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偽善と優しさ
時々思うのですが、 上記の違いって何だと思われますか? 私は優しさっていうのは実は無くて、 自分は偽善者だと思っています。 良い事をすると自分の気分がいいですよね? それってつまり「=偽善」ではないかと感じるのです。 偽善と優しさについて、 定義づけが出来る方がいらっしゃれば、 ご意見をお聞きしたいと思います。 よろしくお願いします。
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御質問の趣旨と全く無関係なNo.12の投稿を大目に見ていただき感謝申し上げます。興味深い御意見が続々寄せられていますが各回答への御返事を拝見させていただき御質問者様の並々ならぬ知性を感じております。(大目に見ていただいたことへのゴマすりではありません!) さて横着者丸出しで、辞書を調べていただいたかたの背中におっかぶさる形になりますが 「優しい」=「恥ずかしい」 ということを御教えいただいて思わず考え込みました。確かに日常いかにも優しいことを行って気恥ずかしいという感情を抱くのは、よくあることですが同義語であるとは・・・ 「優しい(とは何であるかを知っている)」だから 「(優しいことを行えないことが)恥ずかしい」 のであろうか。つまり 「恥を知っていること」=「優しい」? >僕は優先座席に座るようにしています。 席を譲るのが当然だと思われるので、気が楽になりますよ。 これわかりますね~。私も自分の前に妊婦さんとか御年寄りが来たら次の駅で降りるふりして(すかさず割り込もうとする若造とかオッサンがいたら何気にぶつかったりして)黙って隣の車両から乗車し直したり・・・。何で、ここまでせにゃならんのか。 私も若い頃はご多分にもれず電車で席を譲るという行為に人並みに照れ臭さを感じているクチでしたが年齢が上がるにつれて親も年をとり体が弱り自分自身も病気をして長時間立っていることに耐えられないようになってからは御年寄り等が辛そうに立っているのを見ると恥ずかしいというより気の毒なという気持のほうが強くなりました。 思えば若い頃ほど想像力に乏しく無神経で残酷だった。年齢を重ねて人生経験が豊富になるに連れ、人の辛さを我が身に置き換えるようになってきた。置き換えるだけで何かできるとは限らないですけど・・・。それだけに60年も70年も生きてきて「ワイが」「ワテが」とガツガツしてる中高年見ると若造以上にムカついたりする。 「共感」ということばが挙がりましたが、それも結局、個人的経験に裏打ちされた域から出にくい。その個人的礎の諸々を超えて想像力を働かせることができる、これをこそ優れた能力、「優しさ」と呼ぶべきなのでしょうか。 個人のキャパシティを超えて他者に寄り添うということが凡人の到達困難な高みにあるとすれば 「自分は偽善を行っているのではないのか?」 という自己への問い質しは我々にも実行可能にして高度な精神活動ではないでしょうか。 少なくとも何が善であり真の優しさであるかという茫漠とした問いかけよりも手が届きやすいように思います。 気がついてないんですよね、大体が・・・。それをハッキリ指摘し合えば自覚に乏しい人は傷つくし角も立つ。しかし思い込みや自己満足に浸かっている人を「よしよし」と受け入れてあげるのが真の「優しさ」なのだろうか? 私個人は私のために良かれと思ってくれているなと感じられる限り、あまり結果に拘りません。やはり私ごときに良かれと思ってくれる、その気持自体が非常に有り難いと思うからです。そして自分も、かつてその気持を抱いた経験から、それがどのように素朴で温もりのあるものかを承知している。 先の投稿で私は「哲学的に追究していった結果の不純物ゼロの・・・」と述べました。詰る所「素朴にして温もりのあるもの」これに尽きるのかも知れません。発端とか結果とか個人的経験とか、そうした全てを取っ払った後に残るのは、もう「素朴にして温もりのある」これしかないようにも思います。 結果が芳しくなかったことを理由に素朴な温もりのある優しさをかけてくれた人を責めることができるなら、その責める人は、このような気持を自分で抱いたことがないのでしょう。 また不可抗力以外で相手に恨まれるような結果になった場合は「優しく」してやったつもりの自己を厳しく見詰め直さねばならないと思います。でなければ善の高みを登って行くに怠慢であるのではないでしようか。 なんか聖職者みたいな結論になっちゃった。 私は単なる温もりのなかにドップリゆるゆる溺れてるのが好きですぅ・・・根性ないもんで。
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- cherry_moon
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ほめられた気がするので調子に乗ってまた出てきました。 哲学カテゴリに初めて回答したんですけど、ここはすごいですね。 >これがつらい所で、そう思われていると思うのが >とても嫌で、私はその後必ず車両を移りますね。 全然質問と関係ないことですが、僕は優先座席に座るようにしています。 席を譲るのが当然だと思われるので、気が楽になりますよ。 >それも結果としては相手にとって悪なので、 >偽善という事ですね。 うーん。それは善でも悪でもなくてただのずれじゃないですかね。 他人の考えてることはわかるはずないので、ずれることもあるだろうなぁ って程度でいいんじゃないですかね。 #善悪って一つの側面での判断でしかなくて、100%善も悪もないと思ってます。 例えば歩きタバコしてる人とかは、自分で悪いことをしてる意識はないんだと思いますよ。 そういう人を見ると善とか悪じゃなくて、想像力の乏しい人なんだろうなぁって思いますね。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 >例えば歩きタバコしてる人とかは、~ こちらもとてもよく分かります。 私は想像力が乏しい、=無意識や知らないという事も ある意味悪だと考えます。 しかしcherry_moon様も仰るように、100%の善と悪って、難しいです。 多分自分と全く関わりのない事なら、無責任に善悪の区別を 付けられる様な気がします。 もっとも、必要の無い事なので やらないですが。 >僕は優先座席に座るようにしています。 実践的なご意見ですね。 重ねがさねご回答ありがとうございました。
- aluminizedman
- ベストアンサー率18% (61/335)
偽善●行動を起こせない者の言い訳、やっかみ、影口、中傷 優しさ●行動を起こした者・結果への評価、生産的行為 例えば 目の前に泣きじゃくる迷子がいる。 僕は何も考えず自然に手を貸すだろうな。 たとえ後から勘違いだと気付いたとしても 知ったこっちゃねえ。 これが性善説です。孟子だっけ。中国思想。 僕はウダウダ悩む前に行動するし。 他人が面と向かって堂々と言えない様な批判・影口に 耳を貸すほどヒマ人ではない。そんなへタレは完全無視。 なせなら僕は、自分の意志を持った人間だからです。 常にリスクを背負うのは行動を起こす人であって批評屋ではない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私はどちらかというと荀子の性悪説派なんですが・・・。 だって赤ちゃんとか子供って、力が無いと言っても、 滅茶苦茶自己中じゃないですか? aluminizedman様の仰る偽善というのは 批評屋であって非行動者、という事ですね。 「差別意識」という言葉をふと思い出しました。 差別されているものに対して「可哀想・・・」と 単に思ったりそれについて批判・議論したりするのは 偽善という事でしょうね。なるほど、と思います。 そしてaluminizedman様の行う行動の一連は 優しさから来ているという事ですね。 ありがとうございました。
- torauma
- ベストアンサー率20% (38/183)
>私は優しさっていうのは実は無くて、 >自分は偽善者だと思っています。 実を申し上げますと、このように言い切れる方が羨ましく感じたのです。 何しろ時折、”他人の人生を勝手にポアしてあげる”優しさというのが社会を賑わせます。 もしかしたら自分もそういう意味で優しいやつなのかもしれないと、時折思います。 心理学的障害がある自分なのかもしれません。 優しい=善、自分は優しい=自分は善である。 こういう常識が蔓延した頃から”本当にそうなのか?”って疑問をもちますよね。 それで”哲学的”な事を言い出すやつと思われ始める。 優しさは弱者の自己保身・自己満足の方便だとか。 ・・・・で色々考えて、実践に活路を見出しました。 つまり偽善的・利他的行為。 互いにこうなれば1+1=3以上になる! と考えた。 最も、私の場合は他者への期待がハッキリしていたせいなのか馬鹿に思われたようです。 ”おまえと心中する気は無い”とうことですね。 私は”自分に優しい”感情をもつことができるようになって攻撃的性格が少し直ったようです。 その分他人に容認され易くなりました。 本性は相変わらずなんですけどね。 そうした意味では優しさと偽善は同一かもしませんよ。 慰めや励ましという意味で。 なんだか人文事例で済みません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 逸れますが、 >”他人の人生を勝手にポアしてあげる” 何度聞いても間抜けな響きですよね。 確かに、自分に優しい人間は他人にも優しいですね。 それは「余裕がある」からだと思っています。 結果として偽善となった、というご意見ですね。 なるほど、ありがとうございました。
- wadatumi2005
- ベストアンサー率0% (0/10)
「いいことをすると自分の気持ちがいい」のは自己満足で偽善とは異なるのではないでしょうか? 自己満足は計算の有無に関わらず自分が満足する行動で偽善は自分の利益を計算した上の行動。自己満足に打算が加わると偽善になるような気がします。 優しさと偽善に定義づけをするなら前者が「打算のない自己満足」で後者が「打算つきの自己満足」ですかね。わかりにくい文章ですいません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 wadatumi2005様の仰る「打算」とは、=自分の利益や損得 という意味ですね? 違っていたらすみません。 >「打算のない自己満足」で後者が「打算つきの自己満足」 仰る事とてもよく分かります。 でも「打算」自体「自己満足」ととても似通った部分を 含めているとも感じるのですが・・・。
- kentikuka
- ベストアンサー率25% (1/4)
その通りだと思います。 たとえば電車で老人に席をゆずるのは、 気まずい思いをして、降りる駅まで座っているか ゆずって、気まずい思いをするのをさけるか ということを天秤にかけているのだと思います。 つまり自分本位の選択です。 100%人のためとかいったものは存在しないと 私は思います。 良い行いといったものでも自分のためという 要素を含んでいる限り 偽善です。 たとえば車にひかれそうになっている子供がいて、 助けなかったら自己嫌悪に陥る人が 多いと思います。 自己嫌悪に自分が陥らないために助けるのです。 100%他人のための行為があるなら 私は知りたいです。 そう思っていれば老人に席を譲って お礼がなかったとしてもなにも思いません。
お礼
ご回答ありがとうございました。 仰る事分かります。 でも、kentikuka様がそう断言できる理由は何でしょう? >そう思っていれば老人に席を譲って >お礼がなかったとしてもなにも思いません。 お礼を期待する行為が嫌だからでしょうか。 この世の中、「優しさ」と共に「お礼」を結びつける行為が 蔓延し過ぎていると私は感じます。 同じ様な考えのご意見を聞けて嬉しいです。 ありがとうございました。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
>sirayukihimeさんの逆鱗に触れるかもしれませんが。 逆鱗?何で?アタシ頭ニブ子ちゃんなんで、よくわかんなぁ~い。 >どちらかと言うと、国語や心理学ではなく、考え方は数学に近いかと、私は思います。 そうですか。知りませんでした。 >デカルトの「我思うゆえに我あり」は、1=1に非常に近いと私は思いますし かねがね誰かに聞きたいと思っていたのですが御詳しいようですので、お尋ねしたいですぅ。 「我思う故に我有り」なのか「我思う我有り」なのか、どっちなのでしょう。 「コギト エルゴ すむ」って自分で訳せないので「故に」を含んでるのか含んでないのか、それが問題だ!って勝手に思ってるんですが。 哲学って、ことばの定義に厳格なんだそうですが、これ考えると、けっこうイイカゲンだなあって思えます。 >1というのは、物(等)が一つあると、数学を知っている人が、すべて知っていて、1という物は常に1である。となんの疑いもなく100%言える事ですし。 あらぁ、回答文のテキストボックスの上の囲みに「哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。」とあるので哲学って正解の出ない疑問のための学問だと理解していたつもりだったので国語とか宗教は兄弟分だと思っておりました。だから「人生哲学」も哲学の一分野ではなかろうかと。王道かどうかは知りませんが。 あっ、「回答者同士での論争にならないようお願いいたします。」 いや~ン論争じゃありません、ありませんてば、ありませんったら違うちゅうんじゃ!削除するならしろってんだ。 >sirayukihimeさんのような、哲学を 勉強している(?)方こそが ノンノン勉強なんか(専門書読んだり大学で講義受けたりってことでしょ?)ぜんっぜん!!(キッパリ!)しておりゃしませんです。お恥ずかしい。だから或るえら~いおかたに「幼児」って呼ばれましたのよ、おほほ・・・。(ちっくしょう) ああっ「回答される際は、他の方への意見を載せるのではなく、質問者への回答やアドバイスをご投稿ください。」 有名無実とは言え反省・・・。 あああっ「補足要求」にしちまったよ。誰が補足するんだよ~御質問者様、イケナイ私を許して。
お礼
こんにちは。 下にも書きましたが、 >私はあからさまな批評や悪口を書かなければいいと思うのが >マイルールです。 と考えているので気にしてないです。 一応、哲学論は主旨でないのでコメントは控えますね。 ではでは。
- happy_books
- ベストアンサー率28% (131/460)
sirayukihimeさんの逆鱗に触れるかもしれませんが。^^ 最後まで読んで頂ければ嬉しいです。 哲学というのは、たぶん科学以上に、その概念が 浸透していないものだと、思います。 どちらかと言うと、国語や心理学ではなく、考え方は 数学に近いかと、私は思います。 デカルトの「我思うゆえに我あり」は、1=1に非常に 近いと私は思いますし。 1というのは、物(等)が一つあると、数学を知っている人 が、すべて知っていて、1という物は常に1である。と なんの疑いもなく100%言える事ですし。 たまに哲学のカテゴリーの質問も見るのですが、 質問自体がよく分からないものも多いですし、回答者も 語意と間違えたり、自己流の人生哲学だったりと、様々 です。(私もその一人ですが。^^;) たぶん哲学的にというのなら、言葉ならその語意の 真の意味を抽出し、また、周りの情報や環境に左右され ない場合、すべての人が納得できるものを言うのだと 私は思っています。定義された1のように。 しかし、この哲学な答えは、考えれば考えるほど、 人の手の届かないものとなってしまうのですよ。 実例を挙げると、急に色あせてしまう事も多いですし、 また、答えが出ない事も多い(と思いますし)です。 そこまで、ここで質問もんされる方は望んでいるかと 言えば、望んでいないわけで、なにか考えるきっかけを 与えられればいいとも、思っています。 しかし、たまには、sirayukihimeさんのような、哲学を 勉強している(?)方こそが、私には貴重な再び考える きっかけになるので「哲学的な考え」を、いやがらず たまには、ご披露願えればとおもっています。 乱文で、普通の返信なので、その辺もご容赦ねがいたい とも思ってます。 マイルールで、追加書き込み・返信と他人の批判はしない と、決めていたんですが、長く質問に答えていると、 親分風を背中に感じるようになりました。^^ 初志貫徹、これからはまた、最初の答えに全力を尽く そうかと、思います。^^
お礼
マイルールですか。 私はあからさまな批評や悪口を書かなければいいと思うのが マイルールです。 >なにか考えるきっかけを >与えられればいいとも、思っています。 仰るとおり、あからさまな答はあまり期待していません。 題材が題材だけに・・・。 でも色々読んでいくうちに考えが深まっていっている様な気がします。 happy_books様を含め皆さんのお蔭です。 ありがとうございます。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
>貧乏人が無理をして、他人のために施しをするのを偽善と言います。 金持ちが残飯を施すのを優しさと言います。 貴方の御質問のようなことは、この哲学カテのなかにおいても、よく目にするところですのでパスするつもりでいたのですが上記のような御意見に驚いて思わず参加してしまいました。 「偽善」とは読んで字の通りニセモノの善です。 「優しさ」とは、これは他のかたの質問でも問題提起されておりましたように定義が困難なほど幅の広い意味を持つことばです。字面を分解してみれば「ニンベン=人」プラス「憂=憂う」ですね。人が憂えているのか、人を憂うのか。 心理学的にと言いますか或いは生物学的にと言うべきでしょうかヒトの心の動きというものは分解していくと、そもそもの動機が結局のところ生き延びようとする欲求、苦しみを回避しようとする欲求から端を発していることに気づかされます。 たとえば大災害が起こったときに助け合おうとする行為も大自然の脅威に立ち向かうのに一人では弱過ぎるからでもありますし、何らかの不幸を経験した人が同じような目に会っている人に同情心を抱くのも自分を、その立場に置き換えやすいからですし。 私個人の考えとしては「究極の優しさ」とは自分が犠牲になることを承知のうえで相手を助けようとすることだとしておりますが、これも、たとえば実際の例をとって考えるに自分にとって掛け替えのない誰かを必要とあらば命に代えても助けようとする、このことの底には、その相手を失うことが自分の命を失うよりも辛いことだから、という自己都合が含まれている。峻別していけば、このようにヒトの心の動きというものは自己利益という立場から、なかなか逃れられるものではない。自分の命と引き換えに他者の命を救ったとて心の底で来世の利益を願っていたなら、形而上的には、だいぶ値打ちが下がるような気がします。 >あからさまな偽善はわかりやすいですが、優しさが 誰のために行われているのかは、やはり他者に依存するとおもいますよー。 この他者にしたところで相手が本当の善意、優しさをもって接してくれたと必ず見極められるのかどうか。まして発端の心情と結果が見合ったものになるのかどうか。 発端が真に善意であるなら結果が意図しない結果であっても善意に違いないのだから、その価値に揺るぎはないとできるのか。 発端が偽善であったにも拘らず結果がすばらしいものになったなら、偽善も価値あるものになるのか。 ことほどさように難しい。 そしてヒトというものが、へどを吐きたくなるほどにエゴ、自己利益を追求するにやまない、ただの動物だということを思い知らされます。 だからと言ってヤケクソになるわけにもいかない。 >私の中では境界が曖昧で、相手の為を思っていても 結果として自分に還って来た時に、罪悪感を感じてしまいます。 いやいや罪悪感を感じる必要はないと思いますよ。貴方が誰かに何かしてもらったことで良い結果になり、或いはならなくても相手に何かしらの余得が返って行ったからと言って相手に罪悪感を持ってほしいなどと思いますか? 哲学的に追究していった結果に残る不純物ゼロの善など我々凡人には、まず手の届かないものです。それを自覚することが、さし当たって大事なことではないでしょうか。 ボランティア活動においても私の周辺ではキレイごとばかり並べて勘違いしてるんじゃないかと思うような人がいるんですが「人の役に立てる、その余裕がある自分」ということに感謝できるなら「誰かのために」「してやった」「感謝が足りない」などと、うぬぼれることはありません。また心底こうした境地に至れば「恥ずかしい」という感情もなくなるはずです。 ですから「真なる善」に届くことが困難な我々にできることは、そうした高みがある、しかし、それに至るに難しい自分を自覚して「善」なるものに近づく努力をする。凡人には、これが限界です。 ですから >相手も気分のいい自己満足がいっぱいある世界になればいいなぁと思います。 こんなところが精一杯でしょう。 いいことした、気分いい。その気分の良さに感謝!です。そしたら恩に着せることもない。 哲学では発端がどうであるとか結果がどうであるとかいう不純物を一切合財廃したところで「善」とは何か「偽善」とは、ということを追究するもののようですから或いは御質問のことは、ここ哲学カテゴリーに厳密な意味ではズレているかも知れません。 こうした御質問は他でも、たくさん立てられていますよ。過去スレを探して見られたら良いと思います。
お礼
丁寧にご回答ありがとうございます。 仰っている事、よく分かります。 >哲学的に追究していった結果に残る >不純物ゼロの善など我々凡人には、 >まず手の届かないものです。 このご意見もなるほど と思いました。 >御質問のことは、ここ哲学カテゴリーに >厳密な意味ではズレているかも知れません 人間関係のカテが多分いいのでしょうが、 心理学かこちらか迷いました。 一般的な回答はある程度予想していたので、 新しい視点や見解を期待してこちらに 寄せて頂いた次第です。 過去スレも検索してみます。 ありがとうございました。
- torauma
- ベストアンサー率20% (38/183)
貧乏人が無理をして、他人のために施しをするのを偽善と言います。 金持ちが残飯を施すのを優しさと言います。 より多く施すのは貧乏人です。 だから役人は高額所得者から税金を余計にとります。 そこで金持ちは益々、貧乏人から搾取します。 そこで国は、鬼の様に”円やドル”を刷りまくって世界中にばら撒きます。 金持ちは益々、鬼の様に貧乏人から金を巻き上げます。 お頭の回る者は、金餅に協力して貧乏人から金を巻き上げる手段をあの手この手と考えます。 貧乏人は喜んで金を使います。 世の中優しい偽善者ばかりを見ていれば、悪い物は無いように思えます。 定義ずけをさせていただければ”なぐさめ”かと。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やや厭世的な感がしますが、少し新しいご意見ですね。 うれしいです。 話は少し違いますが、確かにお金のある人はケチですね。 >定義ずけをさせていただければ”なぐさめ”かと。 こちらのご意見なのですが、 偽善、優しさ共に「なぐさめ」という定義でしょうか。 最終的に両者には違いは無いという結論になりますが、 それでよろしいですか?
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
昔なんかで物語を読みました。 パン屋で働く女性がいて、そこにいつも前の日のパンを買いに来る絵描きがいました。 前の日に売れ残ったパンなので、水分も抜けており、できたてのパンと比べておいしくないので、安く売っており、そのパンを買っていたのでした。 よく来るその絵描きにいつしか女性は淡い恋心をいだきました。 彼がパンを買いにくるたびうきうきして、ちょっと話をしただけでとても幸せな気分になれました。 恋する女性はだんだん見かけを気にするようになり、なんとか彼の気を引こうといろいろ着飾ったりしました。 そんなある日 その女性は彼が前日のパンを買いにきたとき、そっとその中にたっぷりバターを染み込ませました。 しばらくしてその絵描きは真っ赤な顔をして怒鳴りこんできました。 「どうしてくれるんだ 今度の作品は自信があったのに これじゃあコンテストにもう間に合わない なんてことをしてくれたんだ!!!!」 そうなんです。 彼はパンを食べていたわけじゃあないんです。 パンを消しゴムとして使っていたわけです。 彼女の恋は終わり、元の女性に戻りましたとさ。 彼女にしてみれば、下心もありましたが、親切心でやったことであり、彼がほんの少し幸せになってくれればと思ってやった他人を思いやる気持ちからでした。 でも、彼女のその親切心は、彼のコンテストへ出品することを阻んでしまいました。 善が善ではなくなった つまり善のニセモノ。つまり偽善。 ということで、こちらがよかれと思っても、結果が悪になればそれは悪というより偽善だってことじゃないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >こちらがよかれと思っても、 >結果が悪になればそれは悪というより >偽善だってことじゃないでしょうか 親切の押し売り、に近い様なイメージですね。 電車の例をあげると良く聞く話で 席をゆずろうと思って「私はそんなに若くない」 と拒絶されることがあるそうですが、 そういうのに近いでしょうか。 それも結果としては相手にとって悪なので、 偽善という事ですね。
お礼
再度丁寧なご回答ありがとうございます。 質問を挙げさせて頂いてから、 ずっと標題の件について考えております。 そんな中昨晩久しぶりに母と電話で会話し、 30を迎えた私に母は 「人間30にもなればとうが立ってくるから、あなたも気を付けなさい」 と、諭されました。 それからsirayukihime様のご意見を読み、 >「共感」ということばが挙がりましたが、 >それも結局、個人的経験に裏打ちされた域から出にくい。 >その個人的礎の諸々を超えて想像力を働かせることができる、 >これをこそ優れた能力、「優しさ」と呼ぶべきなのでしょうか。 これを反芻して思い当たりました。 私は下のお礼文で「自分の限界を知っている」と 書きましたが、そう言い切れて尚且つ恥を感じ続ける自分は まさに「想像力が乏しく」、「怠慢」であると。 >私は単なる温もりのなかにドップリゆるゆる溺れてるのが好きですぅ・・・根性ないもんで。 いえいえ。人が環境を選ぶのだと思います。 sirayukihime様が温もりの中にいらっしゃるのであれば、 それはsirayukihime様のお人柄でしょう。 考えが自分の中で大きく前進した様な気がします。 ありがとうございます。