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城下町(支配地域)の人口

タイトルについてなのですが、安土桃山あたりから江戸時代の幕開けぐらいにかけてどのぐらいいたんでしょうか?(1城下が1単位?) 例えば、桶狭間あたりだと○千人対○万人の戦人口ですよねぇ、それって人口の内のほとんどの戦える人間を動因したりしたのでしょうか?信長は兵農分離しましたがとりあえず。 また兵農分離は信長だけで終わったのでしょうか? 一番気になるのは、戦の際は現代戦のように戦う人だけが戦ってそうじゃない人は普通に(とりあえずは)暮らしてたかどうかなんですが。 関係することでもいいので教えてください。

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  • eria77
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回答No.1

武田信玄の国は、半農半兵でした。 戦をする事によって、自分が武田信玄の国の人間である事を誇りに思うようにする為です。 織田信長は、農繁期に戦を控える古い戦い方を嫌っていました。 「じゃあ、農繁期狙えば勝てるじゃん」 と、農繁期を狙って戦いをする為に兵農分離を行ったのです。 織田信長の兵農分離は、プロの侍集団です。 半農半兵の欠点は、一揆などが起きると、城主が負ける場合があり、危険な事です。 国中に刀や弓があり、治安は悪く、山賊、夜盗も横行しました。 豊臣秀吉がこれを整理します。 検地で百姓の土地を決め、武士以外の帯刀は禁止され、刀狩りを行います。 ここでほぼ兵農が分離され、身分も決まります。 城下街の人口ですが、数千人と言った所でしょう。 現在の地方の町でさえ、多くて3万程度ですから。

LINERS
質問者

お礼

なるほど、そうですね刀狩りってのもありましたもんね。 ということは信長以外は兵農分離はしてなかったというおとなのかなぁ・ ご回答ありがとうございました!!

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