にはその手の知識は一切ないので、回答に専門用語を用いる際はお手数ですがド素人にも分かり易い補足を付けて頂けないでしょうか。 長文の上に稚拙な文章ですが、言わんとすることを汲み取ってくれれば幸いです。

みんなの回答

noname#138471
noname#138471
回答No.26

 ためしに仏教から、善と偽善の違いに答えてみたいと思います。  三輪空という言葉があります。これは、他人に親切した時、私が、誰々に、何々を、この3つを忘れるようにしよう、忘れることができればまことの善であり、忘れることができなければ偽善である、という意味です。  そして、なぜ忘れるようにしようと教えるか、それは「これだけやっているのに・・・」と、見返りを求める心、善を売り物にする心、恩着せ心が出てしまう、すると、何か礼でもないと腹が立ってくる、こうして悪を造ってしまうから、であります。  ここで間違ってはならないのは、善と悪は(倫理や道徳、世間で言う善と悪とほぼ同じものを指すのですが)、厳密には、仏教で善とは自分に善果をもたらすもの、幸せをもたらすものを意味し、悪とは自分に悪果をもたらすもの、不幸をもたらすものを意味する、ということ。さらに仏教では、行為と言っても、身体でなす行為、口で言う行為、心で思う行為の3つがあり、この3つが私の幸不幸を決める、と教えることです。  私たちには智恵がなく、今の行為が将来の自分に幸せをもたらすか、不幸をもたらすか分かりませんが、仏教ではこと親切については善だと教えています。「情けは人のためならず」という言葉があるほどです。  ですが、その親切をする際、三輪空を実践できたかどうかが善か偽善かの決め手となります。そして三輪空はたいてい心の問題です。偽善者というのは、悪をおそれ、心から真に善に向かって初めて知る自己の姿であります。  これを踏まえ、以下、私の考えです。  ホンモノとニセモノとウソモノの違い。ホンモノに似せて作ったものだからニセモノと言われます。しかしニセモノには、ホンモノと簡単には区別つかない精巧なものもあれば、明らかにニセモノと分かるものまで、ピンからキリまであります。ニセモノだと言うのもバカバカしいものはウソモノでしょう。  偽善もこれに当てはめることができるのではないでしょうか。そして、偽善は決して真っ黒な悪ではないと思います。

回答No.25

 善をなした時に、その行為に目的があるかどうかだけで善と偽善を分けるのは乱暴な気もします。まず善をなしたいという気持ちがあって、それに目的が付いてくるのであれば、それは善としても良いのではないでしょうか。逆に目的がまずあって、それを実現したらたまたま善だったというのが偽善といえるでしょうか。いずれにせよ、境界を見定めるのは難しいことですね。  自分が偽善だと思いながら行ったことは、それは偽善といっていいでしょう。あなたは、人のために何かしてあげようとする時に、偽善だと思いながら行っていますか?自分の善に、あとから理由を探していませんか?  自分が善だと思っていて、他人がそれを偽善だと指摘したときは2つの可能性があります。  人の意識を覗く事などできないのだから、それは指摘した人の想像であり決めつけであって、やっぱり善であることもあります。  また、人生経験豊かな他人が、自分の深層意識に潜む偽善を見抜くこともあります。でも、それでさえ自分が自覚していない以上、周りが偽善を指摘することは、現時点においては決めつけでしかないのではないでしょうか。  少なくとも、『「なぜ善事をしたのか」と深く考え』ているあなたは、その誠実さにおいて、主観的な意味で「偽善者」たりえないという気がします。

noname#31063
noname#31063
回答No.24

返信ありがとうございます。再度No.8です。 >偽善者は(偽善だろうかと)そんなこと気にしない、 ということは私は偽善者でないということでしょうか。 「善意は最高の知性」だと思いますよ。 情動を越えて 根源から偽善(お節介)しなくていい世界を創れるもの。 障害者に手を貸すのではなく 障害者に手を貸さなくても 皆がやりたいことをやり、 行きたいところに行けるようにすること。 その為に政治や規制を変えて行こうとすることでしょう。 そんな必然性、完全性を求めて 善人に全ての人がならなくてもよくて 善人とはなるものではなく 善人の光は自分の至らなさを照らすために 必要と思えばいいだけのことで その光を知っていることは 憧れを語る楽しさですよ。 イチロー選手を知らずに野球を楽しむのは 一般人としても勿体無いぐらいなことですよね。 偽善者で充分ですよ。 善人になる必要があるなら 税務署が 「私の幸せは皆さんの幸せの上で成立ちます」 ってぐらい公明盛大に宣伝活動しないといけません?

回答No.23

こんにちはヽ(´ー`)/ 善と偽善の違いについて分からなくなったのは みなさんのご意見のなかで出てくる、 「善」という言葉や「偽善」という言葉の意味が それぞれバラバラに扱われているからではないでしょうか。 「善」の対義語は「悪」です。 「偽善」の対義語は「偽悪」です。 では辞書を開いて見ましょう。 (善) 一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、 人や物の性質(価値)がよいこと、 望ましくすぐれていること。 また、それらをよくあらしめる根拠。 真・美とならぶ基本的価値の一。 倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが 目指すところ、あるいは営みを律する 義務の源泉とされる ながいなあ~ 後半部分に注目しておいてください。 (悪) わるいこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え。 (偽善) 本心からではない、うわべだけの善行。 (偽悪) わざと悪を装うこと。 だそうです。(goo辞書) この認識でお話をすすめます。 さて 倫理学としてみるところの善ですが・・・ <人間のあらゆる営みが目指すところ、> <あるいは営みを律する義務の源泉とされる。> この説明ですと善とされる行いの その動機や実行者の心模様については 言及されていません。 つまり、どのような思いを抱いて行ったにせよ、 客観的に善とされる行いが認められれば 善であるということだと思います。 そして偽善とは本心からではないうわべの善行… ~以上をまとめて例にしてみましょう~ (○○は善といわれる行為) (△△は最悪の行為) 「みんなの喜ぶ顔が見たいから○○をしました」 善=○ 偽善=× 「みんなの喜ぶ顔をが見たいから△△をしました」 善=× 偽善=× ここまではOKですね。では次へ (本当はみんな悲しんでほしいけど) 「みんなの喜ぶ顔が見たいから○○をしました」 善=○ 偽善=○ (みんな悲しんでほしいけど) 「みんなの悲しむ顔が見たいから○○をしました」 善=○ 偽善=× (本当は社会に貢献したいからなんだけど) 「お礼を言ってもらいたいから○○をしました」 善=○ 偽善=○ (みんな悲しんでほしいけど) 「みんなの喜ぶ顔をが見たいから△△をしました」 善=× 偽善=× という感じで定義されているようですね。 善というのが行為そのものという定義であり、 偽善とは本心を偽って行う善という定義ならばです。 まあ「善」という言葉はもっと突き詰めると 非常に長くなりますし、定義が変われば 上記の内容も変わりますが・・・ 最後に 一般的に人の心模様は計り知れないですが wikiになかなかしゃれた文章があったのでどうぞ。 善と偽善の最大の違いはその「思い」の方向にある。善は善を向けられるもの、被善者の利益が最大になる ように思って行動するが、偽善は自分の利益を最大と する。 いかがでしょうか。ご参考程度にヽ(´ー`)/

  • 6izt
  • ベストアンサー率12% (25/204)
回答No.22

>周囲のほんの少しの人々(あるいはたった一人の相手でも良いと思いますが)に対して人間的な係わり合いをするように、日々ささやかに心がけていく。 そのような人で社会が満ちた時、期せずして「善」が達成されたと言えるのではないでしょうか。     ↑ こちらのほうが当然の事で、あえて「善」と位置づけなければならない、ということに「偽り」が生じるということでしょう。 私はボランティアに限っているとは言っていませんので。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.21

#10で回答した者です。 マナー違反になるかもしれませんが、批判目的ではありませんので横レスをお許しいただきたいと思います。 #19さん(=#20さん)にちょっと誤解があるように思うので、ひとこと言わせていただきたいのです。 どちらの場合も、それは人として当然のこと、ではないか、と私は思います。 それを、あえて「善」と位置づけなければならない、ということに「偽り」が生じるということでしょう。 その当然のことができる人とできない人は確かにいるでしょう。 しかし、個人のキャパシティの範囲でそれを行なうことが人としての道であって、表立ったボランティアや大上段に振りかぶって人間を救う、ことを目指す必要はない、ということです。 周囲のほんの少しの人々(あるいはたった一人の相手でも良いと思いますが)に対して人間的な係わり合いをするように、日々ささやかに心がけていく。 そのような人で社会が満ちた時、期せずして「善」が達成されたと言えるのではないでしょうか。 過度の負担を強いる善、あるいは引け目を感じながら受け取る善は本来の善ではなく、あくまで「個人の勝手」という範疇を出ないはずです。 その場合の善は、与えられる人よりもむしろ与える人にとって何らかの効果をもたらすものにすぎませんから、それはそれで価値はありますが、少なくとも「他者への善」と捉えると、その非論理性によって色々な問題が湧いてくることは間違いないでしょう。 ボランテイァが真の善になるためには、「される人」と全く同等に「する人」にとっても価値のあることだと、「する人」自身が納得できた場合に限られるでしょう。

  • 6izt
  • ベストアンサー率12% (25/204)
回答No.20

また、うろ覚えですが、聖書では人は生きているだけで罪びとであるので、その償いのために弱者を助けなければならないというのを聞いた事があります。罪滅ぼしのために弱者を助けてもluneiさん的には偽善になるんでしょうか?

  • 6izt
  • ベストアンサー率12% (25/204)
回答No.19

luneiさん的には、純粋に弱者を助けたいと思ったから助けた場合も偽善になるんでしょうか? 例えば、台風の被害にあって家財道具を全部流された時にボランティアの人から助けてもらったのがうれしかったので、後日、他の土地に台風の被害に遭われた人がいて、その人の困った気持ちがわかるのでその人を助けに行った場合も偽善になるんでしょうか。

noname#129541
noname#129541
回答No.18

前の質問のNo.11です。 前の質問にも書きましたが、 偽善でもいいじゃないですか。 たとえ理由があったとしても良いことは良いことなんですから。 「他人に喜んでもらう」事が目的でも 「良いことをしたい、という願いをかなえる」事が目的でも、 まったく違う目的で何かをした結果だれかに「善」や「偽善」と評価されたとしても、 良いことをすることは良いこと「善」です。 それに、質問者さんの偽善の定義 「理由ある善は、偽善」にしたがえば、偽善と善に差はありません。 いっぱんに「善」と呼ばれているひとたちも、 「良いことをしたい」という自分の思いをかなえるために 「善」を行っている場合が多いと思います。 「なんとなく、そうしたかった」という理由で 「善」を行う人もいると思います。

回答No.17

同じ「良いこと」をして 相手に「お礼を言ってもらうのが」嬉しいというのと 相手の「喜ぶ顔を見て」嬉しいというのとでは 厳密には違いがあります。 もっとも、お礼を言ってもらえるのは取りも直さず相手が喜んでいる証 であるからという理由で嬉しいのならば、その根底には 「相手の喜び」がある(はずだ) ということを確信しているわけですから結局この場合は 相手の「喜ぶ顔を見て」嬉しいというのと同じことになります。 ただ、「他者の喜びを我がことのように」 喜べるというのは尊いことには違いないのではないでしょうか? そういう人は 「他者の悲しみをも我がことのように」 悲しむでしょう。 他者の喜びを我がことのように喜べるからこそ他者を喜ばそうとする。 もちろん、そこは 「自分も喜べる」 わけですから自分のためでもあるでしょう。 悲しみであっても同じことです。 それは 「お礼を言ってもらいたい」 「感謝してもらいたい」 「いい人だと思ってもらいたい」 などという思惑とは決定的に次元が違うものです。 ですから「報われた感じがする」のは本人のつごうによるもので偽善と言い切ってもいいでしょう。 ただ、その行為が為されなかったときのプラスマイナスを考えて判断しているのが現実的ないきかたでしょう。ですから普段に、あまり突き詰めて「善か偽善か」を考え込まなくても宜しいと思います。 それよりも大事なのは 「おのれ自身に問う」ことです。 それを為すにせよ為さぬにせよ。 下のUrlは、ずっと以前に立てられた質問です。 ネームは変わっていますがNo.21は私が投稿したものです。 御参考の一端にしていただけると思います。 「偽善と優しさ」 http://personal.okwave.jp/kotaeru.php3?q=1245305

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