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あらゆる学問は結局は慰めにしかならないのですか?
幸せであれば人間、これに越したことはありません。 人生は幸を探す旅です。また愛を求める心も原動力になっていると思います。 でも世の中不幸でも成り立ってます。また数的にはそのようが多いです。(幸福の条件も数も両手で数えられるが、不幸は多種多様だと思います) そこで宗教や哲学、心理学などの分野が生まれます。幸福になる技術や学問としても成り立ちます。 でも不幸に疲れたような私には慰めにしかきこえません。確かに辛いことがあったときに立ち直る参考になります。「人は皆神様で、相手を通して自分を知る」という言葉を見つけまして感動もしました。また「人生は苦しみを通して己れを学ぶ」などと言われても、「幸福になることは罪ではない。皆同じように平等である」という言葉もあります。先人達の格言には気持ちよく啓蒙されるのですが、それぞれの格言には矛盾があるように思われます。結局人はなんで生きているのか?という問題に立ち返るのですが、皆さんは矛盾だらけの世の中をどのように思ってらっしゃいますか? 素直ではない私に何か助言をください。
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- catgotcat
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今晩は。 さて… 貴方の感じているものは、甘えなどではない。 むしろ正常とも言えるくらいだろう。 現在、なぜこれほどまで世界は悲惨なのか… もし、悲惨ではないと言うならば、それらは外道である。 あー因みに外道とは、 人間を潰してでも、経済を生かそうとし、 地球を潰してでも、人間を生かそうとする輩である。 私的な見解では、この悲惨の原因は、 『幸福とはなにかということを見誤った』 ことにあると観ている。 ならば、幸福とはなにか? 幸福とは『生きても生きなくても同じだという状態』 のことだ。 これは、『無常性をその生の基礎』とする精神のみが、 獲得する。 ところで、東西を問わず、叡智を得た者は、 絶えずこの世の無常を語ってきた。 しかし、ほとんどの人間はそれに気付かぬか、 それに気付いたとしても、観ないようにと、 誤魔化しの代用活動を営んできた。 (学問もその代用活動の一環と言えるだろう。 だが皮肉にも学問自身が再びその欺瞞を暴き、その無常を自身につき付ける事となってしまった。 まあ、だから学問は無駄じゃないな… でも、つき付けられたことに気付く人間も少数だな…) ここで人々は、その無常を覆い隠してくれる、 有難い代用活動を持続させるのに、 幸福といったものの本義をすりかえなければならなかった。 なぜならそれらの本義は、 無常を観ること、観ようとせぬ者、 ましてやそれに気付かぬものにとっては、 その生を否定するものにすぎないからである。 で、すりかえられた幸福を追究し、 その代用活動を元気に営む輩の存在を支えているのは、 この生存における有限的な要素である。 だが、これらはとどのつまり私たちの生そのものを、 肯定しはしない。 なぜなら私たちは、生存的な要素によって否定的になり、 無常性の獲得によって肯定的になるからである。 これは、私たちにとって、この生を奪われることが、 正しいと思えてくる故である。 つまり、貴方のその絶望感は『いい絶望(笑』だと言える。 無常性の獲得のプロセスだろう。 代用活動に日々追われて、 この世の悲しみを感じ得ない人間など、 所詮外道である。 7万やら10万やら知らないが、厳つき軍隊の警備の元で催されるオリンピックなど… まあだから貴方は、そのまま『不幸に疲れた』状態にとどまり、慰めなど求めず、できれば何もせず、 ただ無常を観つめることでしょう。 そこから自ずと起こる行為がある。 …私的には、幸福とは獲得するものではなく、幸福のほうから私たちを包み込んでくる、感覚である。 つまり、その状態になろうというのではなく、 自然とそうなる。 そうなると、向こうのほうから私を獲得してゆく… * …『結局、人はなんで生きているのか?』 幸福を獲得するためだ…(笑 さて…死んだように寝るか。
- o-sai
- ベストアンサー率19% (199/1001)
#6です。再び失礼します。 >形而上学的の世界では「この世に矛盾はない」? この世とは、 今現在の宇宙の法則性に支配されていますので、 それにしたがっている限りは「矛盾しない」存在です。 ビッグバンから始まったとされるこの宇宙が現在は拡大期ですので、 熱エネルギー密度は刻々と薄くなっていきます。 この事象を「熱エントロピーの拡大」と言うそうです。 あらゆる元素は時間と共に崩壊しますし、 水は高きから低きに流れます。 地球上の生物はみな競い合うように形態を進化させ、 より多く、広く、確かにその存在を拡大しようとします。 物質のエネルギーを運動エネルギーに変換していく「現象」こそが「生物」の本質だからです。 親や親戚から合理的な行動を学び進歩するのは類人猿にも見られますが、 人類は言葉や文字を持ったので、 遠い祖先や外国の先人からも「行動的(知的)進化」を参照することができます。 たしかに狭い視野で地上を見れば、 人間の歴史や政治的事象は矛盾ばかりです。 歴史的にも最大の環境破壊は農業ですし、 一気に生態系を破壊する戦争の意味付けは?です。 哲学が「哲学の歴史学」「哲学用語と人物学」 「哲学から宗教への実践学」等になってしまい、 他の科学や知識を昇華させた人類の明日への道しるべ、 という本来の目的を忘れてしまっていますね。 (「方法論・序説」が序説だけで終わってしまったのが象徴的です) 本章を書くのは今後の我々の宿題です。 生物を同時期的にも同性的にも進化させ得るというウイルスの研究や、 包括的に宇宙法則を研究している理論物理学などにも目を向けて、 今後は加速度的に哲学が進歩していくことを願っています。
お礼
お礼が遅くなってすみません。 前後してしまいましたが、別件でもお答えいただいているようで、感想はそこでの補足、意見に代えたいと思います。 宇宙では法則どおりに終始しているのに、宇宙にとっては無きに等しい存在である人間世界は矛盾をくりかえしていますよね。でもこの矛盾こそ法則の確立のためにたえまなく進んでいく原動力だと思います。 貴重なご意見ありがとうございました。
- majimekun
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数学や哲学、心理学の存在意義が見つけられないのは悲しいね。 自分流の生き方を見つけられない典型的な証拠でしょう。 一生けんめい普通に生きている奴なら、 哲学の意味もわかるし、ましてや数学やっとけば良かったって思うよ。フツーは。 心理学だって、同じ。 まあ、心理学こそマーケティングなどの実務にも対応できる実学だとおもうけど。
お礼
お礼が遅くなりすみません。 確かに心理学は一見文系ですが、実は数学の分野なのですよね。 また一生懸命に生きていても哲学の意味は分からない人もいると思いますよ。 というか答えがでていないから皆自分なりの哲学を持つのでしょう。ですからあなたなりのご意見も教えていたいですね。あなたは数学、心理学、哲学の存在意義の答えを知ってらっしゃるようですから。 貴重なご意見ありがとうございました。
- sowow
- ベストアンサー率20% (18/90)
三度お邪魔しますm( _ _)m。#4#8の者です。 「お礼」も大変でしょうががんばってください。 >例えば不幸が初めにありき、でそれを中心に取り巻いて回避するために、幸福はあとからついてくるもの、と解釈してもいいですか? はい。キリスト教ちっくですが、そう思います。 「不幸と困難ありき」があまり意識されないのは、この生まれた時からの平和があたり前な状態と、現代教育とテレビのたまものではないでしょうか? 単純に「気持ちいい」という感情でさえ困難を回避するために仕組まれているものだと思います。 でもオリンピックとか見てると人間の幸福追求力ってのは、それ自体はあきれるくらい凄いもんだなともおもいますし、いいことだと思います。 だってオリンピックのどの選手に 「なんでわざわざそんなことするんですか?」って聞いてもちゃんと答えられる人いないでしょう?素晴らしいとしか言い様がない。 やりすぎがちょっと心配ですが・・。「あと」が怖いからなぁ。 >「報われないことが矛盾ではなく法則」であるというのは、「やっかみ」が何かの策略か?ということと共に、それは人間の進化のためだと解釈すべきでしょうか。私としては神様の背中の後押し、という感じです。 「困難」は進化の重要な要素だと思いますが、 解釈は自由だろうとおもいます。
お礼
お礼遅くなってすみません。 回答者様が意外にも多く、がんばってます(笑)。 >「気持ちいい」という感情でさえ困難を回避するため なるほど。セロトニンやエンドロフィンの存在はそんなところにもありましたか! オリンピック見てますよ。こちらもすごいパワーを分けてもらってます。 貴重なご意見ありがとうございました。
- daibutsuda
- ベストアンサー率34% (268/780)
#2です。 >でも「ない答え」に納得せず、答えを見つけようとする姿勢も素晴らしいと思います。学問の原動力はまさにそういうことではないでしょうか? 質問者様のおっしゃっているのは「見つからない答え」「現在主流になっている考え方」に納得せず、真実を追求する姿勢を持つこと、ではないですか? それを私は否定しているわけではありません。 私が言っているのは、「本当に答えがない場合」の話です。もうちょっとわかりやすく言うと「答えがないことが答え」という納得の仕方はないのだろうか、と言うことです。 別質問で「神様はいますか?」と言う質問がありました。私は「あなたの心の中にいます」と回答しました。これは「神様は存在する」と言う客観的事実を肯定したわけではなく、主観的事実を肯定したに過ぎません。 「客観的に神様は存在しますか?するとすればどこにいるのですか?」と言う質問なら、私は「アホか・・・」と思って回答しなかったことでしょうね。 >真実は存在するものすべてに存在するということで理解してもよいのでしょうか。 私は「真実はどこにも存在しない。ただ、信じることはできる」と思っています。
お礼
お礼が遅くなってすみません。 >「本当に答えがない場合」という納得の仕方 うぅ…図星です。そこで納得しない、私の悪い癖です。 全てが見つかったらそれはそれで面白くないし、進化もないですよね。 貴重なご意見ありがとうございました。
学問は真理を実証的に追究する営みです。何が正しく、何が誤っているかを論理的客観的な形で問題にすることだと思います。それに対して、「幸福」とはどこまでも主観的なものです。時代により、社会により、人により、何が不幸で何が幸福かは微妙に、また場合によれば真っ向から異なることがあります。学問は「幸せ」とはどういう概念、状態かを問題にすることはあっても、学問をした結果その人が幸せになるということはないのではないでしょうか。(むろん、学問による充実感や幸福感を感じることはあっても、それは学問に限らず、仕事や趣味で感じる充実感や幸福感と同じです。)例えば、宗教(これは学問ではありません)は人に慰めを与えるものですが、それと同じ意味で、宗教学(学問)が人に慰めを与えるわけではないと言うことだと思います。 また「人はなんで生きているのか」は、学問の営みの基底部に付きまとう根本的に重要な問題ですが、しかしそれは、学問がその問いかけに回答することをめざしているということではありません。学問は客観的に真理を追究するという性格を逸脱できませんから、主観の領域に終始せざるを得ないものは学問の対象になりにくく(学問に主観的要素がないというのではありませんが、それは学問の基底部にあって学問を支えるものです)、個別の学問の守備範囲はそれほど広くないのではないかと思います。
お礼
お礼が遅くなってすみません。 よくわかりました。 学問は追求することに意義があるのだと思います。 そこに幸福を感じるか、不幸を感じるかは人の主観によるものだと読み取りました。 今思い起こせば私の質問自体矛盾だらけで(笑)、たぶん自分の中にそのような答えはあったと思います。 ただ皆さんのご回答によって思い起こされたというか。 疑問(主体)→回答(客体)はお互い追求しあっていますよね。疑問があるから答えも出したい、答えが出るからまた新たな疑問もだしたい。 最初の方のご回答者様が「人間は考える葦」であると言われていますが、この姿勢こそがそうなのですよね。 何が慰めになるか、ということも本人のみの主観につきるということでしょう。 貴重なご意見ありがとうございました。
- sowow
- ベストアンサー率20% (18/90)
frau様おはようございますm( _ _)m ANo.#4の者です。再びおじゃまします。 質問を質問で返すのは失礼とは思いますが、気になることがあるんで、また質問チックになるかもしれませんが、一応書きますね。(無視してもよいです) >矛盾とは例えば「善人や正直者は必ずしも報われることはない」という現象です。 これは矛盾というより法則でしょう。 「善人や正直者は報われやすい」という。 ぼくはANo.#6様(イイこと言うね!)に大賛成なんですが、 表現方法がすでに「やっかみ的」なものが世の中多すぎると思いますね。 なにかの策戦か?ってくらい。 「思想」も人間が創った幸せの一つだからしょうがないといえばそうですが。 「学問」も楽しいから存在するんです。 矛盾をなくすという「役目」があるわけじゃないと思われます。 ・・・失礼しました。 でも、僕はけして悩みナシ人間なわけじゃないですよ。 人並みに「劣等感」ありますし。 自分でいうのもなんですが悩み多め人間かと・・。比べられるわけじゃないので解りませんが。
補足
sowow様おはようございます(^-^*)/ 私も質問を重ねてすみません。 前回のご回答での >「不幸は一つ=生命」であり、それを忘れるため >…あらゆる時代のあらゆる状況で…人間は「無数の幸 >せ」を探し工夫し創り出してきた についてですが、例えば不幸が初めにありき、でそれを中心に取り巻いて回避するために、幸福はあとからついてくるもの、と解釈してもいいですか? また今回の「報われないことが矛盾ではなく法則」であるというのは、「やっかみ」が何かの策略か?ということと共に、それは人間の進化のためだと解釈すべきでしょうか。私としては神様の背中の後押し、という感じです。 よろしくお願いします!
人には人にむち打たれて、幸福を感じることもあるらしく、原因としての価値と同じで、主観に負う所が多く、客観的に説明することは難しいですね。 科学や学問は、究極的には、人の幸福を追求するのですが、道半ばで、学問を判断するのは、科学に批判的な立場の私ですが、学問に対してややフェアじゃ無いと言わざるを得ないと、むにゅむにゅむにゅ。 私は、道楽で200年程前の経済学と言うより経済哲学的なことを考えて、自らを慰め、ささやかな幸福を得たい等と思ってますが、ここでの、スミスとカントの比較は面白いんです。 此処で詳しくは、書けませんが、スミスの経済学は社会に受け入れられ、経済の発展に繋がりますが、カントの哲学は、難解なせいか、哲学の基礎とはなりますが、学問の塔に押し込められ、一般への影響は少なかったような気がします。 つまり、学問は、社会を追認するのか、迎合するのか、あるいは、啓蒙するのか、いろいろですが、押したり引っ張ったりの力はあるのではないでしょうか。問題は道徳哲学に関して、カントではなく、スミスが「力」を与えた点ですが、これも難しいところです。 逆説的に申せば、慰めになるのなら、それで良し、とするのも幸へのみちかもね。 結論 明日にでも、全ての矛盾を科学的に解決した「預言者」が現れるかも(笑。 素直でない回答お許しください。
お礼
お返事遅くなってすみません。 私も科学には批判的です。それは原初的なもので創造されているのに、あえて根本をさんざ利用し無視する姿勢がいやだからです。私も「自然に帰れ」と言った方のように叫びたいです(笑)。 でも結果論としての「科学」で近代社会というものがあるわけですよね。その恩恵に甘んじている私も私で(笑)。 学問は使い方によっては毒にも薬にもなりますよね。 >明日にでも、全ての矛盾を科学的に解決した「預言 >者」が現れるかも だとしたらぜひ教えを請いたいです。 貴重なご意見ありがとうございました。
- o-sai
- ベストアンサー率19% (199/1001)
楽して(万能商品券、つまり金があって) 楽しく(異性にもてて) 健康に(身体的快楽、最も直接的な) 長生きできれば幸せです。 誰がなんと強がろうとそれが事実。 あとは他人への精神的影響力(自己存在の他への拡大、DNAを移動しない大掛かりな生殖行動)があれば完璧! あらゆる格言は、それらを持たない人間のやっかみであり、 皮肉的に自己を鼓舞する言霊です。 つまり、徹底的にその事実を受け入れられない心の中にこそ「矛盾」があるのであって、 世の中に矛盾があるのではないと考えればいかがでしょうか。 でも唯物的に過ぎれば辛すぎますので、 ショーペンハウアーしかりニーチェしかり仏陀しかり、 性欲旺盛な人物やそういった青春の時期、 失恋の痛手の反動なんかは哲学のエネルギーには持って来いですね。 そのエネルギーを明日の生活に向けて照射できればいいんでしょうけど。 (上記三人は誰も出来なかったんですが・・・)
お礼
こんばんは。 あなたは面白い方ですね(^-^*)/ 「DNAを移動しない大掛かりな生殖行動」なんて最高です。確かに格言も自慰行為的なところがあります。後世の人々の苦痛がそれによって励まされるって、まさに快楽ですね。 矛盾について他の回答者様もおっしゃっていますが、共通するところは、形而上学的の世界では「この世に矛盾はない」、ということでしょうか?
こんにちは あまりお役にたたないかもと思いますが、助言します。 質問の内容を見ていると仏教の?言葉で 『仏の顔が見てみたい』とか『私には仏も神もいない』 という感じでしょうか?? (私は無宗教、少しだけ仏教の本を読んだ程度) >結局人はなんで生きているのか? これは自殺でもしないかぎり、自分自身の運命によって生かされているだと思います。 先日、通勤途中で体調の悪かった朝、交通量の多い交差点で、いつも通っている信号を勘違いから無視して渡ろうとしていました。 その時、信号無視に気づいて危ないので戻ろうとした瞬間、『動くな!!』という波動を感じ、止まったところ 乗用車が私のスレスレの距離を通過。九死に一生を得た経験をしました。 その時、私は人生に半分だけ挫折していた時だったので 『生かされている』とか『仏、神は見捨てていない』 と感じました。 よって、私は『なんで生きているのか?』と聞かれたら 自分の運命、又は『仏、神??の意思』によって生かされていると答えるかもしれません。 >矛盾だらけの世の中・・思ってらっしゃいますか? 世の中、矛盾だらけの世の中に見えるかもしれません。 でも、よくよく観察してみるとエコを背景としてみていませんか?? 自分としては、矛盾はなく、「幸福になることは罪ではない。皆同じように平等である」のように平等なのかなぁと思います。 ちなみに、この意味はぁ 『幸福になることは、日頃の功徳、善行を行った結果として訪れた現象なのだから、罪ではない。そして徳、善行を積んだものは幸福を得るし、逆に徳、善行を行わず悪業をつみ続ける者は不幸になる。よって皆、同じように平等である。』 あくまでも、個人的な見解ですのであしからず 最後に・・>人生は幸を探す旅です。 この”幸せ”の定義は現世的には快楽、欲求を貪り満たすことをいい、仏教、その他のいう”幸せ”とは快楽を止め、消滅させ、快楽の裏にある”苦しみ”を消滅させた状態を”楽な状態”と呼ぶそうです。参考までに よけいなお世話かもしれませんけど、この質問の書き込みをきっかけにもう一度、素直になってはいかがですか?? 以上、長い回答で本当にごめんなさい。 もし、この回答から得られるものがあったら幸いです。
補足
仏教は私も興味をもっています。 その上でおうかがいしたいのですが >この”幸せ”の定義は現世的には快楽、欲求を貪り満>たすことをいい、 とは、「煩悩」のこと >仏教、その他のいう”幸せ”とは快楽を止め、消滅さ >させ、快楽の裏にある”苦しみ”を消滅させた状態 >を”楽な状態” というのは「悟り」のことと思ってよいのですよね。 また平等については、私は単に貧富の差や幸福の量的な差のことを言っていたのですがそれはまさに「五本の指に入る幸福」でした。でも平等は仏教における本当の幸福である「悟り」を開くためには、誰にでも目の前に開かれた道である、という解釈でよいのでしょうか?
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お礼
お礼遅くなりすみません。 さて…(笑) とても興味深いご意見ですね! 達観なさってらっしゃる。 >幸福とは『生きても生きなくても同じだという状態』 というお言葉で、私はこのサイトでのひとつの質問を思い出しました。それは「仕事も交友関係も順調。でも人の中にいるとどうしようもなく虚しくなることがある。それはなぜ?」という問いです。 私は質問で幸福は5本の指に入ると言いましたが、それはこの状態がそのひとつであるからです。 でも虚しくなるのは、それが幸福感としては完璧なものだからではないか?と予測するからです。「虚」というのは仏教でいう「空」のことではないでしょうか。 >「幸福とは無常性をその生の基礎とする」 だから「虚無感」は悪いことではないと思いました。 >無常を観ること…生を否定するものにすぎない ルソーは「自然に帰れ!」とおっしゃいましたが、「無常に帰れ!」ということでしょうか(笑)。 >幸福とは獲得するものではなく… なるほど!ありのままの自分?追えば逃げるというのは恋愛においての心理ならずとも、確かに「幸福はいつでも自分のそばにある」と日常のシーンで思うことはよくあります。 また…学問は慰めというより無常からの逃避の方法のひとつかもしれません。無常としっかり向き合っていたら無で終わるゆえ。 学問は神様の神秘を暴くことだと思っています。慰めというよりも、唯一人に残された意思のエネルギーの素晴らしさだと思います。 貴重なご意見ありがとうございました。