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偽善と優しさ

時々思うのですが、 上記の違いって何だと思われますか? 私は優しさっていうのは実は無くて、 自分は偽善者だと思っています。 良い事をすると自分の気分がいいですよね? それってつまり「=偽善」ではないかと感じるのです。 偽善と優しさについて、 定義づけが出来る方がいらっしゃれば、 ご意見をお聞きしたいと思います。 よろしくお願いします。

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回答No.21

御質問の趣旨と全く無関係なNo.12の投稿を大目に見ていただき感謝申し上げます。興味深い御意見が続々寄せられていますが各回答への御返事を拝見させていただき御質問者様の並々ならぬ知性を感じております。(大目に見ていただいたことへのゴマすりではありません!) さて横着者丸出しで、辞書を調べていただいたかたの背中におっかぶさる形になりますが 「優しい」=「恥ずかしい」 ということを御教えいただいて思わず考え込みました。確かに日常いかにも優しいことを行って気恥ずかしいという感情を抱くのは、よくあることですが同義語であるとは・・・ 「優しい(とは何であるかを知っている)」だから 「(優しいことを行えないことが)恥ずかしい」 のであろうか。つまり 「恥を知っていること」=「優しい」? >僕は優先座席に座るようにしています。 席を譲るのが当然だと思われるので、気が楽になりますよ。 これわかりますね~。私も自分の前に妊婦さんとか御年寄りが来たら次の駅で降りるふりして(すかさず割り込もうとする若造とかオッサンがいたら何気にぶつかったりして)黙って隣の車両から乗車し直したり・・・。何で、ここまでせにゃならんのか。 私も若い頃はご多分にもれず電車で席を譲るという行為に人並みに照れ臭さを感じているクチでしたが年齢が上がるにつれて親も年をとり体が弱り自分自身も病気をして長時間立っていることに耐えられないようになってからは御年寄り等が辛そうに立っているのを見ると恥ずかしいというより気の毒なという気持のほうが強くなりました。 思えば若い頃ほど想像力に乏しく無神経で残酷だった。年齢を重ねて人生経験が豊富になるに連れ、人の辛さを我が身に置き換えるようになってきた。置き換えるだけで何かできるとは限らないですけど・・・。それだけに60年も70年も生きてきて「ワイが」「ワテが」とガツガツしてる中高年見ると若造以上にムカついたりする。 「共感」ということばが挙がりましたが、それも結局、個人的経験に裏打ちされた域から出にくい。その個人的礎の諸々を超えて想像力を働かせることができる、これをこそ優れた能力、「優しさ」と呼ぶべきなのでしょうか。 個人のキャパシティを超えて他者に寄り添うということが凡人の到達困難な高みにあるとすれば 「自分は偽善を行っているのではないのか?」 という自己への問い質しは我々にも実行可能にして高度な精神活動ではないでしょうか。 少なくとも何が善であり真の優しさであるかという茫漠とした問いかけよりも手が届きやすいように思います。 気がついてないんですよね、大体が・・・。それをハッキリ指摘し合えば自覚に乏しい人は傷つくし角も立つ。しかし思い込みや自己満足に浸かっている人を「よしよし」と受け入れてあげるのが真の「優しさ」なのだろうか? 私個人は私のために良かれと思ってくれているなと感じられる限り、あまり結果に拘りません。やはり私ごときに良かれと思ってくれる、その気持自体が非常に有り難いと思うからです。そして自分も、かつてその気持を抱いた経験から、それがどのように素朴で温もりのあるものかを承知している。 先の投稿で私は「哲学的に追究していった結果の不純物ゼロの・・・」と述べました。詰る所「素朴にして温もりのあるもの」これに尽きるのかも知れません。発端とか結果とか個人的経験とか、そうした全てを取っ払った後に残るのは、もう「素朴にして温もりのある」これしかないようにも思います。 結果が芳しくなかったことを理由に素朴な温もりのある優しさをかけてくれた人を責めることができるなら、その責める人は、このような気持を自分で抱いたことがないのでしょう。 また不可抗力以外で相手に恨まれるような結果になった場合は「優しく」してやったつもりの自己を厳しく見詰め直さねばならないと思います。でなければ善の高みを登って行くに怠慢であるのではないでしようか。 なんか聖職者みたいな結論になっちゃった。 私は単なる温もりのなかにドップリゆるゆる溺れてるのが好きですぅ・・・根性ないもんで。

kaiu
質問者

お礼

再度丁寧なご回答ありがとうございます。 質問を挙げさせて頂いてから、 ずっと標題の件について考えております。 そんな中昨晩久しぶりに母と電話で会話し、 30を迎えた私に母は 「人間30にもなればとうが立ってくるから、あなたも気を付けなさい」 と、諭されました。 それからsirayukihime様のご意見を読み、 >「共感」ということばが挙がりましたが、 >それも結局、個人的経験に裏打ちされた域から出にくい。 >その個人的礎の諸々を超えて想像力を働かせることができる、 >これをこそ優れた能力、「優しさ」と呼ぶべきなのでしょうか。 これを反芻して思い当たりました。 私は下のお礼文で「自分の限界を知っている」と 書きましたが、そう言い切れて尚且つ恥を感じ続ける自分は まさに「想像力が乏しく」、「怠慢」であると。 >私は単なる温もりのなかにドップリゆるゆる溺れてるのが好きですぅ・・・根性ないもんで。 いえいえ。人が環境を選ぶのだと思います。 sirayukihime様が温もりの中にいらっしゃるのであれば、 それはsirayukihime様のお人柄でしょう。   考えが自分の中で大きく前進した様な気がします。 ありがとうございます。

その他の回答 (27)

回答No.7

>自分が勝手にやった事に対して優しさと思われて、そんなつもりじゃなかったのに、と罪悪感を感じた事はありませんか? 私は、バイトで塾講師をしていますので、受験の後などに親御さんから、お礼として様々なものをいただくことが多いのですが、そういう時に申し訳ないなと思うことはありますね。 教えるということは、相手の為を思っての行為であるのですが、それを通して自分は給料ももらうという形が成り立ちますから、自分のためでもあり、相手の為でもあるということになりますね。だから、白黒はっきりさせるのは、難しいことなのかもしれませんね。

kaiu
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 >バイトで塾講師をしていますので 確かにそうですね。 こちらは仕事ですし、心苦しい思いをなさっている事 でしょうね。 優しさと思われると、自分がその「優しさ」について 責任を持たなければならない様な気にもなってしまいます。 いうなれば「打算」です。 その事についても、罪悪感を持ってしまう 理由の一つです。

回答No.6

 以前、私は、電話である女性にこう言いました。  「忙しかったら、こなくても大丈夫だよ。」  私は、彼女に負担をかけたくありませんでした。  彼女は、「お前は来るな」とイヤミを言ってると思いました。  以前に、職場で、と或る仕事の担当として別の同僚を推薦しました。  「この仕事は○○さんが良いと思いますよ。」  私は、彼なら得意な仕事だし、これでポイントを稼げるだろうと思いました。  彼は、面倒な仕事を丸投げにされたと怒り心頭な様子でした。  正直に言って私にも、偽善と、優しさの区別がよくつきません。  しかし或る程度定義しようとするならば、それはこれまでの経験から恐らく 「誰かが利他的な行動を取った時、それが利己益を得るための一時的な犠牲であるならば偽善、そうではないならば優しさ。ただしその判断は基本的に、見かけや気分などと言ったとても標準化できないほど千差万別な主観によってなされる為、論理的な基準を設ける事は不可能に近い。」  ではないかと思います。  ・・・幾分グチの入った回答に成ってしまい、すみませんでした。

kaiu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「忙しかったら、こなくても大丈夫だよ。」~ こういうこと、ままありますよね。 とてもよく分かります。 言い方にもよるのでしょうが、 察してくれない人の方が世の中多いので、 察してくれないのが当たり前、だと個人的には 思うことにしています。 >論理的な基準を設ける事は不可能に近い そうですか。 やはり一般論上の定義しかできないものですね。

回答No.5

世の中ぜんぶ偽善じゃ~♪とかいた、happy_booksです。 それは言い過ぎだなーと、お風呂で思い改めて定義を。 偽善:人に親切にする行為。ただし、打算がある。     善意:素直な気持ちで生まれたもの。打算はない。 マーク・トゥエインでは、無意識でも打算があると 言う事になっていますが、一般常識から考える場合は、 明らかな打算、損得感情があるなし。 でいいんじゃないですかねー?

kaiu
質問者

お礼

お風呂で思い改めて頂いてありがとうございます。 世の中ぜんぶ偽善、なぜそれがいい過ぎに なるのでしょう。happy_books様は自分の行いは 自己満足と仰っていましたが、違うのでしょうか。 >素直な気持ちで生まれたもの 素直な気持ちとは一体なんでしょう。 「=同情」の様なものですか? >無意識でも打算がある 潜在意識レベルの話ですね。 仰る意味、よく分かります。 >明らかな打算、損得感情があるなし。 こちらは分かりやすいですね。 それ以外は善意=優しさという解釈で よろしいですか。

回答No.4

>では例えばお年寄りに席を譲るのは >自分自身少し恥ずかしいのですが、 >これもニュアンスは違えど >やはり偽善という事になりますか。 お年寄りが立ってるのを見るのがとつらいからですよね。 それが恥ずかしいよりも大きいから席を譲るんだと思います。 周りから認められたいと思ってやる行動ではないので、偽善とは思わないですね。 これは自分が席を譲る当事者だった場合ですね。 >純粋な優しさは存在しないのでしょうかね。 逆に自分が目撃者だった場合は、譲った人を優しい人だなぁって思いますね。 おそらく譲った人の自己満足だと思いますが、第三者的には優しさに見えます。 当事者同士がお互いに幸せになるのを第三者は純粋な優しさと判断するってところでどうですか?

kaiu
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございます。 >逆に自分が目撃者だった場合は、 >譲った人を優しい人だなぁって思いますね。 これがつらい所で、そう思われていると思うのが とても嫌で、私はその後必ず車両を移りますね。 >当事者同士がお互いに幸せになるのを第三者は純粋な >優しさと判断するってところでどうですか? cherry_moon様のご意見は読んでいて暖かくなります。 ありがとうございました。

回答No.3

私がここで、質問に答えているのは、偽善で自己 満足です。 自己満足が感謝され、たまにそれにポイントを くれる人もいます。 ガン解析のUDってソフトを毎日動かしています。 それほど負担にはならないし、自己満足も得られます。 たまに、UDの掲示板に書き込んでは、一人悦にはい っています。 募金も献血もします。 心の中で、俺のお金で豊かになれよ、と思います。 俺の血で誰かが救われると思うと、少し英雄的な 気分になれます。 それが、たった10円・100円で買えるとは、お得感 満載です。 ケーキだった、120円はしますよ。 ドナーカードも持っています。 ドナーカードはカードに6,7の○を書くだけで、 社会的に優越感浸れます。  私は、私がしたい事を、私の好きなようにしてる だけです。私が満足するために。 でも、何を誤解しているのか、それを優しいと言う人も います。 偽善か優しさかは、自己にあるのではなく、他者の中に あるのではないでしょうか? マーク・トゥエインの「人間とは何か」を読むと、 偽善アレルギーが悪化するかもしれません。(笑 あからさまな偽善はわかりやすいですが、優しさが 誰のために行われているのかは、やはり他者に依存すると おもいますよー。

kaiu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 分かりやすい回答で同意できる部分も 沢山ありました。 >偽善か優しさかは、自己にあるのではなく、 >他者の中にあるのではないでしょうか? そうですね。相手が勝手に優しさと解釈するわけです。 そして優しさとは一般的には良い事なので、 当然のごとくそれを他者(当人)に当てはめるわけです。 >偽善アレルギー まさに私はそれかも知れませんね。 本も機会があれば読んでみたいですね。 だいたい皆様は 自分のした良い行いは自己満足、 結果として評価するのは他人。 そしてそれと自分とは関係ないと言う事で 一致しているようですね。 ありがとうございました。

回答No.2

私の中での定義は、最初の目的が相手の為か自分の為かの違いですね。 相手の為を思って行う行為を「優しさ」 自分の為を思って行う行為を「偽善」 という認識ですね。 >良い事をすると自分の気分がいいですよね? 最初からいい気持ちになろうとしたわけではなく、結果としていい気持ちになるのであって、それを目的にしているわけではないので「偽善」ではないと思います。ただ自分がいい気分を味わおうと思っているのだったら、それは「偽善」だと思います。

kaiu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >私の中での定義は、最初の目的が相手の為か自分の為かの違いですね。 threelions7様は明確に双方を分けられるのですね。 私の中では境界が曖昧で、相手の為を思っていても 結果として自分に還って来た時に、罪悪感を感じてしまいます。 それで、自分の優しさは偽善と考える事にしました。 threelions7様も自分が勝手にやった事に対して 優しさと思われて、そんなつもりじゃなかったのに、と 罪悪感を感じた事はありませんか? 「結果より当初の目的」というご意見ですね。 ありがとうございました。

回答No.1

以下は哲学について何も知らない僕の中の定義ですが、、、 その行為によって自分がどう見られるかに主眼をおいたものを 偽善だと思っています。 >良い事をすると自分の気分がいいですよね? こういうのは自己満足と呼んでますね。 相手も気分のいい自己満足がいっぱいある世界になればいいなぁと思います。

kaiu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >その行為によって自分がどう見られるかに主眼を >おいたものを偽善だと思っています。 では例えばお年寄りに席を譲るのは 自分自身少し恥ずかしいのですが、 これもニュアンスは違えど やはり偽善という事になりますか。 純粋な優しさは存在しないのでしょうかね。 >相手も気分のいい自己満足がいっぱいある世界に >なればいいなぁと思います。 私も本当にそう思っています。 相手が幸せだと自分も何となく幸せですよね。 いつもそう願っています。

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