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司祭、司教、教皇について

中世のヨーロッパの本を読んでいるのですが、司祭、司教、教皇とはどのような役割があり、どのような力を持っていたのでしょうか? 主に農村のことが書かれている本なのですが、修道院が荘園を支配していたり農民にも権力を持っているように伺えます。 なぜ彼らはキリスト教を布教する役割以外にも力を持っていたのでしょうか? 教皇が王と同等の力を持っていたこともあったというのがとても不思議です。 詳しい方にご回答を頂けますと幸いです。

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  • Nakay702
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回答No.2

以下のとおりお答えします。 >司祭、司教、教皇とはどのような役割があり、どのような力を持っていたのでしょうか? ⇒司祭、司教、教皇の各聖職位の役割や権限は次のように分掌されていたようです。 ・司祭:神学校での教育を受けたのち、司教によって任命され、司教の指導の下で活動する聖職者です。教区内の特定の教会を担当し、その教会の日常的な宗教活動を担います。すなわち、ミサの執行、洗礼、結婚式、告解などのサクラメントを執行します。なお、サクラメントとは、キリストによって定められた恩恵を受けるための手段・方法をいいます。 ・司教:司祭の上位に位置する聖職者です。高度な神学教育を受け、司祭としての経験を積んだ後、教皇によって任命されます。カトリック教会における高位の聖職者として教区を統括し、司祭や信徒の指導を担います。すなわち、教区の管理、司祭の任命、聖餐の執行、堅信礼の授与などを行います。 ・教皇:キリスト教の三大教派のひとつで、世界人口の2割弱に当たる13億人の信者を束ねるカトリックの最高指導者です。信仰に関する広範な問題・事件・紛争・方針などを教皇の最高顧問である枢機卿団の意見を勘案し、決定します。また、高位聖職者の任命権を行使します。初代教皇はイエス・キリストの12使徒のひとり聖ペトロとされますが、その後、今日までの教皇は「コンクラーベ」と呼ばれる枢機卿間の選挙を通じて選出されます。なお、枢機卿は、重要な案件について教皇を直接に補佐する枢機卿団を構成すると同時に、個々の枢機卿は、教会全体に関わる日常的な職務について教皇を助けます。また教皇選挙権は枢機卿だけがもちます。枢機卿は、原則として司教の叙階を受けた人の中から教皇が自由に任命し、任期は設けられていません。 >なぜ彼らはキリスト教を布教する役割以外にも力を持っていたのでしょうか? 教皇が王と同等の力を持っていたこともあったというのがとても不思議です。 ⇒確かに、好王との覇権争いなどは、聖職者の役割と結びつけがたいことですね。 ローマ帝国がキリスト教を国教と定めた当初(4世紀末のころ)は、布教や宣教以外の役割も権力も持たなかったことは確かです。ところが、キリスト教会が領地を持つようになったことをきっかけとして状況が変化し、政治的・経済的な権力を持つようになりました。つまり、5世紀ごろから、教権の上昇とともに、国王からの寄進などにより教皇領が増え始めました。教皇レオ3世は800年、フランク国王(カール大帝)をローマに招いて、ローマ皇帝の冠をカールに授け、彼に「西ローマ皇帝」の地位を与えました。 こうして西欧における政治と宗教の支配をフランク王国とローマ教皇とが分掌する約束が暗に成立しました。教皇権はさらに教化されていき、1077年の「カノッサの屈辱」以後、それまでの「皇帝教皇主義」は、実質上「教皇皇帝主義」となり、いわば「主従」の関係が反転しました。その後、教皇領の権威・権力は13世紀にかけて増大し続け、《政治的支配権・軍事力、徴税権、信仰の支配や免罪符の「販売」権》などをもって教皇領と教皇権は頂点に達しました。 この《 》内の部分に対する教会の所有欲が、「なぜキリスト教を布教する役割以外にも力を持っていたのか」に対する回答であり得ると思います。

その他の回答 (1)

回答No.1

1.司祭とは村や町のような限られた範囲で活動する聖職者です。地域の中心にあまり大きくない教会を持ち、地域の人々が必要とする儀式を執り行いました。また、貧民救済や療養の場をもうけて地域の福祉のために働くこともありました。司教とは、これらの小さな区域をひとまとめにしたより広い地域(司教区)で活動する聖職者、司祭の上位です。司教となると教会はより大きくなるのが普通でした。そして教皇は全てのカトリック教徒の代表、最高位の聖職者、神の代理人です。 2.教会が大きな力を持ったのは、フランク王国という国が王がキリスト教に改宗、国教と定めて領土拡張の征服戦争の大義名分として「野蛮で未教化の土地の人々にありがたい神の教えを広め、文明をもたらす」としてからです。征服した土地の要となる場所を選んで教会を建ててその周辺の土地を教会に寄付。教会はそこで布教活動を行い、時には施療施設(今なら病院)や孤児の養育施設を作ったりして信者を増やす。つまりそこが支配を固めていく中心地となっていきました。時には修道院を建ててそこで教育も行うし、酒を造ったり薬草を育てたりもする。これを繰り返して国も教会も大きくなっていきます。また、先日の英国王戴冠式でもあったように、名目上、王は最高位の聖職者(カトリックなら教皇)から冠を戴くという制度を作りました。これによってその王は「神が認めた」ことになるからです。当然、認めてくれた「神の代理人」には当時は莫大な資産が寄進されたわけですね。 3.聖職者は中世では数少ない「知識階級」でした。領主でも文盲は珍しくなかったそうですから、広大な領地の管理や、外交などは彼らに頼る他ありませんでした。また自分が文盲でも後継者には教育を、とおもったときに教師になれるのも聖職者。このあたりは、日本の戦国大名の多くが若い頃に僧侶を師としたのと同じです。また、ヨーロッパ内での紛争が起きた場合にも、教皇が介入して停戦、ということもたびたびありました。10世紀末から「神の平和」という教会が領主間の戦闘をやめさせ農民の安全を守らせるようなことも起こっています。