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前方後円墳
前方後円墳を見るとどうしても丸が前に見えるのですが、 なぜ前が四角で後ろが丸と定義されているのですか?
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専門家の間でも いろいろな説がありますので、これがすべてではありません。と、逃げ場を作っておいて(笑)、谷川健一の『古代史ノオト』の中の「ひさごとたまご」を教科書にして お話しましょう。 古代日本の主導権を握っていたのは朝鮮半島出身者であることは、大勢の認めるところです。韓国の慶州は、かつて新羅が都を置き、統一新羅王国を築きあげた拠点です。慶州の風景が「奈良」「明日香」と酷似していることに訪れた人は驚くことでしょう。慶州には古墳時代の名残をとどめる古墳群(円墳・土まんじゅう型)が無数に点在しています。その中に真白い「天馬」の絵が描かれた馬の鞍掛け用の布が発見され、「天馬塚」と命名された古墳があります。この天馬塚(慶州皇南洞155号古墳)から土製の壺におさめられた卵の殻が約20個が発見されました。 朝鮮の始祖神話の特徴として卵生説話があげられます。 新羅国始祖赫居世王の場合、「白馬がひざまずいているので見てみると 紫色の卵が1つあり、そこから男の子が生まれた。その卵はひさご(瓢)のようであったので朴を姓とした。ひさごを朴と新羅人は呼んだ。」というものです。 韓国の学者徐廷範氏によると、「王陵や庶民の墓が円墳であるのは、卵の形を模したものであって、卵から再生するという意味がこめられている」のだそうです。天馬塚の例は、まさしくそのことを裏付けています。 朝鮮の古墳が卵を模して造られ、再生を願うものであったとすれば、渡来人たちによってその風習が日本にもちこまれ、日本の古墳の形式に影響を与えたことは十分納得できます。 新羅王陵では、円墳の前に四角い敷石の祭壇が設けられていました。おそらく、この形式が前方後円墳の基になったと思われます。前方後円墳は、横から見ると瓢箪を立てに割ったような形をしています。つまり、ひさご(瓢)型。 卵形の円墳、瓢型の前方後円墳、ともに再生の器と考えることができます。 ここからは、私の勝手なお話です。 日本の3大前方後円墳は、仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵です。日本書紀によると、仁徳陵は百舌鳥野陵、履中陵は、百舌鳥耳原陵といいます。応神陵については、日本書紀に記載がありませんが、その所在地である大阪府羽曳野市は、ヤマトタケルが白鳥となって飛び去ったところとされます。また、仁徳の和風諡号は、オオサザキ(日本書紀・大鷦鷯、古事記・大雀)と鳥の名前がついています。 応神は朝鮮半島出身であろうとされます。そしてその子・仁徳、孫・履中。日本3大前方後円墳の主に鳥のイメージ。
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- ekubo
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3度目の登場です。 >呼び方の解釈としては古代からではなく現代人の表現方法として・・・で 良いのでしょうか。 むずかしいですね。(苦笑) 専門家の意見もいろいろで悩むんですが。 呼び方の解釈とは、「前が方で後ろが円」という解釈ですよね。私個人の意見ということで勘弁してください。 柳田國男や折口信夫は、古代の先祖信仰は、山にあったといいます。円錐形の甘南備山といわれるものです。拝殿がなく、山自体をご神体とし祀ります。一般には、瓢箪山、茶臼山、神鍋山、飯盛山などと呼ばれることが多いです。これが原始形態だとすると、このまるみをおびた山の前に遥拝所ができ、古墳、神社へと発展したと考えられます。日本にもともと山に対する信仰があったため、谷川健一の言う半島の卵生説話も容易に受容できたわけです。 柳田・折口、谷川の考えからすると、こんもりした山の前に拝殿を設置する。先祖の魂の奥城(おくつき)である円墳のまえに拝所としての方墳を設置する考えは、より昔からと言えるでしょう。 ただし、前方後円墳とは呼ばなかった。知識階級と一般庶民との信仰・思想のギャップがあったことを記しておきます。 自信はまったくありません。
お礼
回答していただきありがとうございます。 みなさん博学でいらっしゃいますね、私も暇をみつけて せめて自分が知りたい範囲だけでも調べてみたいと思います。 わからない事があったらまたお願いいたします。
- nozomi500
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丸い部分が高くなっていて、丸いほうの延長から見ると、方の部分がかくれてみにくいので、「方」のほうから見るのではないでしょうか。単に絵としてみたのですが。 「前円後方」の場合は、丸いほうが低いのじゃないでしょうか。 祭壇があるのが前、というのも、そういうふうにもいえるけど、「祭壇の前に墓がある」というふうにも考えられます。(棺に尻をむけて祭礼はないでしょう)
お礼
回答していただきありがとうございます。 高低差ですか・・・とにかく調べてみなくては、結論に達しないようですね。
前方後円墳は有名ですが.前円後方墳や前方後方墳も数が少ないのですがあります。 ですから.丸と四角があった場合に.必ずしも前方後円墳とは限りません。
お礼
回答していただきありがとうございました。 なるほど余計に興味がわいてきます。
- ekubo
- ベストアンサー率31% (29/92)
前方後円墳という名は、蒲生君平が『山陵志』という書物の中で用いています。蒲生は、方墳部の前面に参拝する場所があったため、方墳部を前と考えたようです。 古代人にとって、古墳は横から見るものであったことは、容易に理解できます。横から見ると「ひょうたん」「まんじゅう」「たまご」に見える古墳の形に古代人の思想が反映しています。これはまた、別の機会に。
お礼
お答えいただきありがとうございます。 別の機会に・・・わくわくします。 古代人の思想など、詳しい方の意見を聞かせてもらえたらなんともすばらしいなぁ
- redbean
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「前方後円墳」のネーミングは、寛政三奇人のひとり、 蒲生君平によるものです。 蒲生は、横から見た形を貴族の乗る屋形車に見たてて、 方墳を引き手、円墳を車としたためにあの前後関係に なったようです。 このネーミング自体には学問的な意義はなく、現在も 前後について定説があるわけではないとか。 でも、丸が前に見える、というのは上空からの写真を見て いる現代人ならではの感覚のような気もします。
お礼
回答していただきありがとうございます。 実は小学校の頃郷土史クラブなるものに所属していた事がありまして、 友達と一緒にまとめた資料を大人数の前でプレゼンしたことまであったのですが その時の緊張は覚えているのですが肝心の情報はすっかり飛んでしまいました。 幼い頃を思い出して暇をみてはまた少し調べてみようかなぁなどと思っています。 現代人ならではの感覚等とは自分ひとりでは指摘できない貴重なご意見だと思います。
ふんぼの後ろ側で.色々な祭りをします。 方形部は祭りをする祭壇の意味合いがあります。えんぷんの場合には.埋葬品の関係でどちらかが前で.どちらかが後ろと聞いています。
お礼
回答ありがとうございました。 田舎に行くとけっこうそこらじゅうで見れる旧跡なのに 畑とか雑木林になっていて意外と気づかないんですよね。
お礼
回答していただきありがとうございます。 おぉ なんだか専門書を一冊読み終えたような充実感を感じております、 亡骸を卵に納めて後の世での再生を願う・・・神秘的ですね。 呼び方の解釈としては古代からではなく現代人の表現方法として・・・で良いのでしょうか。