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城下町について
明治期を経ての城下町の変貌と盛衰について調べています。たとえば、滋賀県では彦根という城下町があったにもかかわらず、明治期を経て県庁所在地は大津になりました。今では大津市が滋賀では最も人口の多い町です。 このような城下町の変貌と盛衰(明治維新を経て栄えた城下町もあります)が、明治意思を経て起こったかという理由と、具体的な事例をがあれば教えて下さい。宜しくお願いいたします。
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- keisuke-h
- ベストアンサー率0% (0/0)
検索エンジンからここにたどり着きました。 私も彦根出身でして、都市地理学の立場から城下町を研究しています。 まず、これは全国の城下町にあてはまるのですが、城下町というのは明治以後はどこでも衰退する傾向にありました。なぜなら士族(武士階級)が失業したからです。武士が集中して住むことで成り立っていた城下町はその存在意義を失い、町人も含めて人口は減少していきました。 県庁所在地になった城下町はその後産業が勃興し、地域の中心としての地位を取り戻します。 彦根や会津などが県庁所在地とならなかったのは、新政府が意図的に発展を抑えたため、といっていいでしょう。 彦根は城下町時代36000人いたのが、明治の中ごろにはその半分にまで減ってしまいました。東海道本線が全通する前は、彦根ではなく長浜に鉄道が敷設され、長浜から大津まで湖上輸送をしていました。そのため大津と長浜は明治以後たいへん発展しました。 また、滋賀県は明治末期から30年間、彦根の市制施行を認めなかったということからも、冷遇されていたことがわかると思います。
- Astroia
- ベストアンサー率47% (20/42)
まず、最後に回答してからずいぶん時間が経ってしまいました。 申し訳ございません。 先日実家に帰ったとき調べてみたのですが、ご期待に添えるような資料は見当たりませんでした。どうも思い違いだったのか、誰かに貸したままになっていたのかわかりませんが。 私は業務のボトムピークが激しく、OKWebにこれないときは一、二ヶ月もあくことがあります。最近また余裕が出てきたのでふと私の過去の投稿を見たのですが、この質問を未だ締め切らないでいらっしゃったので、期待されているのでは?と思い、結果が残念なことであろうと、再回答しました。 お役に立てず申し訳ないです。 お詫びに、私が持っていると思っていた資料を紹介します。古本屋へ行けばあるかもしれません。「彦根史」あるいは「彦根市史」のような名前でした。著者、出版社はわかりません。結構最近の本です。
- Astroia
- ベストアンサー率47% (20/42)
私は彦根出身の者ですので、経験者ということで回答いたします。 大津が発展したのは、shoyosiさんがご考察のように旧体制(幕府)と新体制(維新政府)の関係もありますが、それと同じくらいかそれ以上に、経済的な側面から見た効果を考えての決定だったと思われます。琵琶湖を運航する船は大津を経由して物産を運ぶのが普通でしたし、現在の大津市は坂本のあたりも含まれるので、経済的効果が高かったと考えられます。 もう少し詳しいことを述べらればよいのですが、現在は滋賀におりませんので適当な資料が見当たりませんでした。 もし、資料が手に入ったときにこの質問が締め切られていなければ、また回答したいと思います。
- stomachman
- ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答ではありませんが... 大津市内にも膳所(ぜぜ)城址があります。今でも道路は城下町の構造をしているようです。 膳所藩は他藩に先んじて版籍奉還をしたんですね。 http://www.google.com/で膳所城いっぱいヒットします。
お礼
ありがとうございます。膳所藩のお殿様は誰でしたっけ?やはり版籍奉還を早めに打ったのは上策だったんですね。
- shoyosi
- ベストアンサー率46% (1678/3631)
彦根は井伊氏の城下町で新政府を造った志士とはとは不倶戴天の敵でした。このため、県庁にも、県名にも採用されませんでした。よく似たケースとして、青森と弘前、山形と米沢、福島と会津若松があります。明治の宮武外骨という人がこのことについて、書いています。
お礼
宮武外骨という人物を知ることができ、一石二鳥、シナジー効果を引き起こしてくれた回答でした。本当にありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。もし、宜しかったら再びご回答下さい。しばらく、締め切らないでおきますね。宜しくお願いいたします。