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本能寺の変の動機、四国説

長宗我部家に四国全島を約束しながら、三好家と四国を半々と約束を変更した織田家が粗暴、という意見がありますよね。あえて疑問を呈すると、 A. 四国と言っても六国か七国相当に広いのに、織田信長の最初の約束が寛大すぎた。 B. 長宗我部家と三好家が両家共織田家に協力したいなら、四国は山分けが合理的。 C. 戦国時代は同盟の破棄や鞍替えが頻繁だったので、四国半分安堵でも当時としては良心的。 一人っ子の長男が親の財産全てを期待していたのに、弟が生まれて状況が変わり、相続は半分だけになってしまった気分でしょうか。状況が変化したのだから当然ですが、ガッカリかもです。長宗我部家は戦闘を続けて自らの手で領土を拡大したから、尚の事ガッカリではありました。 とはいえ織田家は朝倉家に上洛を要求したり、ギリギリ呑めない条件を提示しては、侵攻する口実を作っていたかもですね。 切った貼ったの世界からは距離を置きたい気分です。

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  • oska2
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回答No.1

>長宗我部家に四国全島を約束しながら、三好家と四国を半々と約束を変更した織田家が粗暴、という意見がありますよね。 三好家と半々は、聞いた事がないのですが・・・。 信長は、近畿各地で三好一族と戦っていますよね。 私が聞いた・習ったのは「信長は、本願寺との戦いで忙しい。そこで、長宗我部の四国統一を(三好一族の本拠地攻撃を含めて)認めた」という話です。 >本能寺の変の動機、四国説 長宗我部家と、明智光秀は親戚なんですね。 元親の正室は、明智一族なのです。 ですから、信長の「四国統一を認める」という話を光秀が使者として長宗我部元親に伝えています。 ところが、信長は(本能寺に向かう頃には)「四国派兵の準備」をして既に息子を総大将に四国攻撃の準備も整えていました。 これでは、メンツ丸つぶれ+親族の危機ですよね。 この事が、本能寺にかんする「四国説」です。 質問者さまの四国説は異なりますね。^^;

DK000
質問者

お礼

時系列があいまいで失礼しました。最初は三好家は織田家と交戦していて、長宗我部家は明智家ないし斎藤家の親戚となったのですね、でも劣勢になったので三好家も織田家に恭順し、讃岐国と阿波国北部を安堵されたのですね。結果として、長宗我部家は土佐国と阿波国南部に領土を削られたのですね。 四国全島を約束する身びいきないしネポティズムは、適材適所で合理的な信長らしくない決定だったのかもと感じます。自分が烏帽子親でもひいきしないのは信長らしいですが。 一乗谷侵攻前に浅井家に連絡せず、比叡山焼討ち前に武田家に連絡せず、まあ事前に連絡しても反対されるだけだから連絡しない、桶狭間出撃時と信長の性格は変わらないですよね。長宗我部家への説明も簡素すぎたのかもです。発掘調査では焼け跡があまり見つからないそうなので、比叡山焼討ちは江戸時代に話がやや誇張されたのかもですが。 私は平民なので、どの武将も凄すぎです。

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