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なぜ「紙一重」なのでしょうか。
この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてると思うのですが、「二律背反」は「紙一重」というのは何ゆえにでしょうか? 泣いたあとすぐに笑うことができるし、幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。この間はなぜ表裏一体なのでしょうか。 上手く説明できなくて済みません。補足させていただきますので、哲学や宗教のみならず様々な分野からの意見をお待ちしております。
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>「ああこれでつらい私の人生も終わってくれる」と思ったくらい。小学生の分際でね(笑)。 本当に親って何なのでしょうね。これを考えるとき「神」って何なのだろう?と考えが移って行きやすいです。どんなに辛い家庭でも子どもは逃げ出すことができない。どんなに虐げられた者でも、この世界から逃げ出すことはできない。 私は世間でよく言われる「自分が生まれて来た意味」を求める手間はかけずに済みます。はっきり見えているからです。『大きな惑星』がfrauさんにしか見えなかったように私にしか見えていないようではありますが。しかし意味は見えても、価値があるのかないのかは、さっぱり分からないんです。 >それでも敬虔なんでしょうか 無神論者よりは、少なくとも私よりは十分敬虔です。無「神」論者ですからね、これだって、サルトルがカミュを揶揄したように、なかなかのもんですよ。一等キョーレツなのは「眼中にない」ってやつですから。これはこれでまた大いに不審ですがね。 >でも神様、もう少しお手柔らかに…。 全くですよ!製造者が製造物に対して責任ゼロなんて納得できますか? 『大地震や大津波を起こすんじゃない、こりゃ!』 と言いたいですが、ヒトに 『トイレ行くなメシ食うなオナラするな!』 と言うのと同じなのか知らん。 善悪の彼岸なんてお構いなしでしょ台風の目みたいなものなんだったら。ひょっとしてヒトに善悪の概念があるってことは「神」にもあり得る? 『地獄極楽この世にあり』 どん底でもがいてたころ、吹く風にさえ怒りを募らせていました。で、最初に書き込みした回答文には 『神様なんて、どわいっ嫌いです!』 って書いたんです。で、 『あ~あ書いちゃったよ~』 とか思いながら投稿しようとして吹っ飛ばされました。いいもん、私は「仏様」の背中にかくまってもらうもん! やはり私は御釈迦様に倣って「神」も修行修養が必要な発展途上の存在としたいです。 でも、やっぱり分かんな~い??? 長々と、ああでもないこうでもないと言ってた割には、これが結論なんですね・・・。ふっ、やれやれ。 すっかり長居をしてしまいました。楽しかったです!!
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- sirayukihime
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毎日冷え込みますねえ。私、寒過ぎても暑過ぎても腹立てる人なんですが寒さに震えながら腹立ちの余り以下のような想像に耽ってしまいました。 『皆様こんにちは。《クイズそこが聞きたい!!》の時間です。本日は特別ゲストに神様をお迎えしております。では各パネリストのかたがた、御意見御質問のほう、どうぞ』 『はいっ!はいはい!!』 『白雪姫さん、早速ですね、どうぞ』 『あのですね、私かねがね思ってたんですが、どうして、こんなに寒過ぎたり暑過ぎたりするんでしょうか。春とか秋のほうを長くしてもらうわけいきませんかね?それだと作物とかに大幅な影響が出る・・・なるほどそうですね・・・いやしかし自然の恵みに感謝しろとか言われましてもですねえ正直あんまり居心地良くないですよ、この世界って。こないだから地震だ津波だと大騒ぎですし自然淘汰ってんですか?ぶっちゃけ、この世界、生かさぬよう殺さぬよう生かさぬよう・・・でしょ?何か目的があるんでしょ?ないなんて言われても納得できませんよ、その辺是非、理由をお聞きしたいんですよ。だいたい、この世界が、もう少し居心地よかったら人間どもも生態系破壊するほど科学を発達させることなかったんじゃないかと思うんですよね、人間だけに罪押し付けていいんでしょーか?え?どうなんすか・・・ギャーギャー~』 神様:むーっつり。(ワシ←もしくはアタシ のやりかたに文句つけるのか。可愛くないぞ~。バチ当ててやるんだからっ。) 『あ、白雪姫さん時間がありませんので、また後ほど・・・はい、frauさん、どうぞ・・・』 (クールかつ女らしく)『よろしゅうございますこと?二律背反というシステムについてなんですけれど・・・』 閑話休題。 そういや、DNAも二重螺旋構造なんでしたっけねえ。 中国あたりから伝わった話だそうですが、 1という数が出現して最初のもの(点)が生じ 2という数が出現して(線) 3という数が出現したことによって世界は初めて安定(鼎)した、とかいうのを読んだことがあります。かなり、いい加減な記憶ですが・・・。ついでに5という数は稲妻、つまり天と地の交流を表しているんだそうです。(漢字で書いてみてください)(神社の注連縄から下がってるピラピラ、あれ雷を表現してるそうですね) 右と左の間に中庸があって鼎となる、即ち安定するんですね・・・。その中庸部分にも、これまた表裏があるのかも知れませんね。 「バガヴァットギーター」はキリスト教の聖書と違ってリクツに破綻が見受けられないので実に興味深いですがホントのところを確認できないのが凡人の致命的悲しさですね。これを世に示した人は啓示に打たれて語り残したのでしょうが、だから作者は「主クリシュナ」だとしているのでしょうね。最近、新聞で読みましたがチベットのほうで、とある平凡な少年が個人的には何も蓄積のない大昔の伝説について突然、滔々と語り出したそうですが、これまでにも、そういう人が何人か出ているそうです。本人は写真が目の前に広がるみたいに感じられて、見えるとおりに話しているだけだと言ってるそうですが。こういう能力というか現象は昔の人ほど鋭敏だったのじゃないかと思います。我々現代人は知識を得れば得るほど何かを手放しているのでしょう。でも!窮すれば通ず、というのはズレてるかも知れませんが、いっそ考えて考えて考え詰めたら逆に閃くこともあるでしょう。 「二律背反」のひと言から広がって、おもしろい展開になりましたね。私も久しぶりに悪い頭の運動になりました。
補足
(No.31のお礼の続き)何らかの才能は私が「美」よりも欲しい私ですが、天才と言われてきた人たちは神とコンタクトすることができた、いや上手い思うのです。私は「神の神秘を暴く人」と呼んでいます。またより高次な知力を身につけることを目指して、日々汗水流して努力する人も素晴らしい。イチローのように数字的な実績を残している人のようなことだとは認めます。でもイチローはすごい努力家らしいですね。(でも彼が「右脳開発」や試合前に軽い瞑想をしているということが興味あるところです)エジソンの「天才は1%の才能と99%の努力」という有名な言葉も、まさにそのとおりと思いますが、よく考えるとそれは天才の照れでしょうね。やはり天才は天才なのです。努力はその輝きを失わせないためのメンテナンス。彼にしてみれば謙遜でも、凡人からすれば凡人への応援歌にすぎない。が、市井にも無名の天才はいっぱいいますが、すごいなー、いいなーって思います。 「エドガー・ケイシー」については、私彼のカルマ論読んだことあるのですが、これが難しくて!もっと前知識というか、ケイシー学の解説を知ってないとダメだと思いました。一般向けに書かれたのではなく、ある講義を文字に変えた本でしたから。でも自分なりに意味を汲み取ると、「動物の魂は人間とより近い魂レベルであるが、それもカルマによって、動物は人間になれない運命」「人間は動物によって生かされている」というような大意だと思いました。その差というのは「大脳新皮質」の有無の違いだけで、動物にないもの恩恵のために人間は生かされているということだと解釈しているのですが…もし違ってたら誰か彼に詳しい人教えてくださいー!とにかく難解でした(泣)何度も読み返す対象の本ですね。 彼は誰彼差別なくヒーリングしていたそうですが、かの有名な「前世療法」のブライアン・ワイス博士も最初はバリバリの科学主義のお医者さんでしたが、ある患者と出会って、前世の世界と出会うことになりました。ケイシーもいきなり「入って」こられたそうですね。対極に人生観、世界観を塗り替えらてしまうわけですが、プレゼントされた悟りですよね。でもこういう話は世界中にたくさんあってチャネリングもそのひとつなんですが、どちらかというと形而上的な世界を信じていない人の中に啓蒙は降る傾向があるような。チャンネルされた人は肉体を貸すわけですが、本人はその存在への信憑性というのは案外どちらでもいいよ~と飄々としている人もいます…いいなあ、こういう人(笑)。 その「前世療法」もあと「バシャール」も読みました。「神との対話」や仏教関係の本とか…山積みです(汗)。昔は本、そして今はネットも加わって。私と世界をリンクさせる小道具です。ペシミストで人間嫌いな私ですが、ではなぜこうして幸福な対象を「人」としているのでしょう(笑)。勉強中の心理学や哲学とはそれこそ人間の「コア」ではないか!修行が足りん」!本気で尼になることも考ることもあるんですが、結論、私は絶対世俗的です、ハイ。 話は変わって…。DNAは理性と共に、一人一人の中に共有していますが、DNAはまったく別の恐るべき生物だと思っています。それは虎視眈々と地球征服を狙う異星人のように…。その形はらせん状で、果てない生死を繰り返す形の比喩です。でもいったいどちらが相手を「模倣」しているのか?どちらが終焉をとげるのか?今クローン人間問題がありますよね。DNAってコピーして、それを子孫として人の子孫としても、残しますよね。自分の中で立派にやり遂げてる。顔が皆違うように「魂の顔」も各人とも違うと思います。そういう魂までコピーしようとするのでしょうか?これは双子とも違う。また死後の世界での自分の居場所や来世への振り分け方とかも神様はどうするのでしょう?(笑)。私は好奇心は知性の源だと思いますが、明らかに超えています!神の尊厳を傷つける行為だと思います。法的にいうと魂の不当利得(笑)。きっと抜け殻のコピーであるのか、それともSF映画のロボットが意識を持って人を征服するように、人に復讐するとか?どのみち人の知性がそんな理想を果たしても、それは皮肉なことですが、共食いしてしまうかもしれません。自分のコピーロボットを作るのは不二子不二男の漫画の中だけでいい。
- Syo-ya
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お久しぶりです。 また違った観点から投稿させていただきます。 やっぱりこの宇宙は二律背反で出来ているかも知れませんね。 まあ「出来ている」という表現が正しいのか、 「結果的にそうなっている」との言い方が正しいのか判りませんが。。。 紐(ロープ)を見て思ったんですが、 ロープって、二本を縁り合わせることで出来ているんですね。(縁起ですね) 一本では弱いんでしょうか。 二本が、ガチッっと組み合わせることで初めて強度も確保でき、 ピッ!と立つ腰のある紐になるんだと想いました。 ・・まあ、こんな根拠なんですがなぜかそんな気がしました。 で、「知る」とか「考える」という哲学的行為も当然、二律背反から成り立っているのであって、「知」は「不可知」から成立しているのでは? と想いました。 (ここに神的世界、捨置記の世界が在る気がします) 例えば、受験で希望の学校に合格出来るのも、本人が一生懸命勉強しただけではなく、その時に受験しなかった人や、願書を出さなかった人達のおかげでもあるんです。その場に居なかった人達のおかげで希望が叶うということもあるんです。 この「不可知の世界」の、負の働きかけというのも、 我々の世界や人生を大きく左右しているんです。 (これは間違いないでしょう) ですから、言い換えれば、哲学であれ、物理学であれ、人類は絶対!に真実を全て知ることが出来ないんだろうと想いました。 この矛盾を超えることは、絶対に永遠に出来ないのではないだろうか? などと考えた今日この頃です。 以上ですm(_ _)m
お礼
Syo-yaさんお久しぶりです! 「縁起」説の紐についてなのですが、なるほど、そのような観点も普通に考えられる「縁」とは違う「縁起」の意味もあったのですね。 確かに紐は一本だけでは立つことができません。紐で思い出したのですが、インドの僧侶が修行を終えて仲間たちと別れるときに再会を期待して組み紐で作るナントカという腕輪を思い出しました。 それも「えにし」を結ぶ願いが込められているのでしょうね。僧侶たちのお守りは、お札などではなく、この現世での近縁を願うことなのでしょうか。親近感を生じました。 受験の例と同じように、私が好きな言葉に「今こうして生き続けている者は他の死んだ魂に代わって生かされている」という言葉があります。 「二律背反」は私の永遠のテーマですが、「鶏が先か卵が先か」というテーマにも重なります。善と悪でいうと、この世は善があって悪があるのか、それともその逆なのかということですが、「負の働きかけ」は性悪説なのか、という疑問です。「二律背反」の数限りないそれらの「ペア」のいずれの対なるものは、一体どちらが先に一方を引っ張っているのかと? 先の「誰かの死の代わり」で申しますと、人に死があるのは当然の摂理ですが、限りある地球上の定員オーバーになるのを避けるためにあるのだとしたら、「負の働きかけ」も摂理(二律背反)の、分裂できない一方の摂理なのでしょう。 もし真実を知ってしまったら…。森羅万象の神秘のベールは剥がされて、私たちの神は死んでしまうのでしょうか。 いつもどうもありがとうございます。
- type2006
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「二律背反」は、学のない稚拙な私には難しいので、 コントラスト繋がりで、「極端は(正反対の)極端に変わる→繋がっている」に関連する 諺の話(「両極は相通じる」など)でもしましょうか。 レスを一部しか読んでないので、既出かもしれませんが… 「東へ行きすぎると西になる」 ある位置(中庸)から見た東端は、西端でもあります。 表裏一体。 ある要素に於いては、 相反する二つが紙一重となっている点が、中庸以外にもう1つあったりします。 中庸にも裏があることになりますね。 「攻撃は最善の防御」 表裏一体。 どっちも本能。 どっちもエゴ。 能動的否定か、受動的否定か。 「我慢を刺激すると激怒に変わる」 極端な要素が、何かのきっかけで、正反対のものに変化する場合があります。 大天使が堕落すると、大悪魔になります。 ところで、「二律背反」って、簡単に言うと、ジレンマじゃないですか? 「ある人の食べ物はほかの人の毒になる」 自分が平気だからといって、相手にすすめる際は、注意が必要ですね(アレルギーなど) 「世間は広いようで狭い」 広いんだか、狭いんだか…┐(´-`)┌ 「流行に逆らうものも流行の奴隷である」 ファン(=~ひいき)もアンチ(=~ぎらい)も、~に隷属している。 「紙一重」なのは、TPOによって、どこまでも左右されるからじゃないでしょうか? 厨ですみません<(_ _)>
お礼
お返事が遅くなってすみません。 コントラスト、面白いですね。とくに「流行に逆らうものも流行の奴隷である」というのが。また「大天使が堕落すると、大悪魔になります」、悪魔はもともと神の側近、ミカエル大天使でしたよね。 確かに「二律背反」とはジレンマかもしれません。「葛藤」ともいえます。両極の間にある実体は拮抗状態にあるからです。 「中庸」はその真ん中に立つ状態をいいますが、私はバランス状態であると思いません。逆に両極の要素がそのひとつの状態に同時に含まれ、よって中庸も拮抗状態にあると思うからです。『「攻撃は最善の防御」 表裏一体。どっちも本能。どっちもエゴ。能動的否定か、受動的否定か』とはそのひとつの例かと(これは「鶏と卵の関係」、時間軸の疑問にも対応できます)。 「東へ行きすぎると西になる」というのは、地球で説明できます。同時に西へ行き過ぎると東に戻ります。「二律背反」は地球の姿で説明できるのかなと思いました。つまり「ふたつ」のことは「ひとつ」の姿に無数の要素が凝縮されています。「ひとつ」が軸となって自転しつつ、それを内包する森羅万象はペア(二律背反)となって、その中心へと向かい続けているような印象です。「すべてのためのひとつのこと、すべてをひとつにするもの」といえばよいのでしょうか。 あ、TPO説の「左右」も二項ですよね。「二律背反」の紙一重という性質も、「これ」によって「左右」されている…。考えるとキリがありませんが(笑)私たちの身の回りにはたくさんあるのですね。 参考になりました、ありがとうございました。
- sirayukihime
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さてさてfrauさんの人生のメインテーマに何らかの示唆を提供することができたなら良いのですが。 前に「道のりは遠そうですね・・・」と申し上げたのは仏教を究めようとするなら仏教以前の思想も御勉強しなければならなくなるだろうな・・・と思ったからでした。 うちのお寺さんに「仏陀は従来の神話世界に対する反抗者ではないか?」と尋ねたことがあるのですが(父が横でフンと、せせら笑ってましたが)御住職は確か「う~ん、仏教もヒンドゥー教と・・・うんたらカンたら」と仰っていたようにおぼえてます。 お釈迦様も仏教以前の思想から出発なさっているだろうことは想像に難くないですよね。とすれば、この世界の「苦」というものに対する、あらま欲しき姿勢も、自ずと導き出されると思うんですが・・・。 俗に「お念仏申せよ」と言われますね、敬虔な仏教徒の間で。これは難しい思想やことばを理解しにくい衆生が手っ取り早く「仏世界」を存在させるための「念」的力を狙った手段ではないかと考えます。「神」にしても我々の客観的限界のなかでは想念に過ぎないわけですから・・・。 私も、この哲学板に参加できなくなる日が近づいていますので今回ガンバッテしまいましたが、frauさんの御勉強を陰ながら応援してますよ!世の男どもをギャフンと言わせてください!(これも煩悩ですねえ) 「最近(でもなくなりましたねえ)削除されたスレッドの質問者が、ここを見ていたらいいのになと思います。女性はこまごまと忙しいことが多いし別面こまごまと楽しみも多いから気が紛れやすいということもあるし野心や征服欲も男性に比べて薄い傾向があるから燦然と歴史の表舞台に登場する人が少なかったかも知れない。でも本をたくさん読んでいるなら尚更、一面だけで判断できないはずだと思います。 思うに読書や勉強に時間がたっぷり割ける人って貴族的だと思います。バガヴァットギーターのような思想に触れたら知識誇りをすることの愚かしさが、すぐ分かる。読書って、それを書いた人に教わることですから謙虚であって当然だし、勉強する時間に恵まれていることに感謝する気持ちが大切だと思います。 ああっ!!この考え方に学生時代、気づけていたら ! 長々と失礼致しました。御健闘を祈る!!
補足
(ここからお読みください) >読書や勉強に時間がたっぷり割ける人って貴族的 夏目漱石の「それから」という小説の中に山岡という人物がいますが、彼は無職なのですが、自らを「高等遊民」と称して働きもせず、散歩したり思索したり、友人の奥さんに横恋慕したり(笑)します。彼の実家は確かお金持ち(華族?)だったとおぼろげながら記憶しているのですが、実際の貴族でも「高等遊民」とあえて称するところが、まあ余裕というか、本当にお金持ちならではの感覚ですよね。普段彼を意識などしてないのに心のどこかでずっと私にとっての真の贅沢な生き方はこの山岡のような生き方だと憧れていました。 彼が自由にできるお金は実家に帰ればいつでもあるのでしょうが(でも小説での結末は不倫したせいで勘当されてしまう)、お金に困らないのに反抗するかのように、その対極にあるその「精神」を遊ばすことが至高にすることって、なかなかできないと思います。だからそれこそ本当の贅沢。 「哲学する」上での言い訳に時間がないことを挙げる方もいるでしょうが確かに現代を生きる上で一番の贅沢はそう、「時間」ですよね。でも時間はその長短は個別に差があっても、誰にでも与えられている自由のひとつですよね。忙しいからって単なる言い訳です。仕事外での時間は少なくともないわけではないでしょう。なんていうと「この文明の恩恵は、時間や生命力を犠牲にして得たものだ、あなただってそれに与るひとりではないか?」と言われそうですね。でも私にとってありがたくありません。身を粉にして働いている人にとって失礼だと思う人もいるでしょうけれど、私は個人に向けて言っているのではなく…こういうこと何ていうんですか、イデオロギー? 資本主義のもとでは何もかも淘汰されてしまった感があるけれど、もう更新の繰り返しをしているだけだと思うのです。 以前某世界的超有名メーカーで働いていたことがあるのですが、自殺者が何人もでたり、仕事中に倒れたりしたところ見たことあります。物はどんどん供給され続けるけれど、「生産者」は弱い者から順に潰れていゆき、心は病み、魂は空洞化し、「様々な死」に至る…。耐えず生まれるけれどすぐ飽きられ使い捨てられるモノ、モノ、モノ…。これが本当の豊かさといえるのでしょうか? その世界の足元にある地球は汚され、壊され、自然は私たちに本当の姿を教える。つまり自然がないと生きられない私たちは自らの首を絞めているという悪循環に気がついたのは破壊しまくったあと。 その「悪循環」は人間が自ら選択したことでも、生態系は神の摂理のとおり、美しいまま「循環」していて、実は私たちもその「輪(和)」の中の一部なのに、理性や唯物論や科学や、それらへの正当化や合理化をして、その輪の中から飛び出す自殺行為をしている。そんな生産者のひとりにはなりたくないと、消費されるだけに資源を消費するような産業界ではなく、「行為」によってお金を得られたらよいと思います。もちろん私の好きなことであるという大前提がなくてはなりません。そのためならどんな苦労も平気です。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
ローカの、もう一つの解釈は遊星または惑星を意味する。 これについて私に一つのエピソードがあります。母を亡くした直後に、夢をみました。仏壇のなかから母の声が聞こえていて、何故かそばに小さな小さな火星が浮かんでいました。 その当時は何の知識もなく、目が覚めて首を捻るばかりでしたが、ある本によれば「火星」というのは、この世で煩悩に振り回された一般的俗人・・・まあ我々のことですわね、そういう人間が行く世界だそうです。確かに母は煩悩たっぷりの人でした・・・。 主は言う 「全世界は非顕現な私によって遍く満たされている。万物は私のうちにあるが、私はそれらのうちに存在しない。見よ、私の神的ヨーガを。私の本性は万物を支え万物を実現するが、万物のうちに存しない」 生きものは生かしている方に義務を負う。生かしている方の意に沿うよう運命づけられている。こうして体を持つものにとって、自己に課せられた運命を果たし超えたとき、個の人生は初めて一切の自由を得、義務的行為から解放される。しかし、その自由を得るまでは、それぞれの特性に応じて定められた義務を果たさなければ、果たすまで続く。逃げ出すことはできない。
お礼
形而上的なことについて考えない人はいないと思います。例えば身体の健康について考えないひとがいないように、命や神様の存在や、自然の神秘なども、同様、決して回避できない深く自分に関わるものですから。実際このカテにきて感動したことは、これほどまで世の中にはたくさんの方々が真剣に考え、そして深い示唆を与えてくれることです。 つまり考えるという暇がないのかもしれません。また実体のないものを面と向かって話をするということも照れのためだと思いますが、何といったらよいのか、例えば人は健康でいられ、幸福なときその状態を当たり前と思って感謝を忘れてしまうようなことと同じではないのかなと。有限なるものばかり気を取られて、真実を見つけることに対して素通りしてしまうのって何よりもまず、神様にとってはお淋しく感じているかもしれません。 神様は孤独だと思っています。だから公言として、またひっそりと心の淵で、「すべて」のひとつひとつのものの真実に関することを語ることは、神と対話していることだと思います。丹波哲郎氏がおっしゃっていましたが、神様はそういう人が好きらしいですよ。 かなり昔のことですが死後の世界をただ知りたいがために「自殺」した思春期の少年がいました。それを知ったときとても心打たれると同時に、彼は神様のお気に入りの子供だったんだと思いました。お気に入りだったからこそ、やはり彼の死をより早く自らの膝元に導きたかったのかなと。(ANo.27へ続く)
補足
(ここからお読みください) 自分を苦しませるものについて延々と考えているとき、ふと「落ちた」ような気がするときがあります。頭の中が一瞬真空状態になったような気がします。そして後になって先人や頭のよい方たちが言葉を上手く編み出して「それ」について語る(説明)ものを本で読むとき「あ、このことだったんだ」と対応するものをみつけたとき「あれは悟りだったのだ」と感慨深くなります。そういうとき「哲学って気持ちいいな」と思えるんです。最高の癒しですね。 「哲学」のアプローチって二通りあると思うのです。ひとつは「悟り」。もうひとつは「希求」。 「言葉にならない想い」を上手く言葉にできることも才能で、そうなれば本を一冊上梓できますが、逆に言葉を持つ恩恵を与えられたことは言葉を独り占めして自慰行為に走る危険性をはらんでいます。例えば某氏ですね。いつしかテーマからそれて、知識を知らないのに相手の言葉だけを捉えて返すために、相手から彼にとって知らない知識を与えられたとき、その無知を自ら暴露してしまわざるをえないようになってしまう。可笑しくもそれを正直に表してもまだ禅問答のようなことを続ける彼とのやり取りは面白かったけれど、でも一番やっきになっていたのも私(笑)。 本当の「知性」とは「知らないことも素直に知らないと言える飾り気のなさ」だと思います(これも「無知の知」?)。それは好奇心を温存できることにつながります。謙虚さで引き出しを空けておけば好奇心が、新しい知識を詰め込んでくれます。でも傲慢さはそれ以上学ばないから、本人だけが薄い知識の進歩はその万能感によって邪魔されていることを知りません。 「希求」することはそれぞれの想いの分だけあります。でも「悟り」を開いた人は誰に対しても易しい言葉で伝えるべきだと思うのです。たとえばブッダの言葉ですよね。でもデカルトなどは難解で難解で、誰かの翻訳(もちろん外国語、また内容の意味)がなければとても読み取れません。 その翻訳家(専門家)がおっしゃってましたが、哲学は本来は易しいものであるが、それを難しくさせているのは言葉だと。哲学と宗教の違いは「ロゴ」にあるのかもしれないと思いました。かの方はロゴを手品のように扱うことにかけてはすごい人でした。でも結局彼も「探求者」には変わりありません。そこに気がつけばあれほどまでに人をバカ呼ばわりはできないと思いました。いや、すでに気がついているのかも。禁断のリンゴを食べさせられて「恥」を知ったのでしょうか。だからもう見かけないのでしょうね(笑)。
- sirayukihime
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著者、堀田氏曰く なぜ地上は善と悪が生まれ、私たちを迷わせるのかと疑問を抱く人もいよう。杭に光が当たれば明暗を描くように二元相対の明暗は現象世界の構成上避けられず、神の不変性に対するアンチ・テーゼは避けられないためだ。 聖書に出てくるキリストのことばはギーターのなかにも随所にみられるが、しかしギーターのことばは聖書の含蓄あることばを補って余りあるから不思議である。 クリシュナ曰く 「この世には二種の万物創造がある。神的なものと魔的なものである」 「光明 活動 迷妄が現れても、これを嫌わず、静まっても追求しないことだ、アルジュナよ。私の最高の居所は太陽の輝きも月も火も照らされることのない楽園(クリシュナ・ローカ)。そこに至れば人は退転しない」 仏教は六道輪廻の迷界(天上から地獄の六界)をローカと言い、六界の住人は、その限られた視界での行動しか許されない→私見:だから私たちの知(真理を知ること)には限りがある。 とりわけ最下層の地獄界から天上界を見ることも行動の自由もない。反対に天上界から下は見ることはできようが精神界である空間の存在を知ることも見ることもできない。天眼をもってしか知る術はない。第三の眼は「神理に満足して動ぜず、感官を制御したる者は、土も石も黄金も均しく、彼こそ真のヨギーである。
お礼
本当、毎日寒いですね~。でも暑い方が苦手(体型的に?!)ですが、暖かい国に移住したいと願う今日この頃…。 余白があるのでページごと対応させながら、まだまだがんばります! >「お念仏」 言霊ってありますよね。言霊の影響力は私も日ごろ畏怖しているものです。例えば何か口に上らせてしまうとそれが実現しなかったり、逆に悪いことなど現実になってしまったりするようで、実際現実になると当たった?とつい思ってしまうからです。「念仏」ってその名のとおり、念を唱えるわけですよね。それが悪霊を追い払うときに使えたりするのも、実体がない存在でも言葉によって影響されるものであれば、言葉(ロゴス)とは全てのものとリンクさせる鍵のようなものなのかなと改めて感じます。 お経の意味は私などの素人にとってその漢字の羅列にどういう意味があるのかわかりませんが、無論仏教哲学の凝縮と想像するしかないですが。何というかガイダンスのような…。例えばキリスト教などでは「神を信じよ」という言葉に神髄を集約しています。私はどうもこの楽観的すぎて「あまりにも宗教的らしい宗教」キリスト教よりも、個人に微笑みかけるような仏教の方に傾倒しています。もっとも聖書は教会の都合によって都合よく書きかえられたという信憑性については長い長い宗教戦争などで、戦争のために使われてきた歴史が物語っていますが…。 さて、以前sirayukihimeさんが「周囲には哲学を一緒に語れる人がいない」と嘆いてらっしゃいましたが、同志はここにもいます(笑)。神や人や、生命や宇宙や哲学や心や魂について、皆どうして語ることを恥ずかしがるのかなあと常々思ってきました。「そんなこと思ったこと一度もない」「もしかしていつもそんなこと考えているの?!」「頭大丈夫?」!!…。こんな人たちから比べれば、あれほど大立ち回りをした後燃え尽きてしまった「某氏」とお話していた方がよほどマシというものです。 (ANo.26に続く)
- sirayukihime
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かのヘッセ大先生が「世界文学をどう読むか」のなかで「バガヴァット・ギーター」を、おススメとして挙げられていましたので昔から目をつけていたんですが、これって、むちゃんこ長そうじゃないですか。「クリシュナ バガヴァット・ギーター 第四巻」は本屋で衝動買いしたものです。できれば第一巻から読んでみたいと思っています。 「バガヴァット・ギーター」は「リグ」「サーマ」「アタルヴァ」「ヤジュル」の四ヴェーダを凝集し、正道のエキスが語られているので、ギーターを理解できたときには、ヴェーダを理解したことと同じと言われる。 「ウパニシャッド」は主「クリシュナ」が作者である(!!)とギーターは説明する。「ウパニシャッド」とは神学または宗教哲学といわれるが「ウパース」といって師の近くに座し、「秘密の教義」を伝授されるものといわれる。ウパニシャッドの数は極めて多く、聞く者の資質に応じて語られているようで、全体として一貫性を欠くうらみがあるようだが、なかでも「ムンダカ(解放)・ウパニシャッド」は主「クリシュナ」の存在と、不滅の「ブラフマン」の関係を知るうえで大変参考になるものの一つと思われる。 「ウパース」=神の近くに座り熱心に求める行為。瞑想、祈念。(Syo-yaさんがおススメの瞑想に関連があるのでは?) 「クリシュナ」の、もう一つの名=バガヴァーン(仏教の宗派によっては大日如来)。ヴァーステーヴァ(クリシュナの父!!の名)。 「ブラフマー」=梵天。宇宙における最初の生物。宇宙の全生物を創造する。 「ブラフマン」=個々の魂。主クリシュナを指すときは「最高のブラフマン」または「ブラフマンの基礎」という。「ブラフマン」とはヒンドゥー教では究極の実在を意味し、そのブラフマンの基礎がクリシュナとすれば、全ヴェーダもウパニシャッドも主クリシュナを理解するために与えられたものと受け止めることができよう。仏教によって業とその法則、輪廻転生、解脱と救いについて早くから我が国にもたらされ~それもこれもみな、主クリシュナの神理からきていることが理解されてくる。 ギーターは聖者カピラ(前350年頃)による「サーンキヤ教義」に触れている。カピラは主のアヴァターラ(神の化身)の一人と言われ、彼による宇宙創世の諸原理はギーターを理解するうえで分かりやすいからであろう。サーンキヤは言う プルシャである精神的原理の個我(魂)と根本原質であるプラクリティは共に無始(!!)であるとし、一切は、この二元論から成っている。だがギーターは、その上に最高神(クリシュナ)のあることを繰り返し述べており、ウパニシャッドによる個我(アートマン)と世界魂(ブラフマン)は一つとする考えと同じである。 ギーターの根本命題は神と神のエネルギーは同じものであり、プルシャもプラクリティも最高神から出発しているからである。つまり、その哲学的立場は一元でも二元でもなく「不変異」と呼ばれる。「不変異」とは両者は不異であるが同じものが同時に異なって存在するという意味である。 と、ここで言い訳じみた私見なのですが、神と人がリンクしている或いは「神に似せて人をつくった」とするならば、人に分からないことは神にも分からない、神に分からないことは当然人に分かるわけない、というリクツもありかな?と思ったのでした。てへへ・・・。
お礼
どうもお久しぶりです!今年こそ「バガヴァット・ギーター」を読みます!!(宣言)ずっと忘れかけていたけれどどこかで読まなければと思っていたこの本のことを、sirayukihime さんのこのガイダンスで刺激されたしだいです。 「ヴェーダ」は「アーユルヴェーダ」のヴェーダですね。また「バガヴァット・ギーター」はウパニシャッド哲学だということ、初めて知りました。 ウパニシャッド哲学は例の高校の教科書を紐解いてみたのですが、そのとおり 『「近くに座る」ことから「秘密の教え」の意味であると解釈されてきたが、「同値」という意味もある。われわれの固体をいわば小宇宙とみなし、それと大宇宙とが本質的に同じもので、両者は互いにきわめて密接な関係を保っているとする考えである』 とありました。 それで思ったのがよく言われる「神様は自分の内にある」ということです。私たちは自分の中に「もう一人の自分」を感じることができます。また、対話もできます。私はよくなぜそのような客体が存在するのだろうと思ってきました。でもその客体も主体であるかもしれません。そのように、本能と理性、意識と無意識、善と悪、幼児性と大人、古い私と新しい私など、二項対立するものがいっぱい棲んでいます。でもどちらが本当の私であるとはいえません。そこで迷ったときや葛藤するとき、対極の「相手」がでてくるわけですが、それが神であるのでは?と思っています。 つまりここでの私の質問に還りますが、やはり二項対立、二律背反の全貌、森羅万象の姿は「神」そのものであると考えます。 まさに >「神に似せて人をつくった」 ということです。人の個性や人格の種類や数の分だけ、神が人に化身しているのだと思います。この世は神が分散しているようなイメージでしょうか。でも誰しも「自分の中にいるもうひとりの自分」は唯一の神 であって、そうした共通項が、自らが感じ、問い、時に頼るその「大いなる存在」なのでしょうか。だから「人類皆兄弟」「誰一人として孤独な人はいない」といいますし、ユング心理学でいう「普遍的無意識」とは、氷山の下の氷は目に見えない海面下でつながっているという無意識の概念も、人と人がリンクし、「切れて」いるようでも、真実ではリンクしているし、つまり >「神と人がリンクしている」 ということなのでしょう。
- sirayukihime
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今晩は。実は先ほどまで長い時間かけて打ち込んでた回答文が、うちのあほパソコンのせいで吹っ飛んでしまいました・・・。この間も同じことされたんですよ~、このあほパソコンってば~!!(怒) は~・・・気が抜けちゃった・・・さっきと同じようには書けないけど仕切り直しですぅ・・・。念のため何回かに分けて送信することにします。長くなりそうですし。 さて「神様のアイデンティティ」問題です。これについては堀田和成氏著「クリシュナ バガヴァット・ギーター 第4巻」を慌てて取り出しザッと読んでみたんですが、どうやら他の本で読んだみたいです。何せ「神様にも分かんない」のところで「なんだよおー!!」とブチ切れて放り出して、そのままになってました。御免なさい、「うろ覚え」の知識でクチバシ突っ込んでしまって・・・。反省。 で、お詫びと言うわけでもないんですが上記の著書から私なりにfrauさんの御悩みに少しでも役立つことを祈って、部分的に抜粋してみます。オモシロいんですよ~この本。分かりやすいし。堀田氏についての情報は持ってないんですが非常に博識なかたのようです。本当は原著に当たるのが、あらま欲しきアプローチなんでしょうけど私は専門家じゃないので。私のように読書に割く時間や体力に余裕がない者にとって、噛み砕いた説明をしてくれる人は実に重宝です。限られた人生の時間を、はしょれるってもんです。その点Syo-yaさんもfrauさんも・・・おほほ、御免なさいね、背中に乗っかっちゃって。 では、いってみましょー!
お礼
こんにちは。久々にPCを開いたら、なんと!こんなにたくさん!ありがとうございます~! さて、「神様のアイデンティティ」についてですが、これは「バガヴァット・ギーター」についてだったのですか。本はまだ未読なのですが、そんなに長いとは知りませんでした。
- sirayukihime
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こんにちは! Syo-yaさんの御回答読ませていただいて「う~むうむ」と思わず納得。「一秒100メートル」ですって!「一粒300メートル」よりスゴイんですね!すみません、お腹がすいてるもんだから(空腹で手も震えてます)何を見ても聞いても食べ物に結びつけちゃって・・・。ほんとは、こういうこと考えてると脳貧血起こしそうなんですが・・・。まことに悩みというものは、その人の人生レベルに応じて生じ来るものですね。 でも私の周囲の人間って男女関係なく、こういうこと考えない人ばっかりなんです。こういう方面の話題をふると「やめて~」とか「アーもう、うるさい、分かった分かった」って嫌がられるんです。だから、まさかパソコンのなかでfrauさんのような人たちに出会えるとは、ウレチ~!しかも私の代わりに難しい本を、たくさん読んで教えてくださるんだから一石二鳥ですね! ところで「ブラフマン」です。きゃ~ハズィ!うろ覚えだったもんで・・・。(汗) それが主体の胎の呼び名であり我々は、その胎内で右往左往しているに過ぎないのだとすれば当然この自然世界の現象と我々の心身とはリンクしていると考えられますよね。しかし、その主体自身が自分がどこから来たのか分からんらしいのです・・・。主体自身「ここはどこ?私はだれ?」状態らしいんです。だから問うてもしょうがないんですね。お釈迦様はインドのかたですからインド古来の神話世界から出発なさっているだろうと思います。だから、こういう事情を踏まえて「だから捨て置けよ、とにかく、まともに受け止めて、むやみに消耗するなよ、そのためのコツはな・・・」と教えてくださったんじゃないかと。優しいかたですよね! 実に私見ですが私はお釈迦様というかたは従来の神話世界に対する世界初の異議申し立ての声を挙げられたかただと解釈しています。 ところで最近削除された質問ですが(思わずプーと吹き出しました!)かのスレッドの質問者のごとき論理のための論理を振り回す輩を私は心底軽蔑します。こういう態度は哲学を冒涜するものですね。 新聞で読んだのですが、どこの国の人か失念しましたが、失明という障害を背負い激貧の生涯を浮浪者のように転々しながら思考と研鑽を怠らなかったゆえに「沖仲士の哲学」と評された人がいたそうです。このかたは共産主義国家の崩壊を年代まで含めて予言したそうです(私も中学生の頃からそう考えてました。ただし自分がおばあちゃんになるころかなあと。マルクスは読んでません、恥ずかしながら。)が、こういう人の哲学こそ傾聴に値すると思います。 「涙と共にパンを食べた者にしか人生の味は分からない」私も涙と共にパンを食べる者です。お釈迦様が召し上がられたスジャータの乳粥、さぞやかし甘露であったことでしょう! それにしても、いつも思います、なんで食べないとダメなようにできているんだろうと。いったい主体とやらは何食ってるんだろうと。 しかし、どう転んでも、所詮人が言ってることですよね。 すみません、もう限界・・・。ちょっとパン齧ってきます・・・。
お礼
>最近削除された質問 ああ遠い過去…(笑)。もっとも腹を立てて闘ったのはこの私だったと思います(笑)。 でもサイトの圧力によって消されたことはおかしいと思います。少しくらいテーマからずれようと、真っ向から向かっている回答者にとっては腹の立つ質問者であっても、ひとつひとつの意見(もちろんその「彼」の意見も)は貴重なものです。第三者が「通報」したのかもしれませんが、第三者にとっても意義ある貴重な一ページだと思います。しかもとても高尚なテーマであったことだし。と、せっかく結果を見届けようとしていたのに、抹殺されたのは本当に瞬時でした。 しかしかの方は今何を思ってらっしゃるのでしょう?最近お見かけしないようですが…。また「詭弁」のための論法を日夜磨いているのでしょうか(笑)。でも「触らぬ神に…」でしょうね。 >こういう人の哲学こそ傾聴に値する そうですよね。いくら言葉遣いの天才であっても、平坦なテーマに対して、真理を見つける目(盲者であっても)がなければ、机上の空論に終わります。しかもそれを、万人にわかるような柔らかな言葉で語る優しさも、その「知」に含まれることと思います。それこそお釈迦様の姿勢なのでしょうね。 私のわかりにくい質問に対して真摯なご回答、ありがとうございました。
補足
(ここからお読みください) お礼が遅くなりすみません。 >私の周囲の人間って男女関係なく、こういうこと考えない人ばっかりなんです 同感っ!!だからこのサイトにきてます(笑)。すごいですよね、皆さん。本当に勉強させられてます。ネットはとかく悪いことばかり強調されていますが、文明の利器! ところで >主体自身「ここはどこ?私はだれ?」状態らしいんです そうなのですか…。その主体とは私は創造主だと思いますが、その神様自体もアイディンティティに悩んでらっしゃる…。ううむ…。ということは、私たちは神さまのところに帰ったら、私が下界の日本で、21世紀に女として、ここに変えるまで、「私」として変身させた理由は何でしょうか?と聞くのが私の夢ですが(笑)、ある意味それが叶わないのでしょうか?? 神様を恨みながらべったらべったら生きながらえてきましたが、やっとの思いでお膝元に到達しても「わからん」と言われるとは…。それでは救いはないのかしら?? >はお釈迦様というかたは従来の神話世界に対する世界初の異議申し立ての声を挙げられたかただと なるほど!!鋭い!(他の回答でもお見かけするのですがsirayukihimeさんの考え方ってセンスいいなあといつも思っています)キリスト教だと「信じれば救われる」という罪の救済方法があります。でも仏教は「自分を神(仏)なるものと崇めよ」という態度ではないんですよね。○○せよ、という「箇条書き的」な教えがキリスト教やイスラム教のイメージだとしたら、ご自分がご自分の興味あるものに到達したときの内部的な啓示を、皆にレポートする(?)というようなイメージでしょうか。もちろん今仏教の本を初めて手にとって勉強していますから、断言することはできませんが、うろ覚えの知識から作ったイメージはそういう宗教観です。
- Syo-ya
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ちょっと想ったんですが、思想体系は、こんな感じではないかと思います。 <西洋思想> 「私」───>「森」───>「実体」───>「私」───>「森」 <仏教>(東洋思想?)ラッセル 「捨置記」・・・ 「私」<───── 「森」 ・・・「捨置記」 *苦の消滅には無関係だから「捨置記」 ではないかと思います(^^;)?
お礼
今B.R.アンベードカル「ブッダとそのダンマ」という本を読んでいます。またご質問させていただきたく思いますので、宜しくお願いします。 私のわかりにくい説明に対し、真摯なご回答、ありがとうございました!!
お礼
さて、「つれづれ」やグチはマジでここらへんで終わることにいたします。長い間お付き合いくださりましてありがとうございました。そしてお疲れ様でした!! さて、最後に…。白雪姫さん、前の回答で「このカテにもう来られない」とおっしゃってましたが、えーっ何で!って思ってたんですよ。でも最近いくつかの投稿でお姿見かけました。なんだー、いるじゃん。でも「哲学とは○○である」という意見に対してだけは、こころ穏やかではないようですね(笑)。 確かに哲学は数字で出せるものではないです。そうしたらソクラテスの代で解決されています。そしてその思想を否定したり、否定された思想をこれまた肯定したりそれを否定したり…。時代を経てえんえんと繰り返されてきた思考スパイラルの、醍醐味だと思うんです、「答えがみつからない」ことは。 確かに数学はどんなに遠回りしても答えは一つのところに行き着く。その過程を楽しむ人もいれば私のように数字アレルギーな人にとっては(←赤点免れるために父に山小屋に閉じ込められて特訓うけたせい)。確かに「我想う、ゆえに我あり」も一つの答えかもしれないけれど、私が最近ある質問に対してした回答に「自分のフィルターによって世界はいかようにも変化する」と投稿したのですけれど、哲学や心理学はまさにそんな世界だと。もしPCのように二進法で決まる世界ならこんなに混沌とはしていない。逆にPCほど不安定な道具はないと日頃から感じていますし。 ただカテゴリの選択、そして質問の内容については、投稿者の方も様々な考え方もあるでしょうし、新たな質問であっても、過去ログでは見つからない微妙なものだと思います。例えばパソコン関係のQAサイトのように、あまりにも初歩的で回答がわかりきっている質問だと検索を勧められるのがオチかと思いますが、哲学のように回答者も答えを共に探し続けるカテでは、まったく同じ質問であっても、まったく同じ回答がくるとは限りませんよね。私も様々な質問で日々勉強させてもらっています。単純な問いほど奥が深いし。 ですからあまりご立腹なさらないほうがよいかと、いらぬおせっかいを感じてしまいました。 心配しています。何かあったのではないかと。勝手な想像ですみませんが…。 このコーナーではとても充実した時間を持たせていただいて感謝しています。ありがとうございました!!
補足
(ANo.37の続き) そうですね、子供は大人の奴隷だと思います。肉体的経済的精神的すべてにおいて。精神世界では「子供はそんな親を自ら選んで生まれる」そうです。では虐待されて数日の命を殺されるのも意味があるのか?私は前ここでそのような質問をしました。でも輪廻転生の法則からいえば「時間」ではないのでしょうね。「意味」なのでしょうね。でもまだ親を親とも認識する前の時期になぜすぐに「帰宅」しなければならなかったのだろうと。出るところ間違えた?まさか。だとしたら私が選んだとはいえ、間違えたと思いたいのですが、でもそうしたら「意味」ではなくなってしまうんでしょうね。今私がこうして私であるのは、彼らのもとに生まれる必要があったからでしょう(肉親を反面教師として。世間を教師とするために)。古来からのことわざでは「三つ子の魂百まで」とありますが、最新の発達心理学でもそれは裏付けられています(よく思うのですが、ことわざって、後になってその真実性が明らかになりますよね。不思議。面白い)。親なる存在が肉体の原点だとしたら、精神の原点は影響をこうむるけれど、それに気がつくのは魂の目覚めだと思います。そこからが本当の誕生、第二の生だと。その出産を手伝うのが例えば悟りや愛や、カウンセラー。私はまだいづれにも出会えていませんが。 親という存在の、子に対するあの万能感はいったいどこからくるのでしょう。健康な命を与えたから、後年もずっと健康でいる、だから病気になったときには信じられないという理論なんですよ、うちの親は。責めるべきはウイルスでしょう(笑)。あたしだって免疫さがるときありますよ。虐待する親は虐待されてきた子であるという連鎖もあるようですが、それは身体的虐待ならず、精神的、思想的虐待もありますが、まさに負の遺伝。そんなところに許容の余地(子からのやさしさ?)はありますが、ではこのやさしさも、正の遺伝だとしたら、それこそこの拮抗状態はどのように処理したらよいのでしょうか。とくに「母性本能」を信じて疑わない母は免罪されるとなれば喜びましょう。しかしその裏には平気で子を捨てることのできる魔性が潜んでいることも知っています。子は親のその顔の使い分けを見破ることがうまいんですよ。知りたくなくても「勘」が働く。……