- 締切済み
心理学観点の祈りについて
心理学勉強中の未熟者です。 今度の研究発表に、心理学観点の祈りについてを発表するんですが、資料など、参考文献を紹介して頂きたいというのが一つと。 インターネットを使って、独自に調べようと思っています。さまざまな視点から教えて頂きたいです。 心理学専門の方以外でも、ご意見よろしくお願いします。なにぶん、祈りの知識はゼロで、出発の段階なので、どんな小さな知識でも欲しいところです。 理論的に、論理的にではなくても結構なので、気軽によろしくお願いします。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
- hikaricom
- ベストアンサー率25% (195/772)
心理学を勉強されているとのことですが、一般教養としてでしょうか? それともカウンセラーとしてでしょうか?心理学という曖昧模糊とした分野には落とし穴があることも承知して、選択されることをアドバイスします。 恐ろしく長い年月を掛けて、ようやくヒステリーの原因を突き止め改善の糸口を発見した!という著名なカウンセラーの努力とは対象的に、単にその原因を抑圧的な環境と定義付け、患者を安心できる環境に生活させることで問題を早々に改善してしまったという一般の報告など対比すると、必ずしも象牙の塔に長年こもって勉学したからとて、誰も治したこともない、単に学者ぶった権威者にするのが関の山だということを重々理解した上で、心理学を学ぶならば私はあえて否定はしません。そのくらい、心理学にせよ、精神医学にせよ、人間の精神の本質から掛け離れてしまった学問はないからです。この愚かな学問は、ドイツのヴントにまで辿ることが出来ると考えられます。 つまり、科学の領域に於いて精神医学を自立させる意図が、それまで心の癒しであった宗教の役割とを切り離してしまったことで、現代の心理学と精神医学とは迷妄する学問へと自らを失墜せしめたのだということ。 心理学については、複雑化の一途を辿る一方、現状ほぼ麻薬でしかない、精神薬の投薬治療に依存する他ない。 こういった、混沌とした心の治療の実態がありながら、確かに効果的な技術は開発されている。時折欧米の医学ジャーナルなどにも推薦される「ダイアネティックス・カウンセリング」と呼ばれる技術だ。ただこの技術は、アメリカ合衆国がその特許を国で買い上げようとしたが、現状はある宗教グループが管理している。本は日本語にもなっています。その中に夢の役割とか、祈りなどといった人文科学的なことも書かれていた記憶があります。それから、一般的に知られるところでは、ユングなどの著書に、宗教文化についての言及が多く論じられているが、正直その多くは彼自身の憶測の域を出ていないように思われる。 つまり、学問とは、使えてなんぼの世界なのに、フロイト以降の心理学はこじつけと複雑さの呪縛から一つも逃れられないでいるように見える。 時間の浪費にならないよう、くれぐれも注意されたし!
- vzb04330
- ベストアンサー率74% (577/778)
宗教心理学という研究分野があります。 専門書も出ていると思いますので、一度、そちらの関係の文献をお調べになってはいかがでしょうか。
- urasima-taro
- ベストアンサー率47% (59/123)
心理学における「祈り」には、カウンセラーとしての「祈り」と、クライエントとしての「祈り」の二種類があると思います。 まず、カウンセラーとしての「祈り」は、クライエントが人生を肯定的に歩んでいくことを願う「祈り」です。こうした「祈り」を持ち続けながら、クライエントの話に傾聴していくことで、クライエントの周辺で、大きな心の変化を与える事象が起きてくることがあります。場合によれば、それはクライエントにとっては辛い事象であるかもしれません。しかし、その時も、カウンセラーはクライエントの悲しみに共感しながら、「祈り」続けるのです。これはある意味では、仏教の「慈悲」の気持ちに通ずるものがあるかもしれません。 次に、クライエントの「祈り」ですが、クライエントは、今まで自分の意志で人生を選択し、歩んでこられたにもかかわらず、いつのまにか、心の迷路に入りこみ、すがる思いでカウンセラーなり、精神科の扉をたたかれたのです。そして、最初は、自分のつのる思いを、大いに語られることでしょう。そして、そうすることが自分が救われる道だと信じ、一生懸命に来談されるのです。しかし、やがて、自分が期待したものと違うことに気付かれるはずです。(クライエントは100%の完治を期待します。しかし、心の病気も100%完治することは難しいのです。)その時、クライエントは、今まで、「人に治してもらおう」「自分も、治してもらえるように努力しよう」という意志を捨てざるを得ない状況に突き当たります。ある意味では、「絶望」「あきらめ」といった方がいいかもわかりません。 この時、クライエントの中には、自分の「自我」を捨て、もう自分自身で人生を選択することを放棄する人が出てくることがあります。実際、今まで自分の意志を信じ、人生を歩んできたにもかかわらず、行きつく所まで行きついてしまったのですから。・・・そして、はじめて、「祈る」しかない自分に出会うのです。こうして、「大いなるもの」の前で、クライエントは自我を捨て、自分自身を「大いなるもの」にまかせきるのです。この時、クライエントは合理的・科学的・論理的な世界から、「信仰の世界」「宗教の世界」(この場合、ある宗教に入信するといったものではなく、宗教心・信仰心の芽生えととらえて下さい)へ飛躍するのです。この「祈り」との出会いによって、クライエントは最終的に救われると、私は信じています。・・・文献としては、キルケゴールの簡単な解説書でも読まれたらいかがでしょうか。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
まったくの素人ですが、祈りというのは時間を超越した存在を求めると同時に現在における状況がこの時間を超越した何物かによって自分が納得できるようにしてほしいという願望ではないかと思います. 単に現状を打開する場合永遠のものを必要としなければ祈りは必要とされないと思います.
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
心理学的祈りとはちょっと違うかも知れませんが、ラリー・ドッシーというお医者さんの本があります。 「祈る心は、治る力」 「癒しのことば よみがえる〈祈り〉の力」 祈りを科学したような本です。 http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN4-531-08135-8.html