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小田原評定ではどのようなことが話し合わされたのでしょうか?

世に小田原評定というものがあります。 どういう内容が話合われ、どれくらい時間がかかったのか教えてください。 また長時間時間がかかった原因を教えてください。 もしかしたら、時間稼ぎという策術だったのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • rey-aw
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回答No.2

豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた時、 これを面白くない「徳川、伊達、北条」は同盟を組みました。 これで、戦力は秀吉と互角になり、形勢は時の運となりました。 ここで秀吉は「家康」から崩しにかかります。 あの手この手で抱き込んだのです。 これで「北条、伊達」のみの戦いになります。 しかし、更に分断を狙います。 北条攻めの時、伊達に手伝い戦の兵を差し向けるよう命を下します。 北条方は、真田との領土争いをとがめられた事に対し、「北条は関東管領を追放し、関東八州は北条の物である」と、惣無事令を無視。 一気に兵糧をかき集め、 難攻不落の小田原城で決戦を目指します。 今まで無敗の戦法ですから反対者は出なかったようです。 秀吉は、全国から兵をかき集め、沼津へ兵糧を次々送り込んで「包囲」しました。 無敗の城攻めで決戦を狙う相手の 「手をもろに潰す」事になり、相手は 「手詰まり」「自殺行為の城外戦」以外になくなります。 ここで「決戦」の場合、勝つにしろ負けるにしろ、 もし兵力を消耗したら、「徳川、伊達、北条」の兵力より劣ってしまいます。更に「織田信雄」も健在でしたから、「小牧、長久手の戦い」のような同盟戦が予想されたのです。 計算では相当危うい「岐路」にさしかかっていた訳です。 この全てを潰したのがこの 「どんちゃん騒ぎで遊びほうけた」3ヶ月です。 北条の策が次々裏目に出る中、伊達の裏切りに遭い、 最新の石垣式の城が森の裏に隠れて建造され、 「1晩で森を切り倒して目の前に現れました。」 意見は家臣と食い違い、「あれは内通して助かろうとしている」などの疑心暗鬼の中、 北条氏直は、息子の力づくの説得で遂に開城させられたのです。

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回答No.1

豊臣秀吉に包囲された北条氏が、秀吉に恭順して家名を残すか小田原城に拠ってあくまでも抗戦するかで意見が二分しました。 100日くらいかかっても結論が出ず、秀吉に攻められ北条氏は滅亡します。 時間稼ぎではないと思います。 時間稼ぎしたところで、援軍の手配があったわけでなく、いたづらに士気を弱め兵糧を消費するだけですから。 「小田原評定 北条氏」などで検索すれば、記事がいろいろ出てくると思います。

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