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戦国時代、大阪堺の大きさ

和田竜の村上海賊の娘を読んでて疑問に思ったのですが、安土桃山時代の、大阪の堺の実際の大きさってどれくらいだったのでしょうか なんばウォークにあるクジラの彫刻はかつて、あのあたりが海岸線だったということらしいので、今とは想像がつかないほど、小さいと思います。かつては貿易から得た莫大な利益を背景に独立国家の体をなしていた堺ですが、三好三人衆の介入も虚しく信長にもちつもたれつな関係でした。 ですので、どれほどの地理面積だったのかもしご存知の方がおられればお教えください。 あと補足で質問なのですが、これもこの小説に載っていたことですが、当時の大坂は都というよりかは程遠く、葦が茂っており、沼地だらけということらしいのですが、これが本当だとすると地理的には最悪です。にも関わらずなぜこれほど大坂が重視されていたのでしょうか。やはり本願寺の影響か、近畿侵攻の上で要地となるところだったからでしょうか。 ご教授お願いします。

みんなの回答

  • eroero4649
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回答No.4

古今東西どこでも、大都市というのは概ね大きな川のそばにあるものです。なぜかというと、都市に住む人々のための飲料水及び生活水を確保するためと、船を使った輸送が可能だからです。船を使うと少ない人数と労力で多くの荷物を運ぶことが可能です。 近畿圏でいいますと、まず政治の中心はなんといっても京都です。京都から淀川を遡ると琵琶湖に出られます。琵琶湖から江北(琵琶湖北部)に行って一山超えると、北陸地方に出ることができます。昔からこの北国街道はメイン街道のひとつとなっています。 今度は京都から淀川を下ると、ご存知の通り大阪に出ます。大阪はいうまでもなく瀬戸内海に出ることができまして、瀬戸内海で四国・中国地方から北九州まで繋がり、更に北九州から朝鮮半島・中国へ。更に下関海峡から日本海に出ればそのまま北陸・東北地方まで交易することができます。 明治時代になるまで、瀬戸内海が日本最大の物流ハイウェイでした。その京都と瀬戸内海を結ぶ場所にあるのが大阪であり、堺であったのです。 大阪城があった場所は、元々は石山本願寺がありました。また当時は淀川は沢山の支流というか、中洲が数多くあったのです。だから石山本願寺は淀川とその支流が二重三重の天然の堀の役割をしていた大要害だったのです。 ですので、信長はこの石山本願寺を屈服させるのに10年以上の長い長い戦争を強いられたのです。ここが反信長勢力だったので、意外にも織田信長の勢力というのは大阪近辺、奈良(大和)から大阪(摂津)、兵庫(播磨)方面にはほとんど浸透できなかったのです。信長がこれらの地域を勢力圏に入れられるようになったのは、石山戦争が相当信長有利になった天正時代になってからです。 信長は何度も石山攻めで大阪に来ていましたので、石山本願寺の場所がいかに重要か見抜いていたようです。大阪城を作りその城下を繫栄させたのは豊臣秀吉ですが、既に織田信長の時代に大阪城の前身となるような遺構があったことが近年の調査で明らかになっています。 大阪城の建設とその城下町の発展は秀吉独自のアイデアではなく、(本能寺の変でとん挫したが)信長が既に計画していたという説が近年有力になっています。 大阪は太平洋戦争が終わるまでは日本で最大の経済都市でしたから、非常に緊要な場所であったといえるでしょうね。 なお、和田竜さんは作家としては優れた方だと思います。作家として優れているというのは、創作が上手だという意味でもあります。歴史的事実より近年の大河ドラマのようなエンタテイメントを重視した「現実の出来事を元にしたラノベ風半パラレルファンタジー」と思って読んだ方がいいかなと思います。映画にもなった「のぼうの城」は、現実とはまるで違う(史実はあんな恰好よく水攻めが決まらなかったらしいです。空梅雨で思ったほど雨が降らず水攻めにならなかったうえ、ようやく水が溜まってきたと思ったら工事が雑だったのか堤が壊れて豊臣軍の一部が流されて被害が出るなどグダグダな展開になったようで)ものだったみたいですからね。「あまり資料がないマイナーなネタを題材にして、資料がないのを逆手にとって想像の翼を大きく広げてエンタテイメントする」というのを得意とされていると感じます。

回答No.3

安土桃山時代の地図は確認できません。 確認可能な最古の地図は1639年(寛永16)の『寛永泉州大絵図抄録』です。これはかなり大雑把な絵図ですが、安土桃山時代の終了を1615年(慶長20)の大坂夏の陣とするなら、それから25年後の絵図ですので、基本的には同じ状況だったと考えられます。 これに下ることおよそ60年後の1704年(宝永1)に描かれたものを明治期に複写された『堺市古図』と比較すると、『寛永泉州大絵図抄録』はほぼ同じ町域を示していると考えられます。ただし、土砂の堆積によって戎島が出現したのが1664年8月ですので、『堺市古図』で描かれている戎社のある地域一帯と築地は江戸時代以降の埋め立てによってできた土地と考えれれます。 したがって安土桃山時代の堺は、現在の地図で言うと以下の範囲となります。 東 国道26号 西 七道駅から南半町西4丁までの運河 南 南半町西4丁から南宗寺までの運河 北 七道駅から高須神社前交差点を結ぶライン 秀吉が大坂を拠点としたのはもちろん石山本願寺の影響でしょうが、大坂が重視されたのは戦国時代よりはるか以前からです。平安京にせよ平城京にせよ、最寄の海運上のアクセスポイントは大坂が至近です。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.2

http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshihas/folder/1045889.html?m=lc 大坂のサイズですが、このブログの地図で赤く書かれてるエリアでだいたいあってるかと思います。ただし城の西側は秀吉の時代にはあまり広がっていなかったでしょうが、南側は白の外まで町が徐々に膨張していたでしょう。西側はどこまで湿地でどこから海か判然としないようなただの低湿地帯であったのが、江戸時代に何本も水路が掘られ物流街として発展していきます。 大坂城の周りは葦が広がる湿地帯ですが、その中で一か所高台の台地があるためそこが大坂として発展しました。もともと要地なので石山本願寺の本山ですが、信長が長年かかって武力で奪取した土地です。 この地がなぜ要地かというと、淀川の河口付近で唯一のまとまった台地でさらに堺をも視野に入れる土地です。中世近世の最大の物流ルートは敦賀⇒賤ヶ岳⇒琵琶湖⇒淀川⇒京都伏見⇒堺大坂⇒瀬戸内海⇒博多・・・となります。 この物流ルートで畿内(京都)の西と東の首根っこである淀川河口と近江坂本が最大の物流拠点です。そのため侵攻のための要地であるのも事実ですが最強の物流・商業を支配する地としての要地になります。 平安時代から戦国初期にかけては上記の物流ルートでも敦賀から京にいたるルートが京に米を運ぶルートとして重要性が高かったですが、時代が進むにしたがってむしろ米以外の商品経済が発達し大坂の比重がうなぎ上りに上がっていきます。

  • f272
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回答No.1

堺についてちょっと検索してみたら http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/44441317.html こんなのがあった。堺の町の範囲がわかります。 > 当時の大坂は都というよりかは程遠く、葦が茂っており、沼地だらけということらしい 秀吉が大阪城を築く前は,大阪城と四天王寺を結ぶ上町台地にほとんどの人が住んでいました。それよりも西の低地は秀吉以降に町になっていたのです。 本願寺もそうですが,台地であれば住む土地として悪くはないし,水は近くで手に入れることもできます。古代から大阪は重要な土地でしたよ。奈良,京都が海に面していないので,その代わりとして港を大阪に作ったのです。

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