何かの雑誌 小説 推理物なんかには
この本能寺の変についてはいろいろ書かれていますよね
あとから見れば 光秀さんはなんで地位も名誉もかなぐり捨てて
火中に栗を拾ったの ということになりますもので
やっぱりなんか変ということで 後世をにぎ沸かすんですね
1, 光秀単独説
2, 光秀と共謀 朝廷黒幕説 (桐野氏は始めこの説でしたが 光秀単独説に変えられたようです)
3, 黒幕説のひとつに 秀吉関与か 直接黒幕説
4, その他 家康黒幕説
5, 宣教師説
とか ご存知でしょ
時代はまあ戦国の真ん中 下克上ですので
長い期間では 怠惰や 短い時間では 隙を 見せれば危険ですよね
時代が織田の力に集約されていくという感覚は織田軍団の武将はみんな抱いていたでしょうが それでも光秀の謀反ということだけじゃなく なんでもあるという戦国の風情はまだその先を鮮明にしていなかったのでしょう
だいたい若いころから信長は こういうパワーの薄い状態の中によくいましたから 浅井朝倉本願寺武田を屈服させて安心していたわけではないとおもいます
昔 信長の弟の中に喜六郎という者がおりましたが 守山の守将だった者に近くの川で矢で射殺されましたが 殺したほうを責めず 殺された弟を非難しています 理由は わしの弟たるものが友も付けずウロウロするからということです 自分も散々家来の心配を無視して 遠駆けなんどもしています また 西三河国境紛争戦(桶狭間合戦)のときも
熱田まで数騎で駆けています時速8Kmぐらいのスピードで(当時の馬はこんなもの) いくら自国とはいえですよ 戦争状態なのにね 夜半に
(まあこれは 直属の馬廻り兵が先に熱田へ行くように指示されていたようで)
といったように確かに京は力の空白状態で 討ち取るならジャストチャンスでしょうね 討ち取りたいが その後どうする という一点で
ほとんどみな目が覚める(笑) よほどの恨み そしてその恨みが長く持続しつつ何乗にも倍加するほどの恨み もちろん大いなる利の不具合
を蒙る団体さんたちは 死んでくれとおもうでしょう
いろいろの説をここでは書けませんので 秀吉だけにしておきます
ご存知とおり備中におりまして 毛利と対峙しておりました
秀吉が信長殺しを疑われたのは ひとつは あまりに早く帰ってきたからですね お前段取り良すぎるやん 知ってたんと違う 普通毛利怒って缶詰やで ということですね 当時瀬戸内海 日本海の制海権は 秀吉の側に優勢でした 毛利に従属する水軍が秀吉に寝返えっておりまして 海より毛利の後方または本地を攻撃されるおそれがありまして
毛利方としては 早く 信長が来る前に和議しておきたいという 状況でした (信長が来てしまってからでは 和議は許されないので一方的に押されて家は消滅するしかない)
備中から畿内までは織田の制圧管内ですし 何度も安土まで行き来しておりますし 秀吉という人は 「いざ鎌倉」という 準備にソツのない人ですので 道々ちゃんといろいろの物の備蓄は完備してあります
おお返しの道中備蓄準備の良さもさることながら
事において優先順位のつけかたがすばらしい人だったとゆうことではないでしょうか それがまた 事においてクズだった柴田さんらからみれば 疑惑をもたれるところなんでしょう
殺ったはいいが後はどうする その一点で目が覚めるといいましたが
当時秀吉も日本というものをマクロで考えるなんてことありえず
毎年前年対比30%の成績を上げろというワンマン社長にたいして
腹は立つでしょうが ぶんなぐろうとおもう人なら とうの昔に
あの世行きでしたでしょう
ですからわたしはこのはなし ないとおもいます
さて亀岡の地侍 本城惣ェ衛門の覚書には
家康を誅するから本能寺にいくといわれたとあります
明智秀光 斉藤利三という重臣の指揮の下で討ち入って 何人かの首を取ってその場で褒美をもらいましたと書いています
ただ本体との連絡がなかなか取れず 光秀がどこにいるのかさえ
わからなかったともいっています
光秀も討ち入ったと聞いて 腰を抜かして動転したのではないかと
わたしはね なんかの大いなる間違いだとおもっていますけどね
桶狭間もなんかの間違いで 負けるはずない義元が負けている
義元は完璧でしたからね 信長がやってくるとおもわれるところは
すべてといっていいほど 対処してますから はじめから決戦する戦略ではなかったようですし 信長もまさか突撃した先で義元を捕捉できるなんておもいもしなかったことだとおもいます
つれづれにかきましたすいません
お礼
沢山の方々より、色んな説を頂き有難うございました。 お一人お一人のご意見や、それぞれの説にのめり込み拝見させていただきました。 どなたの説が正しいのかの判断はし兼ねますが、大変勉強になり有難うございました。