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封建制について

現在ヨーロッパ中世の封建社会に関する資料をよんでいるのですが、日本や中国で見られた封建制とはどのような違いがあるのでしょうか。 また私的にヨーロッパの封建社会は今までちらっと見てきた日本や中国の封建社会よりもより土台のしっかりした組織的な社会という印象を受けたのですが、 もしそうだとすると、なぜそこまで組織的な社会が形成できたのでしょうか。 なかなか深くて読み込めないもので、もし分かるかたいたらお願いします。

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  • reny
  • ベストアンサー率32% (81/252)
回答No.4

中国の封建制は、基本的に王族もしくは皇族とその官僚群である文官・武官の功臣に与えられたものです。 被支配地での彼らは小王族であり、中央政府と同様の官僚群を抱えていました。 周以前の中国は民族別都市国家の集まりとしての一面があり、王族が封建された国でも地域で言葉や風習が大きく異なっています。王族とその官僚群は一種の占領行政府的存在でした。 漢の中央集権制を基本とした封建制度では、土地に密着した存在ではないので、中央政府の指令で簡単に地位を剥奪されています。 日本では、律令制度のもとで本来土地は国有でしたが、人口の増加にともなって有力な貴族や寺院が後ろ盾となって農地の開墾が進みました。 そうした開墾地主から発生した在地領主が武士となり、自らの開墾地の所有権を認めてもらうために、京都の有力貴族の下に名を連ね、朝廷へ土地の所有権を保証してもらうよう働きかけていました。 平安~室町中期までの朝廷や幕府は、行政機関というよりは、土地所有の認証機関として考えた方が現実に即していると思います。 この仕組みでは、領地の所有権の争いが常に存在し、また大きな争乱の本質も相続争いでした。 ヨーロッパの封建制は、ローマ帝国という高度な流通機構と政治機構、技術からなる文明が崩壊したあとに出現しています。 中世は、ローマ帝国時代の石橋が「悪魔が一夜で作った橋」などといわれるほど文明が衰退し、地中海中に張り巡らされた街道網は手入れされないまま失われていきました。 結局、キリスト教会という非衛生的で非生産的な組織だけが生き残り、各地域は小さく分断されました。 その結果、古い都市貴族とゲルマン系の族長の一族が、土地所有を独占することになります。 こうした貴族の権威(土地所有の正当性)はキリスト教会から付与されましたが、王の存在は教会への「申し次」程度のものです(日本の公家貴族のポジション)。 個人的に優れた王が存在しても確立した王権というものの存在はありませんでした。 一口に封建制と言ってもその流れや背景が大きくことなります。

tomatooow
質問者

お礼

詳しくありがとうございました。よくわかりました。

その他の回答 (3)

  • jazz04
  • ベストアンサー率34% (43/123)
回答No.3

どんな人でもそうですが、「俺がこの地域の人を支配するんだ」と言えば「何であなたにそんな権利があるのか?」となるわけです。それで、どんな国家でも君主の権威の正当性ということについては、誰もが納得する理由が無ければならないことになります。基本的に地域支配者である「王・キング」は「皇・エンペラー」からその地域を支配する権威を与えられる事により主権者としての地位が生じる事になります。じゃ、「皇・エンペラー」は誰からその権威が与えられるのかと言うと、誰からも与えられず自分自身による絶対的な権威者と言う事になります。 絶対的な権威となると普通は「神から直接受けた権威」となる事が多くローマ教皇・中国皇帝・天皇などがそうです。例外的にナポレンのように絶大な軍事力を基礎にしてローマ教皇からではなく自分で自分の頭に王冠を載せることによりフランス「王」ではなく「皇帝」となったケースがあります。 そして、ヨーロッパの封建社会がしっかりしたように見えると言う事ですが、ヨーロッパの封建体制の根幹が「ローマ教皇」である以上、キリスト教の規範にあると言う事になります。キリスト教の規範は「聖書」という明文化された書物を基礎とする上に、生活上のルールとして拘束力を持つ性質がありますので、規範があいまいではなく「明確」な傾向が強くなります。 キリスト教圏では、君主の権威の由来と人々の生活上の道徳的規範までが同じ書物に由来すると言う事がtomatooowさんのお感じになる原因だとおもいます。 中国皇帝や天皇も宗教的な存在ではありますが、その宗教的意義は、皇帝や天皇の発祥の由来を伝える程度のもので実生活にまで明文化された規範を示して人々を拘束するほどのものではありません。つまり、人々の実生活と皇帝や天皇の主権には関連性が無いのです。ひょっとするとそう言う統一感の欠如がtomatooowさんの日本や中国の封建制に付いての印象につながっているのではないでしょうか。

tomatooow
質問者

お礼

ありがとうございました。よくわかりました。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4900/10358)
回答No.2

日本で言うと「ご恩と奉公」にあたる契約の考えが強かったからでしょうね。神の下での契約というのも関係あるかもしれません。ヨーロッパの封建関係は領主間の相対的なものです。国王がある土地について地方領主の配下になることもあり、国王といえども絶対的な権力はありません。領主の一人が選挙で選ばれたようなものです。 日本の江戸時代は封建的といわれることもありますが、ヨーロッパで言うと絶対主義に近い状態です。将軍が大名を改易(お家断絶)や転封(領地替え)を命じることが出来ましたが、ヨーロッパの国王がそんなことが出来るようになったのは絶対主義時代に入ってからで、封建時代には領主のその土地における権力は絶大です。 鎌倉時代も御家人にたいする幕府(北条氏)の権力は強いですね。ヨーロッパの封建関係に近いのは平安期の荘園時代や、室町~戦国でしょうか。 鎌倉・江戸時代も西欧絶対主義も主君の専横に不満が高まり革命で倒れました。

tomatooow
質問者

お礼

ありがとうございました。よくわかりました。

  • eria77
  • ベストアンサー率25% (49/196)
回答No.1

ヨーロッパ中世の封建社会の特色は、キリスト教と教会の影響が極めて強かった事です。 ドイツの皇帝がローマー法王から破門を言い渡され、 ローマーの門の前で雪の中、丸3日裸足で立ち続けて許しを請いました。 学問でもキリストの教えが正しいとされていました。 オシベ、メシベなど教育出来ませんでした。 日本の場合、筆頭大名が徳川家であり、実際は、どの大名が将軍になっても良いのであり、 「いざ鎌倉」のような忠誠心で成り立った武家集団ではありません。 (逆に土台はどんどん脆弱化して行った) ヨーロッパでは、国王と貴族(家臣)であり、天皇がいません。 ここに日本の脆弱性のポイントがあると思います。 維新は天皇の命令で時代が大きく動きました。

tomatooow
質問者

お礼

なるほど!ありがとうございます! よくわかりました。