No.3の続きです。
●推古天皇の時代は非常に明るく感じられます。
○「感じる」のは自由ですが、根拠がありません。
●前方部は「方壇」で、埋葬された人物の霊(ひ)を継ぐ儀式に使われたのではないでしょうか。
○前方部は儀礼に使用された、というのは有力な説です。しかし、精神文化の復元・考察は、かなりむずかしく「仮説」(有力な仮説)は立てられても特定することは困難です。
仮説や仮定を前提にその上に仮説を重ねればそれは単なる推測になってしまい、「学説」とは言い難くなってしまいます。
そのために学術的にはそれ以上進みにくいのが現実です。
●前方後方墳は発掘調査されているのですが、前方後円墳は宮内庁が発掘を禁止しているそうです。
○まず石川県・雨の宮古墳群の1号墳(前方後方墳)は墳丘と埋葬施設と2号墳(前方後円墳)は号墳は墳丘の発掘調査をされています。質問者さんが言われているのは2号墳の埋葬施設(主体部)が未調査であることだと思われますが、発掘調査を禁止しているのは宮内庁ではなく文化庁です。そして発掘調査が認められないのは天皇陵であるからではなく国指定史跡となっているため、保存が優先で、発掘調査は必要最小限しか認められないためです。
古墳の埋葬施設を発掘調査することは、調査であっても遺跡の破壊につながります。開発で遺跡が破壊されてしまうとか、開発から遺跡を守るために遺跡解明のために発掘調査をすることは認められますが、国指定史跡となって恒久保存が決まっている遺跡をあえて破壊までして調査をする意義は薄いので必用最低限しか認められないのです。
全国的に見れば前方後円墳も前方後方墳も多数発掘調査されています。
●天皇家のアイデンティティーを守るための様々な模索・試行錯誤が八角墳なり上円下方墳ではないでしょうか?
○そうなると現在確認されている確実な上円下方墳5基のうち半数以上が東国(東京2基、福島1基)にあることの説明がつきません。
また、方墳は古い段階から地方にも見られますから「方墳=出雲」という単純な図式は当てはめられません。(そもそもその前段の墳墓は方形周溝墓という方形区画墳が主流)
残念ながら現段階では質問者さんの主張が「着想」のレベルであり、考古学の基礎知識の不足や裏付け、根拠に乏しく、「学説」「仮説」にまで至っていません。
考古学や古墳の概説書を多数読み、発掘調査報告書や学術論文にも目を通し、きちんと論述されると新しい学説を生み出せるかもしれません。
がんばってください。
お礼
ありがとうございます。方墳に変わったはじめの陵は用明天皇陵だと思うのですが、その後推古天皇の時代は非常に明るく感じられます。出雲の墓制を取り入れることでそれまで畏れてきたたたりから解放されたように思ったのではないでしょうか。前方後円墳も前方後方墳も、前方部は「方壇」で、埋葬された人物の霊(ひ)を継ぐ儀式に使われたのではないでしょうか。八角墳が出てくるのは用明天皇から何代か後ですよね。この夏、石川県雨宮古墳群を見てきたのですが、山の頂上に前方後方墳と前方後円墳が並んでいました。前方後方墳は発掘調査されているのですが、前方後円墳は宮内庁が発掘を禁止しているそうです。前方後方墳は天皇家に関わる陵とは考えられていないのでは?用明天皇の時にすっかり方墳にしてみたものの、それでは天皇家のアイデンティティーが守れない。出雲の方墳を取り入れながら天皇家のアイデンティティーを守るための様々な模索・試行錯誤が八角墳なり上円下方墳ではないでしょうか?
補足
追加です。上円下方墳という墳墓形式は、天皇家の歴史そのものを表しているのではないでしょうか。つまり出雲の方墳の土台の上に天皇家の円墳が乗っている形です。