- ベストアンサー
なぜ「紙一重」なのでしょうか。
この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてると思うのですが、「二律背反」は「紙一重」というのは何ゆえにでしょうか? 泣いたあとすぐに笑うことができるし、幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。この間はなぜ表裏一体なのでしょうか。 上手く説明できなくて済みません。補足させていただきますので、哲学や宗教のみならず様々な分野からの意見をお待ちしております。
- みんなの回答 (41)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>「ああこれでつらい私の人生も終わってくれる」と思ったくらい。小学生の分際でね(笑)。 本当に親って何なのでしょうね。これを考えるとき「神」って何なのだろう?と考えが移って行きやすいです。どんなに辛い家庭でも子どもは逃げ出すことができない。どんなに虐げられた者でも、この世界から逃げ出すことはできない。 私は世間でよく言われる「自分が生まれて来た意味」を求める手間はかけずに済みます。はっきり見えているからです。『大きな惑星』がfrauさんにしか見えなかったように私にしか見えていないようではありますが。しかし意味は見えても、価値があるのかないのかは、さっぱり分からないんです。 >それでも敬虔なんでしょうか 無神論者よりは、少なくとも私よりは十分敬虔です。無「神」論者ですからね、これだって、サルトルがカミュを揶揄したように、なかなかのもんですよ。一等キョーレツなのは「眼中にない」ってやつですから。これはこれでまた大いに不審ですがね。 >でも神様、もう少しお手柔らかに…。 全くですよ!製造者が製造物に対して責任ゼロなんて納得できますか? 『大地震や大津波を起こすんじゃない、こりゃ!』 と言いたいですが、ヒトに 『トイレ行くなメシ食うなオナラするな!』 と言うのと同じなのか知らん。 善悪の彼岸なんてお構いなしでしょ台風の目みたいなものなんだったら。ひょっとしてヒトに善悪の概念があるってことは「神」にもあり得る? 『地獄極楽この世にあり』 どん底でもがいてたころ、吹く風にさえ怒りを募らせていました。で、最初に書き込みした回答文には 『神様なんて、どわいっ嫌いです!』 って書いたんです。で、 『あ~あ書いちゃったよ~』 とか思いながら投稿しようとして吹っ飛ばされました。いいもん、私は「仏様」の背中にかくまってもらうもん! やはり私は御釈迦様に倣って「神」も修行修養が必要な発展途上の存在としたいです。 でも、やっぱり分かんな~い??? 長々と、ああでもないこうでもないと言ってた割には、これが結論なんですね・・・。ふっ、やれやれ。 すっかり長居をしてしまいました。楽しかったです!!
その他の回答 (40)
- type2006
- ベストアンサー率0% (0/1)
Frauさん、 >アイディンティティ 「アイデンティティ」が、正しいと思うのですが…
お礼
お礼が遅くなってすみません。 ご指摘のこと、発音そのまま文字にしてしまいましたた。 「アイディ」ではなく「アイデェ」と発音すべきですよね。 ありがとうございました。
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
ここで回答させてもらっていることで 自らが整理されていきます. 人は独りでは生きられない. 周りとの関係性の中で生きる以上 微かであっても繋がりを感じるということは大切なことですね. 以上.問いの二律背反と紙一重の回答にはなっていませんが. ありがとう
お礼
煩悩ばかり、悩みばかりの私も、ここで回答や質問をさせてもらっている中で、自分の考えが整理されていきます。 ネットはいろいろ問題もありますが、こんなとき技術の恩恵を感じずにはいられません。顔も素性もわからない世界の人とこのようにして「心同士」のリンクができるということは、心の文化もぐんと促進するでしょう。 世界にあふれている多彩な素材…それをいただき、私も与えることで、すごく豊かになっていることと感じています。顔も声もわからない交信だけれど、これは普通の文通ではありませんか。これは単に不特定多数との瞬間的、世界規模の交通を整えているだけにすぎず、内容はいたってシンプルなこと、人がアイディンティティを保つための必然性、「社会」を数式の世界でも成立させていることだからです。バーチャルなという言い方は好きではありません。このサイトの特徴のように皆さんが真摯に向かいあう限り、生きた声によって与え合うからです。 おっしゃるようにこうして私も生かされています。 (注:これは「ネット依存」ではありません(笑))
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
二律背反は神一重
お礼
漢字、間違っていただいてありがとうございます(笑)。 私がそのような質問をしていながら、自らその中にそのような答えが隠されているとは思いも呼びませんでした。 「神」が核となって司る「紙一重」の二律背反を、一文字置換するだけで、すべてが表される。うーむ、なるほど!
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
やっぱ書いちゃいます。 >ところでここももう締めないとと思っていますが ヤダ~ンそんなこと言っちゃ。ずっとお話していたいです。いっそレスが100個くらいになるまでガンバッたら本になるかも?? >もうそろそろご迷惑だと アタシはぜんっぜん、そんなこと思ってないですってばあ~(シナッ) とまあ、それはさて置きfrauさんも、たいへんですものね。私も、もう少ししたらOKウェブそのものに参加できなくなるかも知れません。勉強になるので、たまには覗きたいですが。 >白雪姫さんて、すごい劇的な人生を歩んでらっしゃいますよね はあ、昔、人に言われたことあります。 『いーなあ、波乱万丈でー』って。確かに退屈することだけはなかったですが退屈でも人並みに幸せなほうが、ずっといいです。恐怖のジェットコースターから降りることも叫ぶこともできなかったら自分の正気を保つ努力だけで精一杯です。ジェットコースターとは精神状態ではなくて人生のことです。私自身は至って物静かなお人柄だと自負しているんですが周囲が騒がしくてしぶとくてエネルギッシュな連中ばっかりなもんで・・・。ここしばらく短期間ながら徐行運転状態だったですが、そろそろスピードが盛り返してきそうな・・・最高速度に入ると『きょ~~~!!!』ムンクの叫び状態で(つーか叫ぶ体力もない)到底まともなレス返せないですから。 >すごい大きな惑星か、火の玉のように燃えながら西の地平に落ちてったんです。そこらへんがぱあっと明るくなったほど な、なんだったんでしょうね?これに似た話って聞いたことあるような気がしますが・・・。 後ろついて歩いてるはずがフと振り返ったら 『あ!おらん!!』とか。コワイですね~。 こういうとき、あくまで手持ちのリクツのなかで済ませようとする人なら 『どこか隠れてるのかな?おらんな・・・分かった、地面にもぐったな』 『隕石か人工衛星か』 『でも、あんな大きいのが、ぱあっと明るいのに他の誰も気がつかなかったのは何故?』 『一時的に失明したか気絶してたんだろう』 苦しいですよね。 『いーえ隕石も人工衛星も、私が見たのは、そんなもんじゃありません!!』 って自分が持った印象に固執するのも知的態度とは言えないと思います。 これまでに人類が突き止めてきた事例のなかから、それらしいものをピックアップして済ませるにも限界があるし分かってないことが多過ぎる。 自分の五官にしても全幅の信頼を置くには頼りない。自分の脳みそのなかで何が起きてるかも定かには分からないのですから。 哲学カテのどこかで 『世界というものは自分の意識によって変容するのだから自分が死んで消滅すれば世界もなくなる』 というような意見を見かけたことがあるのですが死ぬって何?消滅ってするの?まあ世界の範囲をどう定義づけるかが先決問題なんでしょうけど、これでは自分の意識が世界のすべて、で終わりですね。 心理学カテで御質問なさっていた『専門家が癒される方法』に寄せられたkaitaradouさんの御答を拝見しながら思いました。心理学或いは精神分析においてでしょうか「対象化し分析し理解することで、ある症状が解消される」効果というものがあるそうですが、そのリクツで行くと 『あっ分かったぞ!!』と言い終わらないうちから 『ああ脚が・・・腕が・・・心臓が・・・顔が・・・脳が・・・』 どろ~~ん。そして誰もいなくなった。ちゃんちゃん♪となりかねないわけでしょうか。消されてしまった最初の書き込みは、いま書いてる、この文よりも、もっと緻密でしたが、ある意味やばかったのでしょうか。分かった、と思うその瞬間から消滅するなら、なるほど我々は永遠に『真理』をこの手でつかむことはできませんね。 「二律背反」が実体であろうとなかろうと「森羅万象」がマーヤーであろうとなかろうと「仕組み」が解明できても「どろーん」にならないのは、ひとえに仕組みが存在することの必然性の有無が分からないままだから? かくて蜃気楼のごとき外界からシャッターを下ろし「気にしない気にしない」と己をなだめる。なぜ?なだめないと苦しいから。 仕組みは分かった、コツも分かった、でも何故なの? (一旦ここで送信します)
お礼
(お久しぶりです。私の方こそしつこくなってしまいってすみません。でも前回途切れたので、約1ヵ月後、こうして繋げて締め切ろうと思いますので、もう少しご辛抱ください。ナンカグチ日記のようになってしまいますが…。でもこのサイトのこのカテって私にとってある意味そうなんですよ) つまり主体でなんぼ。それは観念という粘着的で強く、そしてなんて脆い実体性と虚構性。思い込みほど重く、やっかいなものはありません。幽霊の実体は肉体ではなく「念」という実体がその正体ですから、霊障によって人さえ呪い殺せますから怖いものです。先にも申し上げたとおり、心の病も思い込みによるところが多いのです。全てといってもよいでしょう。だから何で「肉体」ってあるの?と思います。ショーペンハウエルの「虚無主義」のように、この世はすべてが虚しいのであれば、物質の世界はもっと虚しいはず。では精神だけで存在することはならないのか?肉体があるから、苦も増える。あ、そうか。精神だけ解放されれば、その自由になった身分はいろいろと悪さをするから、肉体で縛るんだ。ということは、肉体の数だけ個性が存在し、この世の「混沌」は「限定」されている?でも現にこれほどまで現世は混沌の世界。仮に精神だけ存在する場所としたら「より混沌」となるのだろうか。込み合わないために「肉体」のストッパーがある? また思考スパイラルに陥る、夜は更けてゆく…★★ でもね、白雪姫さんは本当は神様好きだと思います。過酷な人生が少しそ思わせているだけで、本当は心やさしき人だと思いますから。
補足
(ここからお読みください)この広い世の中の片隅の、広いOKWebというサイトの片隅で、顔も知らない私たちはこうしてお話をしていますが、私、とっても救われているんですよ。 >レスが100個たまって本になるかも (爆)。「例の本」ですね(笑)。でもこのサイトに参加できないとはなぜでしょう?それこそすごい淋しいですよ。そんなこと言わないで~(泣)。 白雪姫さんの言葉って淡々とした中にすごい深い意味含まれてるんですごいなーっていつも思っています。やはり波乱万丈の人生は人に言葉を与えるのですね。私は山田詠美が好きなんですけれど彼女が斉藤由貴(古いっ)!が本を出したとき帯に載せるための言葉を贈ったのですけれど「彼女は透明になるつどに言葉の澱を必要としている」と正確には覚えていませんが、苦しみを乗り越えるたびに言葉を生んでいっているというようなことだと思います。「本当のいい言葉というのは、難しい言葉を用いるのではなく、簡単な言葉で人に伝えることができるということ」と、「複数のお互い関係のない人」が共通して言っていました。それよりも問題は複数の人が共通して言っていること=真実か?ということです。これは民主主義の多数決主義と同じことですが、それでは民主主義が真実?ということなのか?という新たな疑問が生じます。今呼び起こされたそういう疑問と、白雪姫さんの言う「身体がどろんしてしまう」、という実体のなさについてとリンクすることがありまして、最近カテで、とても興味深いテーマが投稿されました。そのANo.5の方の回答なんですが、ショーペンハウエルの「虚無主義」ということについてです。私も人生は何て虚しいのかと感じたことは数え切れないほどあります(というか、この人生自体主観的に虚しい)。 ユングの言葉に「心的現実(サイコリアリティ)」という言葉があるのですが、自分の見る世界によって心が形作られるということです。それが心の病気の原因にもなっている。病気ならずとも、この世はおのおのの妄想や幻で成立しているとても曖昧で身勝手な世界でしょう。例えば戦争は「闘争本能」ゆえだといわれていますが、それは身勝手な人類の自覚を認めてしまうことへの言い訳でしょう。単に世界観の違いなのではないでしょうか。(催眠術では記憶も書き換えられるというから、私はマジで望みます。全ては記憶によるのだから。人生相談の究極の解決方法って「記憶のリセット」、それですよ、それ) その『世界というものは自分の意識によって変容するのだから自分が死んで消滅すれば世界もなくなる』というのは当たり前のことといえば当たり前ですが(笑)、皆気がついていないようで真実がそこにあるのではないでしょうか。よく悩んでいる人への助言に「あなたが変われば世界も変わる」というのがありますよね。究極の助言でしょう。恋人の浮気に悩んでいたら、現実的には「別れちまえ」「それでも好きだったら仕方ない」などいろんな意見がでるでしょけれど(たとえば「恋・人間関係の悩み」カテ)、もう一段階高尚的にそのように言うこともできる(「哲学」カテ)。でもこれも曖昧なんですよね。だって浮気する相手は変えることはできないけれど、代わりに自分が変われば相手も変わるということは、では例えば「浮気を大きな心で許せる自分」「自分のために別れを決意する自分」になれるということは、「別れる」「許す」という現実的、具体的なことが高尚的、抽象的な言葉の中に含まれているからです。だから後者はとてもいい加減(笑)。「別れる」か「許す」か、いずれも選択しなくてはならないのは自分の意志によるところですが、その曖昧な言葉の中で、その意志が明確に力を与えられるところではないでしょうか。だから言葉のもつ表現力や響きってやはり大切だと思います。言霊ってやはりあると思いますよ。言葉の中に棲む霊性なるものによって科学の進歩以前に人類や文化や文明も発達してきたのではないかと。はじめに主体ありき。でも客体あってこの主体が生かされるのならば、客体への「主観性」つまり、「思いやり」ですね、これこそが「主体への課題」なのではないでしょうか。ここでまたまた私の好きな「神」がでてきますが(笑)、その質問者とは「神」のことです。そこでまた「客体」が生かされる。それによって主体と客体双方で成り立つ「世界」も生かされる。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
またまた、こんにちは! う~ん変なことを言うようですが・・・ 実はさっきまで、もうこれが最後かなと思いながら、またぞろ長い書き込みをしてたんです。きょうのは「神」という存在に関して、これまで以上に私の本音を、ぶちまけてました。はっきり言って悪口です・・・。そして投稿しようと思ったら、その悪口を含めて、きょうの投稿の核心部分が、ごっそり消えました・・・。これが初めてではないんですよ。これまで投稿したなかにも「突然吹っ飛んじゃった」って、ぼやいてるのがあったでしょう。きょうで最低3回目にはなってるかな。いずれも「神」に関する考察部分です。この前までは、くやしくって気を取り直して投稿やり直したんですが・・・。きょうのはホントいままで誰にも言わなかった私の本音です。で、その部分を何とか戻せないかと「戻る」クリックとかしてたら残ってた部分も消えてしまいました。 オカルトっぽく捉えたくはないですが、いつも「神」の本質に関する考察部分を含んでると吹っ飛んでしまうんですよ・・・! クヤシイ。書き直したい。でも・・・。分割して送ればよかったなあ・・・
お礼
こんにちは~!! 私もよくありますよ!長いこと書き込んだのに一瞬にして「とんだ」こと!さーっと汗が引くという感覚でしょうか。一瞬とても涼しくなる(笑)。 でも神様の悪口、ききたかったですね(笑)。
- zenzenzen
- ベストアンサー率1% (1/67)
二項対立による葛藤,拮抗状態が極限に至り悟りに至るというものではないと思います. そういった状態がずっと続くものではないということに気が付くということです. 葛藤や対立は,自己の内部においてにしろ,外部においてにしろ“こうあるべきだ”“こうあって欲しい”といった今までに所属してきた社会による刷り込まれた規律や生における色々な欲望に“固執する”がために起こります. 人は成長の過程で,社会構成の為の決まり事や生きる為の知識技能を身に付け社会に出ますが,現実には刷り込まれた規則や論理と違うことが起こり,それを主張しても相手に更生してもらえなかったり,それをぶつける相手が不在であったり,その気持ちを言葉にできなかったりする時に怒りは湧き起こるものです. 怒りも喧嘩も戦争も,すべては自分が正当だという考えに“固執する”ことから起こります. 子供の頃は自己の欲求を満たす事と,その抑制とのバランスを学びながら成長して行きますが,現代社会を構成する国や企業や大人社会が,必ずしも自分が学んできた良識や今までの通念によって成り立ってはいないということや,価値観の多様性によって,我侭による欲求不満なのか社会的な良識に反することによる不満なのかの境界がはっきり解らなくなってきていて,そうした中でとても子供が育てにくい状態になってきているのも事実です. また本人自身も自己の価値観やアイデンティティの確立をどこに求め,形成していくかとても困難になっているように思えます. 禅は交流分析で言うところの“A”なる部分を観自在なる観照者として認識し,そういった今までに刷り込まれてきた反応性や記憶,その時の感情などを検証し直すのにとても有効な手段であると思います. 現実に起こった1事例を元に“何故そのことで私は怒ったのか”を徹底的に自己の内部で検証することはとても重要です. 自分独りだとそれが自分の納得いくところで納得してしまいそれ以上進展することはほぼありませんが,多人数のところで意見を出し合いながらいつまでもそれをやり続けると,ある“気付き”に行き着きます. それを自分で気付くことが大事です. その経験が以後の“怒り”を起こさなくさせます. それを知れば “二項対立は一生のテーマにするほどのものではない”と思うと思いますよ. 私もつい最近その機会に恵まれたのでした. 私はとても遠回りをしました. でも感謝してます.
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
確かめてみたら『自殺について』は、しょーぺんはうえる先生でした。^^;うろ覚えはいけませんねえ。私としたことが。←私だからやろ!(セルフ突っ込み)
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
お早うございます!きょうは長文になり過ぎないよう努力してみるつもり・・・です。^^;もし私たちが顔つき合わせたら夜が明けるまで語り明かすのでしょうか・・・。 「くらげ」って脳みそないらしいですね?でも身を守る本能は備わってるそうですね。フシギ~。密林のなかとかにおっぽり出されたらヒトなんて、あっと言う間に「えさ」と化すでしょうね。猫のように鋭い爪ひとつ持たない、脳だけが最大にして唯一の武器。なんて奇妙な生き物。「くらげ」と対極をなしますね。 「パスカル」って、むか~し昔、大学落っこちた頃『自殺について』っていう本読んだことあります。ア~パ~の叔母(母の妹)に題名見られて「んまー、なあ~に?この本・・・あんた何だって、こんなの読むのよ~」って言われました。 「葦」かあ・・・。流れる白い雲を見て憧れてみたり、冷たい風に吹かれて激しくお辞儀を繰り返しながらプルプル震えたり、やがて津波が押し寄せて来たら逃げ出すすべもない自分を凝視しながら「サヨナラ!サヨナラ!!」って叫びながら飲み込まれていくのでしょうか。 「普遍的無意識」ですが猫たちに、それ感じたことあります。昔、実家の庭に居着いてたノラどもですが。テレパシーって言ったほうが正確なのかなあ。「連中、意識を共有してるな」って分かります。 ところで「睡眠」で思い出したのですが、ここの回答No.26で書かせていただいた私が見た夢のことです。「夢」に関しては私も個人的に不思議な経験が幾つかあるんですが先に述べました夢の話、実は続きがあるんです。「仏壇のなかから母の声が聞こえていて・・・」と書きましたが、その母の声が告げていたことが後日、現実になってしまいましてねえ。 私は、いわゆる「オカルト」的なことって本来あまり信用したくないほうなんですが亡母が自他共に認める、いわゆる「霊感の強い人」だったのと私自身が長いこと病気してた頃から、ちょっと理屈では考えられないようなことを二、三経験してるものですから、「神様」の問題を含めて、いわゆる霊的な、としか言いようのないことについては断定することを避けています。まあ、見えないから無い!っていうのもガキっぽいと思いますしねえ。 母の納骨のために父の里である千葉県へ骨箱抱いて飛行機に乗ったんですが飛行機の小窓から空の彼方を眺めていると地上からは見ることのないような淡い淡い独特の水色で「いま、こうして骨箱を抱いて乗っている、この飛行機の外側を流れる気流のなかを、荼毘に付されて分子や原子のレベルに還元された母の肉体も漂い流れているんだろうか」と思ったことでした。 肉体という物質も本当には消滅しない?ただ、この地球において分子や原子に還元されていく・・・。ならば、その内側を満たしていたものは? 「火」は究極の浄化ですよね。だから煩悩たっぷり人間は「火星」行き?? ところで「エドガー・ケイシー」ですが、難しいですか?!特に学問したわけでもないフツーのおっちゃんだとききましたが・・・。 「動物の魂は~人間になれない運命」とありますが、その逆も不可なんでしょうか?? いや~だけど難しい本山積みだなんて大変ですね。私なんか「金はこうやって稼げ!」「これでアナタもお金持ち♪」てなジャンルの本ばっかですよ・・・お恥ずかしい限りです。ドストやニーチェを読んでた私は何処に??(;;実に堕落ですな。実に。これでも昔マザー・テレサに弟子入りしようかと思っていたことあるんですよ。でもインドに着いたとたん、おなかピッピになって(お腹弱いんですぅ。でも最近は傷みかけた物食っちゃってもダイジョーブみたいです・・・涙)病人のお世話するつもりが自分が看病されて終いに「アンタね・・・もうイイから日本帰りなさい」ってマザーに言われちゃうだろうなーって思って諦めました。 ところで「DNA」は恐るべき生物ですか!?我々は体内に異物を飼ってるようなものですか??DNAって、プツッと一本に裂いたら、どうなるんでしょうねえ。使い物にならなくなるんでしょうねえ。 私は赤ん坊の頃、顔見ただけで誰の子か分かるからオヤジの会社の前に捨ててきてもダイジョーブだと言われたくらい父親似です。多分、男女差を考慮しても尚且つ脳みそのタイプも父に似てるだろうと思います。(いまいましい限りですが)にも拘らず私は親とは「魂の住処」が別個の人種に感じられてなりません。DNAも詰る所物質ですが、スピリットは?? クローンもDNAは同じでも結局別の人生歩むわけで同一人物とは違いますね。つまりクローン人間と言えど「スピリット・フェイス」は別である。 「神の尊厳」ですかあ・・・。frauさんは何だかんだ言って、敬虔ですねえ。まあ、人間は神様の仕事、増やしちゃってるんでしょうね。 「なんだー?クローンか・・・これはさて木星ゴミか土星ゴミか、はたまた金星ゴミか。あーメンドー、いいや火星ゴミにしちゃえ!」ってゴミの分別かっ!!クローンだと差別されるのかな・・・神様にさえ。自分のクローン人間つくる人なんて究極のナル?! 最後に右往左往じゃなくて右脳左脳ですが、これに関して哲カテ「なぜ思い出すことができるのか」でANo.8 BABAaさんのアドバイス、興味深いです。 突然ですが、ちょっとスペースお借りします。 >白雪姫さん、ブラボー type2006さん、お褒めに預かり光栄です。 やっぱ長くなっちゃった・・・
補足
お久しぶりです! まずは訂正です。エドガー・ケイシーの前世の本を読んだのではなく、「シュタイナー教育」のシュタイナー先生が書いた本でした。謹んで訂正いたします。 ところでここももう締めないとと思っていますが(笑)、でも新しい回答者の方が訪れてくださるのでなかなか…。もちろん白雪姫さまとの文通も続けたいのですが、もうそろそろご迷惑だと思ってもいます。 >「火」は究極の浄化ですよね 私は今まで「水」ばかりだと思ってましたが、思い起こせば、日本のお焚きあげの行事もそうですし、いぶされた炭の上を歩く儀式とかありますし、お寺にいくとお線香の煙を浴びるということもありますよね。でも今最も新しい人類の住みかとして火星が候補になっていますが、火星がそのように浄化作用もあるのならば、人類のカルマも浄化されればいいのではないかと思います。 でも白雪姫さんて、すごい劇的な人生を歩んでらっしゃいますよね。ご家族のこととか、すごい神秘的。私は神秘的なこととても興味があるのに、霊体験とかまったくないんですよね。でも昔小学生のとき、家族と 夜道を歩いてて、私が彼らについていくような感じで後尾に歩いてたんです。そのときふと、夜空を見上げたとき、すごいものを見てしまったんです。それはそれはすごい大きな惑星か、火の玉のように燃えながら西の地平に落ちてったんです。そこらへんがぱあっと明るくなったほど。私は一瞬「あ、これで人類は滅亡だ」と思いました。でも家族はまったく何もなかったように歩いてるし、地球滅亡はご存知のとおりありません。 あれは…なんだったのだろう…。 でも不思議にそのとき怖くはなかったんですよ。むしろ「ああこれでつらい私の人生も終わってくれる」と思ったくらい。小学生の分際でね(笑)。 クローンのことに戻りますが、コピーされてても、魂は決してコピーできないと思います。でも双子は、魂の繋がりを感じることができるそうな。 私はなんだかんだいっても、最後は「神」にいきつく。なんでもかんでもわからないことの源を神の一存にしてしまっているかもしれません。それでも敬虔なんでしょうか、やはり。敬虔というと、神は細部に宿ると思っているので、物を捨てるときに罪悪感があるとか、神を恐れぬ行為をすることに対してものすごい畏れがあるというか、やはり恐れ多い存在としています。もちろんそれは何々宗教の何々神様とかではなく、存在としての象徴としての神、ですね。 前に私は「神は孤独」であるといいましたが、撤回します。私たちはこうして神について考え、語り、一方的な双方向的な問いかけをしている限り、神は決して孤独ではないと思いました。 でも神様、もう少しお手柔らかに…。
- type2006
- ベストアンサー率0% (0/1)
余談ですが、ジレンマの「渇望と嫌悪」の例です。 いくら好きな食べ物でも、そればかり食べているとすぐ厭きてしまいますが、 しばらく食べていないと無性に食べたくなります。 私は飽き性なので、この中庸を保つのが難しい… (´-`) 油断すると、何もかも厭きてしまいそうです。 ここは、大丈夫そうですが (´ー`) お腹空きました… _| ̄|○ 何を食べたらいいか… (_ _) 〓■● ↓白雪姫さん、ブラボー!(*≧∇≦)//☆パチパチパチパチパチパチパチパチ!!!!!!!! 深いゝ森の奥…
お礼
お礼が遅くなってすみません。 またきてくださって嬉しいです♪ 挙げてくださった「渇望と嫌悪」確かに見覚えありますね(笑)。 「慣れ」って嫌悪になりますし、「好き」も突き詰めれば「嫌い」になりますね。そうすると突如として「渇望」したくなる。 「イヤよ、イヤよも好きのうち」これも?! 確かに「慣れ」や「飽き」から元の状態に戻るとき「中庸」なんてまったく意識しない場合もありますね (とくに食欲関連は…)。 PS.私も白雪姫さんブラボーです。 参考になりました、ありがとうございました。
- sirayukihime
- ベストアンサー率30% (63/207)
シツコクて御免なさいね。何だかfrauさんの用事を増やしてるみたいで申し訳ない・・・私自身ここに参加させていただくことで錆びついた頭の整頓をさせてもらっているのですから私に対しては決して御返事に義務感をお持ちにならないでください。でも、いただくと、やっぱり嬉しいので、どうかくれぐれも、お時間にゆとりのあるときに・・・。間が空いたって全然平気ですから!(暗に期待を匂わせてますね。^^;でも気にしないでください) 『神や人や生命や宇宙や哲学や心や魂について皆どうして語ることを恥ずかしがるのか』 理由は幾つか考えられますが「恥ずかしい」うちは余裕があるということだと誰かが言っておられました。これは恋愛についてのことばだったんですが。哲学の母体って苦しみだと思います。だから宗教とは兄弟分なんでしょうね。哲学に対して冷淡な態度をとれるのは、それほど苦しまずに済んでるからなんでしょうか。ある面、結構なことで羨ましいような気もします。それに、ある種の恐れを感じているようにも見受けられます。それこそ「ロゴス」号なる小舟に乗って茫漠たる宇宙に漕ぎ出すようなものでしょう?普段からクルーとしてのトレーニングを積んでいないと怖気づくのも無理ないと思いますけど一番の理由は日常の雑多な義務に追われて、めんどうになっちゃうんでしょうね。思考も、なかなかエネルギー要求されますから。 うちの近所に宗派は知らないんですが小さな教会がありまして、そこの玄関先に 『すべて疲れている人、重荷を背負っている人は私の元に来なさい。私があなたを休ませてあげます』 というようなことばを書いた立てカンがあるんですが、以前ここを通るたびに、それを見ては、じんわり涙目になってしまって困りました。ですからキリスト教に嫌悪感を持つことはできないでいるんです。このことばが真実イエスのことばであるなら、その精神はお釈迦様のやさしさと変わりないものだと思うからです。聖書が紆余曲折を経たあげくに荒唐無稽でキテレツなものになってしまったとしても、それこそが『狭き門』であり信ずることを試されているのかなと思います。勝手に想像してるだけですが・・・。高校生の頃、倫社の先生が無知で生意気な私の「他力本願」攻撃にひと言 『本当の信仰というのは、むしろ厳しく主体性を要求されることだ』 と仰ったことを思い出します。あの頃の私は、その意味が飲み込めないほど本当にガキだった。 frauさん仰るところの『神様の孤独』 昔一人暮らしを始めて間もなくの頃テレビで「ジーザス・クライスト・スーパースター」という映画を見たこと思い出しました。見終わった後ヤボ用で外に出たんですがクリスマス・イブの夜にふさわしく晴れた夜空に星がたくさん瞬いていました。白い息を吐きながら映画のワンシーンを思い浮かべました。最後の晩餐のあと眠気に耐え切れず眠り込んでしまった弟子たちにイエスは憤ります。 『お前たちは私が、あす磔になるというのに、そうして眠るか・・・!!』 ああ、クリスマスはケーキ食べるための日じゃなくて「イエスの孤独」を偲ぶべき日だったのかなあと思ったこと、いまでも憶えています。 でも!私個人は「仏世界」を支持したいんです。「神に許しを乞う」よりも「仏世界」が出現することを支持したいんです。あなたはクリスチャンかムスリムかブディストかと聞かれたら 「ブディストです!」と宣言できるようになれました。仏教のお勉強なんて特にしてないから考えたら宣言する資格もないのか知れませんけど。信じるというより支持したいんです。無神論者のつもりだった高校生の私が見たら唖然とするでしょうね。無神論者から「厭神論者」に移行しただけかも。 私、若かった頃、世俗に振り回され目先のことに汲々として「哲学?文学?ハッハ・・・」なんて言うような大人にだけはなりたくない、って思ってましたが実際、虚弱なからだで親の(それも憎たらしい)介護等でヘトヘトになってたときは正直じっくりモノ考えてる余力がなかったです。そもそも先日も言いましたように形而上的な話題をぶつけられるような出会いに恵まれてるとは言い難かったので、ああ、私の人生って、このまま異邦人のなかに埋もれたまま終わっちゃうんだろうな・・・と諦めかけていました。 モーリヤック作「テレーズ・デスケイルゥ」のなかで『魂の身内』ということばが出てくるんですが、私は自分は一生かかっても本当の仲間に出会うことはないのだろうかと哀しい気持でいました。二、三この人は・・・と思える人もいたんですけど儚い縁でしたので。パソコンって、うっとうしいなあと思うこと多いんですが、この利器がなければfrauさんたちとお話しすることもなかったんですよね。不思議な感じです。 苦しみは哲学の母・・・多分、件の「某氏」も彼なりの苦しみを抱えていて、しかも女性に親しむ機会に恵まれなかったためにキゲン良く笑ってる女の子たちを見てると『俺が、こう哲学せずに居られんほど苦しんどるのに女ども、やけに楽しそうである・・・いったい連中は哲学してしまうほど苦しんだりせずに済んでおるのだろうか」などと思って純粋に知りたかったというのが本心だったんじゃないかと思います。だったら素直に質問すればいいんですがな。「ボクちゃん女性の考えてること分かんないで~す知りたいで~す」とね。ところが哲学のツールであるロゴをぶんぶん振り回して普段ため込んでるコンプレックスを体良く発散しようとしたのじゃないでしょうか。「それは、みっともないから、およしなさい」と皆さんに注意されたのに気づこうとしませんでしたね。 彼が言ってた哲学する理由、憶えてらっしゃいます? 『俺は死ぬのが怖くて怖くてたまらん、だから哲学せずに居られん』 死ぬのが怖かろうが生きるのが怖かろうが苦しみが喉元までせり上げてる人に、ことば遊びしてる余裕はないっすよ。だから「一分ほど息止めてみなはれ」って言ったら「幼児」呼ばわりされましたわ。^^;失礼しちゃうったら、ばぶ!! 『俺が女やったら思想したらい!!って思ったる』てなことも言ってましたね。せずにいられないのか野心の道具なのか。 『やんごとある姫君たち・・・~そは深き、深き表面』深き表面はアンタですからっ!! けど確かに削除は残念でした。皆さん、すばらしい回答を寄せておられましたし、せめてfrauさんの最後通告に対し、どう出るのか見届けたかった。『行けー!frauさん、ゴーゴー!!』なんてこぶし振り上げながら、ちょっと買物に出て帰って来たら「あぼーん」されてました・・・残念!! まあしかし本人のいないとこで、あんまりクサすのも何ですから・・・告白すると確かに彼に見抜かれたとおり私は・・・ハラかかえてました。斬り!!(意味不明) さて、ここからが本題です。なっながっ!!ウッウッ;;許してください。もう二度としません・・・ぼちぼちお読みくださいね。 最近このカテで『神は万能じゃ~ない』ということばを見かけたのですが、あり得る話かも知れないと思いました。 「二律背反」に代表されるところの錬磨の方策によって、おのおのが、より高いステージへと登って行くよう設定された世界であるとしたら、それは神人一如の法則により神自身、常に変動変化し続ける宿命を負っているのであり罪ある人間もしくは神にとって反抗的人間を切り捨てることでカタがつくものではなく何度でもリセットさせ何度でも生まれ変わらせねばならない・・・人間どんな善人、人格者でもミスゼロということは、まずあり得ないからエンドレスに転生し続けることになる。この世は、おのおの専用にプログラミングされた修行の場で、「死」という現象により一旦この地上を離れては、その修行ぶりによって「火星」なり「木星」なりの世界に振り分けられ、そこで仕切り直しと言うか気合を入れ直して次回自分が生まれる場所を取り決め(このとき早くアガリになりたいなどと欲張って、敢えて厳しいプログラムを組んだりすると、あとで自殺して逃げ出したくなる、とか。それさえ折込済み、ってことはないのかな)またぞろ、この地上に舞い戻ってくる・・・。とまあ、以上は私の想像とこじ付けです。まじめに受け止めないでくださいね。 frauさんは、何故自身がここにこうしてあるのか神様に会ったらゼッタイ聞いてみたいそうですが、私はと言うと、もうずい分前から、そういうのは気にしなくなってます。自身が何故、というよりは、この世界自体(厳密に言えば宇宙の外側も含めて全て)が何のために存在するのか何が目的なのかが聞きたいです。で、一番怖いなあと思うのは『いみな~いじゃ~ん』と言われることです。もし、そう言われたら即行いまの人生ストップさせてもらいたいです。本音言うと、ちょびっとでも甘い汁吸わせてもらってから・・・でも、そしたら意味ないままダラダラ生き続けてしまうかも。そして意味がなくてもイヤでも生まれ変わらなきゃいけないなら今度は人が入って来れないような深い深い森の奥で山猫かなんかに化身して、いや待てよ私、ねずみは食べたくないからリスがいいかなあ。何言ってんだか・・・話が逸れました。 多分リセットされた瞬間、神様に文句言う必要もなくなるんだという気がします。だからfrauさん、だいじょうぶですよ。(無責任) 脳を含む肉体が、その形を失ってのち再び新規に授かったとき、また一から積み上げられていく記憶と、生まれ変わり生まれ変わりしても無意識のレベルに受け継がれ保持し続けられる記憶とがあるとしたら・・・。 心理学のカテでfrauさんが質問しておられた『専門家が癒されるには』でしたっけ、あのなかでkaitaradouさんが興味深いことを仰っておられましたね。 『もし真実を知ってしまったら・・・。森羅万象の神秘のベールは剥がされて私たちの神は死んでしまうのでしょうか』そのときは多分、我等ももろとも。 私、少し前まで何が腹立つってカルマかなんか知らないけどイジワルされるワケがあるなら、どうして本人に、そのワケを、しっかり記憶さしとかないのかなあなんて思ってて、それが神様が、いけ好かない理由の一つだったんです。『千夜一夜物語』にも『神は嫉妬深きかたにおわします』っていうことばが、しょっちゅう出てきます。 でも、ここに参加してみて、いつの間にか考えることを放棄していた知りたくてたまらなかった「我々の知の限界の理由」それが、おぼろげに見えてきたような気がします。 とは言っても私は凡人、どんなに神のストーリーを展開してみても指の隙間からサラサラ、サラサラ・・・。 アメリカの人ですが「エドガー・ケイシー」というかたを御存知でしょうか。そう、眠りながら予言を行ったという。彼は敬虔なクリスチャンで東洋思想についての知識は特に持っていなかったにもかかわらず、なぜか、その予言は輪廻転生の思想に重なるものだったそうです。 また自殺した少年のお話で私も同じ年頃の、ある少女を思い起こしました。『地球のひみつ』?とかいう題名だったと思いますが、その絵本を書き上げた翌日、何の前触れもなく、こと切れていたという少女。その遺した絵本の内容は、子どもの手になるものとは信じ難いほど高度な内容のものだそうですが思うに少女は持てる力や実年齢の限界を超えるほどのパワーを自覚もないままに出し切ってしまったんだと思えてならないのです。当時、新聞やテレビで大きく取り上げられましたが亡母も『なんと不思議な子!』と目を見張っておりました。 いや~こんな長い回答文なんて前代未聞かも・・・こうしていると、また他にもお話したいことが出てきちゃう。いい加減失礼します。長文、御容赦ください。
お礼
私はユングが大好きです。ご存知かと思われますが、「意識」は氷山の一角で「無意識」は、その氷山の形どおり、水面下でつながっているんですね。これを「普遍的無意識」といって、そこは「全ての源」なんです。とても混沌で深遠な世界です。 心理学では意識のひとつである無意識(矛盾がありますがここにこそ神の世界があると思います。無意識は意識のひとつで、生きとし生ける存在は皆それぞれ持っています。心理学と宗教が互いにそれを意識しているのかどうかわかりませんが、「神は私たちの中にいるということと同義語だと勝手に考えました。「教え」では自分で答えを出しなさいという、例えばカルマの課題に沿った宿題のような考えで、つまり苦を喜びに変える方法はあなたの中にいる神がヒントを与えたもうという、「愛情ある突き放し」のイメージです。一方「無意識」は実存していて、そこへのアクセス権は自由です。 ここにコンタクトするには例えば睡眠で見る夢、催眠、瞑想、ヨガ、LSDなどの薬物などでみれますが、普段の生活でも、催眠状態に「普通に」入っています。例えば映画や本の世界に夢中になっていたり、いちいち意識していてはいられない行為、例えば車の運転ですね、アクセル踏んで、次はハンドル握って、ギアいれて等々、ひとつひとつ確認をとりながらでは行動がスムーズにできないことなどは意識せず自動に行っていますよね。この状態も「催眠中」です。またフロイト大先生は精神疾患はほとんどが無意識への抑圧で生じる身体や行動の、より苦痛な症状であると説明されています。無意識について少しご紹介させていただきましたが、まだまだ奥深い世界です。 私が神に会いたいというのは、無意識にダイビングしたい、ということでしょうか。大海原に、大空からダイビングするような感覚が欲しいのかな。それこそ「至高体験」ですね。もうそうなれば「悟り」でしょう。私はシャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」で精神世界に啓蒙されました。この本の副題である「愛さえも超えて」というのは、どんな状態だろう?と当初は思いました。精神世界に親しむ前は愛が最も尊いことで、愛以上に完璧な状態はないと思っていたのですが、クエスチョンでしたが、それはきっとこういうことだと知りました。
補足
こんにちは♪全然迷惑じゃないですよ!これはこの巨大サイトの片隅でやりとりする文通だと思ってますし、私が発信するときは恋文だと思ってますから!いつも楽しみにしております。 さて、また「つれづれ」してしまうのですが、哲学についてです。いつしかメインテーマの本流から別の流れになってしまいましたが(笑)、これも「哲学」であるからいいですよね! パスカルの有名な「人間は考える葦である」という言葉ありますよね。↓ 「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。…宇宙がこれをおしつぶすとしても、人間はやはり人間を殺すものよりも崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、そして宇宙が自分よりも優越していることを知っているからである。宇宙は何も知らない」 頭を少しでも強く打っただけで死んでしまったり、病気や事故におびえて生きているなんて、なんて弱い肉体を持った生き物だろうと思います。同時になんて強靭な葦をそれぞれ抱えているんだろうと思います。人生や運命においての過酷さは人それぞれ質や分量は違うのですが、人は有史以来、危険から身を守る知性も未熟な時代から、内外において過酷さや残酷さのおどろおどろしい事件の中で、大脳新皮質を武器にここまで歩んできました。それは科学万能主義の理性ではなく、生き続けることへの貪欲さでもなく、むしろ赤子のようにはかなげで、純粋で、生命力のあるものではないかと思います。見本当の葦のように、吹き飛ばされても可笑しくなく、一見弱いもののようですが実はそれはピアノ線のように強靭であるというイメージかな。 上のパスカルの言葉は例の高校のときの教科書からの引用ですが、こう解説してあるんです。 「人間は自分の弱さとみじめさを知っているがゆえに偉大である。人間は偉大と悲惨、無限と虚無のあいだの中間者であり、不安と倦怠の中に生きざるを得ない。パスカルは、この現実を直視する理性が最終的には自分を否定して信仰に賭けるところに、人間の救いを求めている」 この「信仰」というのは時代性からいって神などへの信仰のことなのでしょうか?私は「信仰」に代えて「自己」とあてはめます。神を信じたり祈ることはできても、結局自分を救えるのは自分、つまり「葦」だと思うのです。 フロイト大先生の言う「リビドー」とは本能の衝動のことですが、これは「生の本能」の他に「死の本能」も含まれています。死の本能とはエクスタシー願望のことだと思うんですが、私たちはその甘美さにも惰ちず、退廃的な生に抗いながら生きていますが、「それ」は本能とも理性とも違う。クラゲは波に揺られながらゆらゆらと自己主張しています。人の意志の強さってあるいはそんな感じのイメージ?でも「長いものに巻かれ」ている姿ではない。(そのクラゲ、今大量発生してます。)でもあんなふうに生きれたら!
お礼
さて、「つれづれ」やグチはマジでここらへんで終わることにいたします。長い間お付き合いくださりましてありがとうございました。そしてお疲れ様でした!! さて、最後に…。白雪姫さん、前の回答で「このカテにもう来られない」とおっしゃってましたが、えーっ何で!って思ってたんですよ。でも最近いくつかの投稿でお姿見かけました。なんだー、いるじゃん。でも「哲学とは○○である」という意見に対してだけは、こころ穏やかではないようですね(笑)。 確かに哲学は数字で出せるものではないです。そうしたらソクラテスの代で解決されています。そしてその思想を否定したり、否定された思想をこれまた肯定したりそれを否定したり…。時代を経てえんえんと繰り返されてきた思考スパイラルの、醍醐味だと思うんです、「答えがみつからない」ことは。 確かに数学はどんなに遠回りしても答えは一つのところに行き着く。その過程を楽しむ人もいれば私のように数字アレルギーな人にとっては(←赤点免れるために父に山小屋に閉じ込められて特訓うけたせい)。確かに「我想う、ゆえに我あり」も一つの答えかもしれないけれど、私が最近ある質問に対してした回答に「自分のフィルターによって世界はいかようにも変化する」と投稿したのですけれど、哲学や心理学はまさにそんな世界だと。もしPCのように二進法で決まる世界ならこんなに混沌とはしていない。逆にPCほど不安定な道具はないと日頃から感じていますし。 ただカテゴリの選択、そして質問の内容については、投稿者の方も様々な考え方もあるでしょうし、新たな質問であっても、過去ログでは見つからない微妙なものだと思います。例えばパソコン関係のQAサイトのように、あまりにも初歩的で回答がわかりきっている質問だと検索を勧められるのがオチかと思いますが、哲学のように回答者も答えを共に探し続けるカテでは、まったく同じ質問であっても、まったく同じ回答がくるとは限りませんよね。私も様々な質問で日々勉強させてもらっています。単純な問いほど奥が深いし。 ですからあまりご立腹なさらないほうがよいかと、いらぬおせっかいを感じてしまいました。 心配しています。何かあったのではないかと。勝手な想像ですみませんが…。 このコーナーではとても充実した時間を持たせていただいて感謝しています。ありがとうございました!!
補足
(ANo.37の続き) そうですね、子供は大人の奴隷だと思います。肉体的経済的精神的すべてにおいて。精神世界では「子供はそんな親を自ら選んで生まれる」そうです。では虐待されて数日の命を殺されるのも意味があるのか?私は前ここでそのような質問をしました。でも輪廻転生の法則からいえば「時間」ではないのでしょうね。「意味」なのでしょうね。でもまだ親を親とも認識する前の時期になぜすぐに「帰宅」しなければならなかったのだろうと。出るところ間違えた?まさか。だとしたら私が選んだとはいえ、間違えたと思いたいのですが、でもそうしたら「意味」ではなくなってしまうんでしょうね。今私がこうして私であるのは、彼らのもとに生まれる必要があったからでしょう(肉親を反面教師として。世間を教師とするために)。古来からのことわざでは「三つ子の魂百まで」とありますが、最新の発達心理学でもそれは裏付けられています(よく思うのですが、ことわざって、後になってその真実性が明らかになりますよね。不思議。面白い)。親なる存在が肉体の原点だとしたら、精神の原点は影響をこうむるけれど、それに気がつくのは魂の目覚めだと思います。そこからが本当の誕生、第二の生だと。その出産を手伝うのが例えば悟りや愛や、カウンセラー。私はまだいづれにも出会えていませんが。 親という存在の、子に対するあの万能感はいったいどこからくるのでしょう。健康な命を与えたから、後年もずっと健康でいる、だから病気になったときには信じられないという理論なんですよ、うちの親は。責めるべきはウイルスでしょう(笑)。あたしだって免疫さがるときありますよ。虐待する親は虐待されてきた子であるという連鎖もあるようですが、それは身体的虐待ならず、精神的、思想的虐待もありますが、まさに負の遺伝。そんなところに許容の余地(子からのやさしさ?)はありますが、ではこのやさしさも、正の遺伝だとしたら、それこそこの拮抗状態はどのように処理したらよいのでしょうか。とくに「母性本能」を信じて疑わない母は免罪されるとなれば喜びましょう。しかしその裏には平気で子を捨てることのできる魔性が潜んでいることも知っています。子は親のその顔の使い分けを見破ることがうまいんですよ。知りたくなくても「勘」が働く。……