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国富論における共感・同情・sympathyの不在について
大学の社会思想の講義において教授が「国富論において市場経済を論じる時にsympathyのことに触れない、言及しないのは何故か?道徳感情論において人間はsympathificな存在だとあれだけ言っておきながら…」と言っていたのですがそれは何故でしょうか? どなたか手解きしていただけると幸いです
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経済「史」は素人でまったく自信がありませんが、 まずは、おそらく数理経済学が全盛になったことと無関係ではないと思います。いわゆる共感がない利己的なアクターからなる経済システムのほうが、一般均衡の解析がはるかに簡単なのです。 もう一つの事情は、これもまた経済学の歴史と関係すると思いますけど、やはり「市場」のプレゼンスでしょうね。社会にはいろいろな人間同士の相互作用がありますけど、とりわけ市場は利己的な人間同士の付き合いであると理解するとうまくいくような場面が支配的だと思います。 市場以外の応用問題に経済学が盛んに用いられるようになってきているのは、ゲーム理論などの発達や Gary Becker などの活躍などによってであり、それほど昔のことではないと理解しています。 したがって、最先端の経済学では、少しずつですが、共感の問題も扱われるようになって来ています。
その他の回答 (1)
道徳感情論の冒頭と国富論を比較すると、当然の謎ですね。 道徳感情論では、例えば、夫婦の愛に付いて、何も求めず愛することが最高だが、生活の安定のために、愛し合うことも、次善の方法だ、と肯定しています。 国富論では、この次善の方法として、人間のシンパティーとか慈愛心ではなく、「利己心」に訴えることで、経済的秩序の成立が可能であると、説明しています。 以上、素人ですので、ご参考までに なお、原典を確認していませんので、文章の表現は少し違うと思います。
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回答ありがとうございます。そこをスタートにもう少し自分でも調べてみます。
お礼
回答ありがとうございます。私も社会思想は大学の講義を受けているだけなので専門的なことがわからないのですが、調べてみると市場経済が大きく関わっているようですね。奥が深いですねぇ